第3話


エマはちゃんと生きていた。プラットホームから落ちたエマを守ってくれたのは久保田だった。不思議なことにエマがしっかり覚えているのは迫ってきていた電車の様子と久保田の顔。だけどその代わりにすっぽりと頭から抜け落ちるように忘れてしまったのは自分がどうしてそんな状況に陥ったのかの直前の記憶。

真っ黒なコートの裾をなびかせて飛び込んでくれた久保田はまるで映画に出てくるダークヒーローバットマンみたいだったと後から一部始終の目撃者が教えてくれた。ちょっと痩せていて飄々としたコウモリだったと。

「まるでアクション映画でも見ているようやったで。」

目撃者のおじさんはそう言っていた。おじさんに聞いた話によるとエマは混雑したプラットホームを歩いていてすれ違った女に突き飛ばされたそうだ。プラットホームはありえないほど人でいっぱいだったのでエマはホームの外側ぎりぎりを仕方なく通っていた。そういえば、とエマはなくした記憶をたどってみた。前から来た名前も知らない女性が、なんだかぎらついた眼をしていたのまでは覚えていたけれど、突き落とされたときの記憶は完全になくなっていた。多分落ちたショックで記憶が飛んでしまったんだろう。

人が落ちたと、大騒ぎになるよりも一瞬前に久保田が飛び込んで、倒れたエマを引っ張り抱きすくめてせまりくる電車から逃げてくれた。そのままプラットホームの下のわずかな隙間に連れ込んでくれたおかげで、エマはかすり傷で済んだのだ。

「あの兄ちゃんはホンマに素早かったで。なんちゅう勇気のある人やと思たわ。ねーちゃん感謝しなあかんで。」

感謝してもし切れないほどだ。あの時見た男の人は、死に神なんかではなく、私の命を守ってくれた人だったのだ。

エマを突き落とした女の人は逮捕され、その後警察で取り調べを受けた。警察の報告によると彼女は少し精神的に問題のある人だったそうだ、でもその時彼女がなにを思っていたかはエマにとってどうでもよかった。あのまま死んでいたかと思うとぞっとする。顔も知らない相手なので彼女を恨む気持ちさえ起きなかった。それよりもあの時の命の恩人の顔をしっかり覚えられてよかったと思ったし、彼にお礼を言いたいという気持ちの方が大きかった。

「ホンマに運がよかったなあ。あのままやったら当然ねーちゃんは死んでたで。」目撃者の人のよさそうなおじさんは何度もそういった。その人もエマと同じくらい久保田の勇敢な行動に感心しているように見えた。雨はいつの間にかやんでいた。

「だけど、警察に電話したりねーちゃんを開放したりするのに忙しくて、兄ちゃんの方をあまり気にしてへんかったらいつの間にか消えてしまって。クールな人やってんなあ。」

おじさんは残念そうに話してくれた。駅の救護室に寝かされていたエマが目を覚ました時には久保田はすでにどこにもいなかった。助けてくれた久保田は駅員に気を失った私を受け渡すとそのまますっとかえってしまった。駅員は何とか引き留めて名前と電話番号をきいてくれていたらしくそのメモを渡してくれた。




「だけどここだけの話、彼ちょっと迫力があったんだ。雰囲気がね。」




駅員がこっそりそう言ってエマに渡してくれたメモには久保田誠という名前と電話番号だけが書かれていたのだ。いたく感動したエマは久保田にお礼を言いたいという一心だったのだけど、彼の方はややこしいことには巻き込まれたくないらしかった。というのも電話番号が嘘だったからだ。




エマはもちろんその電話番号にかけてみたけれど現在使われておりませんというアナウンスが流れ、つながらなかった。番号が嘘なら名前も本名かどうか怪しい。達分だけど、偽名だろう。なんで?それにちょっとだけ気になることがあった。駅員の言った迫力とはどういう意味だろう。。偽の番号を書くなんて助けてくれた割には冷たいような。名前も嘘だったら寂しい気がする。だけどそれ以外呼びようがないから私は久保田誠という名前をしっかり覚えた。そして何が何でも探し出そうと決心をした。




エマの久保田への思いは、映画の俳優を見て憧れを抱く感じに似ている。好きなアイドルに熱狂してぼーっとなる感覚だ。どこかでその人を理想化していて恋に恋をしている楽しさがあった。




ベットには寝る前に読んでうとうとするための何冊かの恋愛小説が置いてあり、おとぎ話とか、報われない恋とかが好きだった。今読んでいる本は吸血鬼と人間の報われない悲恋のおとぎ話だ。




大学時代にはもちろん彼氏もいて、現実の恋愛はそんなに夢みたいなもんじゃないとわかってはいた。友達はもう結婚して子供ができていて、この前ランチしたらちょっと太っていた。そうやって地に足の着いた生活をして普通の平凡な旦那さんと恋愛感情なんて忘れて家族になってのんびりやっていくのが幸せなんだろうなとわかってはいたけれどそれでもやっぱり心が躍るようなときめきを感じたくて、王子様にさらわれるお姫様になってみたくて、そんな恋がしたいと思っていた。




命の恩人なんていうシチュエーションはそんなエマにまさにうってつけで。だからどうしてもまた彼に会いたかった。瞳を閉じて妄想する。あの人はどんな人なんだろう、どんな声で話すんだろう、私の脳内では今読んでいる小説の吸血鬼と重なってあの人が優しく微笑んでくれた。そうやって夢見心地でうとうとして眠る。

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あの電車でまた会おう おしゃれ泥棒 @umum

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