歪んでいく心

 存在価値が揺らぎ始めたわたくしに追い打ちをかけるように、今度は弟が口を出し始めた。


 結婚までもう間もない日。わざわざわたくしの部屋まで来た弟は嫌味ったらしく告げる。


「姉上、くれぐれもこの家に迷惑をかけないでくださいよ」

「……あなたまで、わたくしに何をしろと言うの?」


 外に出るとまたあれこれ言われると思い、大人しく部屋にいてもこの通りだ。


 『期待はしていない、だけど迷惑をかけるな』。結局この人たちは、わたくしが何をしても気に入らないのだろう。それなら何もしない方がいいのではないか、そんな考えが頭を過ぎる。


 弟はやれやれと肩を竦めた。まるでわたくしが何もわかっていないというような仕草が癪に触る。


「人に頼るよりもご自分で考えてはいかがですか? 考える頭があるのですから。もっとも、考えてもわからないから聞いたのでしょうけど」

「……わたくしはわたくしなりにやっているわ。だから、ちゃんとシュトラウス卿と会っているし、淑女教育だって……」

「だけど、シュトラウス卿には避けられているのでしょう?」

「それは……」


 弟の射抜くような視線に耐えられず、わたくしは目を逸らした。そんなことは、言われなくてもわかっている。


「僕はあなたがシュトラウス卿の関心を手に入れられるとは、欠片も思っていませんよ。あなたには何の面白味もありませんしね」

「……あなたはわざわざわたくしを馬鹿にするために来たの?」


 わたくしの声はみっともなく震えていた。悔しいし、悲しくて、今にも泣き出しそうなのを必死に堪える。


 弟はあからさまなため息を吐いた。


「僕もそんなに暇ではないのですよ。あなたと違って。あなたが失敗しないようにと、わざわざ助言しに来てやったんです。好かれないのなら、せめて嫌われないようにしてください」

「……好かれないことと、嫌われないことは一緒でしょう?」

「違いますよ。好きも嫌いも相手に興味があってのこと。その反対は無関心。つまり、興味を持たれなければいいのです。まあ、今の感じではシュトラウス卿はあなたに興味がないようだから、成功だと言えるでしょう」


 ──興味がない。


 ぐさぐさと言葉が容赦なく刺さる。

 弟の言葉はおかしい。わたくしが好かれるはずがないから、嫌われないようにしろとは。無関心が正しいなんて誰が決めたの?

 わたくしは、どうやったら好かれるかがわからないだけだ。


 だけど、確かにわたくしは面白い話もできないし、彼の興味を引くようなものを持っているわけでもない。


 ただ彼が好きなだけなのに。


 言われ続けていると、次第に弟の言葉が正しいような気がしてくる。弱気になったわたくしは、つい口にしてしまった。弟を信用してはいけないとわかっていたのに。


「……それならこのままでいいということ……?」

「いえ、それでは駄目でしょうね。あなたはシュトラウス卿の不興を買わないように従順でいなければいけない。間違っても口答えはしないでください。それに、ご自分から何かを強請るのも良くない。あとは、そうですね……」


 弟は眉を寄せて考え込んだ後、衝撃的なことを告げる。


「シュトラウス卿の愛人を容認してください」


 聞き間違いかと思い、わたくしは目を瞬かせた。嫌われないために、何故愛人を容認する必要があるのか。あまりにも理解の範疇を超えていたので、わたくしは聞き返した。


「愛人を認めろということ……?」


 弟は物分かりの悪い子どもを見るような視線をわたくしに投げかける。


「だからそう言っているではないですか。あなたには女性としての魅力がないんです。だから、シュトラウス卿が別の女性に目がいってもおかしくはない。あなたはただ、別の女性のところに行くシュトラウス卿を黙って見送ればいいのです。冷めきった家庭でも、喧嘩するよりはマシだ。シュトラウス卿の不興を買って政略が台無しになるよりはいいと思いませんか?」


 酷い。マインラートへの、まだ生まれたばかりの恋心を踏みにじるような言葉の数々に満身創痍だった。


 何故わたくしは愛を求めてはいけないのか。血の繋がった家族であってもそれを否定する。

 次第に怒りが込み上げて、わたくしは声を荒げた。


「……そんなの、認められるわけがないでしょう……!?」


 弟は目を眇めて酷薄に笑う。


「本当に物分かりの悪い人ですね。そんなにも体で思い知りたいのですか? まあ、それでも僕は構いませんけどね。じゃあ、始めましょうか……?」


 弟の手がわたくしに伸ばされ、わたくしは咄嗟に頭を庇う。まずは髪の毛を掴まれるのかと思ったのだ。だけど、予想に反して弟は伸ばした手を止めた。それに気が緩んだわたくしから体の力が抜ける。その時だった。


「うっ……」


 弟の手は拳を作り、わたくしの腹に埋まる。痛みと衝撃でわたくしの視界がぼやけた。立っていられず蹲ると、髪を掴まれ、上を向かされる。生理的な涙で滲む視界に薄っすらと、弟の口元が歪むのが映った。


「馬鹿ですね。見える場所に傷をつけるわけがないでしょう。それ以上あなたから商品価値を落としたくはないですからね。ですが、勘違いしては困りますよ。これはあなたのためにやっているんです。あなたがあまりにも物分かりが悪いから。いいですか。あなたはただ黙って従えばいいんです。わかりましたか?」


 そんなことに頷きたくはない。だけど、わたくしが是というまで弟は教育という名の暴力をやめないだろう。そして、両親にでも見られたら更に酷いことになるのは目に見えていた。わたくしの心が少しずつ絶望に塗り潰されていく。


「……わ、かり、ました……」


 かすれ声で了承すると、弟は満足気に笑った。


「それでいいんです。あなたは誰にも愛されないのだから」


 それだけ言うと弟は去って行った。一人残されたわたくしは、泣くこともできずにその場で呆然としていた。


 弟の最後の言葉が心にこびりついたまま──。

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