第2話


曇天。雨がザアザア降っていた。

その時エマの目にはスローモーションで景色が流れていた。電車のホームから突き飛ばされて線路に落ちていく途中のエマには時速100キロで迫ってくる電車が限りなく遅く見えた。こういうのを瞬間記憶というのだろうかエマは今でもその電車の前面を細部に至るまではっきり思い出せる。エマの世界からは音が消えて映画のカット割りのようにすべてが静止画にみえていた。轟音、爆音。迫り来る電車に命の危機を感じる暇もなく。

ああ、私これで死ぬんだなと妙に冷静な思考をするエマがいた、短い人生だったな、まだやりたいこといっぱいあったのに。

美味しいものも食べたかったし恋だってもっとしたかった。その時目の隅っこに黒いコートの人がちらりと映ったけれどそれが何なのかはわからなかった。そしてあり得ないほど遅くだけど確実に電車が迫ってきていた。ここでいったん記憶が途切れる。

次に覚えているのはなぜか隣に男の人がいたことだった。エマは彼に抱きすくめられていて黒くて太い眉毛と細い目の横顔、形のいい鼻筋とその下の薄い唇をまじかで見ていた。この人はだれ?死神かな?とちょっと思った。あれ、死神って結構カッコいいじゃん。それに……。薄れゆく意識の中不思議と脳裏に焼き付いたその顔を見ながらエマは次のことを考える間もなくすうっと意識を失った。

エマが線路に落ちて10秒たつか経たないかのうちに轟音を響かせて電車が通り過ぎたらしい。それは駅には止まらない貨物列車だった、らしい。「人が落ちたぞー!!」という声と金切り声の悲鳴が起きてプラットホームは騒然となった、らしい。すべては後から教えてもらったことだ。

自殺志願者では決してなかった。エマはまだ将来のある希望に道溢れた若い女性で、日常も上手くいっていたし若さが優しさにとって変わって皆から愛されていた。友達も多い、両親兄弟も健康で社会で活躍していた。そんなエマが何故?無差別に選ばれてたまたまそこに居合わせたというだけでプラットホームから突き落とされた。

電車は緊急停止した。が、みたところエマはこのままでは死亡が確実だった。人混みが騒がしくなり、悲鳴があがり、誰もが最悪の事態を予想した。そんななか、そそくさと立ち去った一人の女がいた。帽子を目深にかぶり全身黒の服で、目立たないようにしているが逆に怪しい。エマを突飛ばした張本人は都会の薄暗い路地へと消えていった。しかし、監視カメラにはその姿がきっちり写っていた。

久保田はその女をずっと前から尾行していた。理由は、同じ匂いを感じ取ったから。久保田は何も関係ない人を不幸のどん底に突き落とすことに何の躊躇もなかった。女は、おかしな目付きをしていた。関わったひとを陥れる目。何の関係もないひとを直感的に殺害してしまう危うさをもった精神。ふらふらとしていて、自分自身が見失われていて善悪の区別がつかない人物。女は案の定エマを突き落とした。瞬間、久保田も一緒に飛び込んだ。ずっとマークしていたからできたことだ。

エマが落ちて間二秒で久保田はホームに飛び込んだ。エマを抱き抱え電車の、脇の隙間に滑り込む。貨物列車がけたたましい警笛を鳴らして緊急停止した。久保田は肩を擦っただけでエマは無事だった。ショックで気を失っていた。騒然となるが久保田は冷静だった。バイタルを手ではかり、エマの脈拍呼吸に異常がないことを確認し、そろっと優しく抱き抱えなおす。駆けつけた駅員にエマを渡し久保田は頃合いを見計らって人混みに紛れて逃げた。探られたくない腹があった。

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