78話「12月14日 その5」


 気が付けば段々と陽は傾いてきて、既に夜空が広がりつつあった。

 さっきまで真っ赤に染まっていた屋上にも、少しずつ影が伸びている。

 俺の目の前に立つ春菜の表情は、先程までとは違って今ならはっきり見える。

 顔を夕陽よりも真っ赤にしながら、それでも目は俺をしっかりと見ていた。

 そんな春菜の様子から、今彼女が言ったことは冗談なんかじゃないということが分かる。

 俺はもう一度、頭の中で言われた台詞を反芻した。

 結果、導き出される結論はやっぱりひとつしかない。


「俺は……春菜に告白された、ってことだよな?」

「こ、告白って……!」

「あ、あれ……違ったか?」

「あ、合ってる!合ってるけど!……そんなはっきり言わなくても良いじゃん」


 恥ずかしそうに言う春菜の様子から、やはり親の解釈は正しいようだった。

 まさか義理とはいえ妹に告白されることになるとは。

 青ねえといい真白台といい、死に戻りしてからモテ期でも到来しているのではないだろうか。


「じゃあ、最近悩んでたことっていうのは、もしかして……」

「……勿論、死に戻りのことだって悩んでなかったわけじゃないよ。さっきも言ったけど聞いたときは驚いたし、今だって信じてはいるけど戸惑ってもいる……」

「そう、だよな……」

「け、けどね!けど……今日言いたかったことは、そんなことじゃなかったの。わたし、わたしね……最近、変なんだよ」

「変?」

「お兄ちゃんを見てると、自然と心が弾むの。一緒に笑ってくれると、心の底から嬉しくなるの」


 春菜は真っ赤な顔のまま、それでも素直に自分の気持ちを話し始めた。


「誰かがお兄ちゃんと話したり、楽しそうにしてると……本当に自分でも馬鹿だと、やな奴だと思うけど……嫌な気持ちになる。嫉妬、しちゃうの……」

「そう、だったのか」

「こんなの可笑しいって、自分でも思ったよ?間違ってるって。だってわたし達は義理とはいえ……兄妹なんだから」

「春菜ーー」

「分かってる!分かってるよ!わたしだって何度も諦めようとした!だけど!だけど……」


 春菜は、泣きそうな表情をしていた。

 今にも溢れ出してしまいそうな感情を何とか抑えようとしている、そんな風に見えた。


「……駄目だった。お兄ちゃんへの気持ちを諦めようと、仲の良い兄妹でいようとすればするほど。気が付いたらお兄ちゃんを目で追っていて。自分でも抑えられないくらい、気持ちが大きくなっていって……辛かった……」

「……ごめん。俺、知らなかった。春菜がそんなに苦しんでいたなんて。俺のせいで辛い思いさせて、悪かった」

「謝らないで。お兄ちゃんは悪くないんだから」

「でも春菜も悪くない、だろ?」


 俺の言葉に春菜は少しだけ微笑んで、そしてゆっくりと首を横に振った。


「本当はね、こんなこと言うつもりなかった。気持ちを抑えられないなら、距離を取るしかない。そう思ってしばらくお兄ちゃんを避けたの」


 それがあの文化祭の後の、1ヶ月くらいだったということなのだろう。

 急に俺を避け始めた春菜は確かに様子が変だったけれど、まさかこんなことになっていたとは想像も出来なかった。


「でも、やっぱりそれも駄目だった。わたしはあんなに冷たくしたのに……お兄ちゃんは、それでもわたしを助けてくれた。いつだってそう。わたしが辛いとき、お兄ちゃんは必ずわたしを助けてくれた」

「……それは、違う。違うんだよ、春菜」

「……え?」


 本当は口を挟むべきではなかったのかもしれない。

 わざわざ言う必要なんてなかったのかもしれない。

 でも俺には無視することなんて出来なかった。

 俺は春菜が言うような理想の兄なんかじゃない。そんな最低の事実を、どうしても隠しておけなかった。


「死に戻りする前の……本当の俺は、春菜が言うような奴じゃないんだよ。俺はお前を……家族を見捨てたんだ」

「お兄ちゃん……」

「俺は自分が可愛くて、周りの反応が怖くて一切お前に話しかけることもしなかった、大馬鹿野郎なんだよ……。お前が虐められていた時に、俺はそれを遠くからただ眺めてたんだ。辛そうにしてることすら、気が付かなかったんだよ。お前に“お兄ちゃん”なんて言われる資格なんて、俺にはないんだ。だから、お前に好きになってもらえる価値なんて……俺にはないんだよ……!」


 まるで吐き捨てるように、思いの丈を全てぶつけた。

 でも、きっとこれで良かったんだ。だって俺なんかに春菜が思うような価値なんて、一切ないのだから。

 けれどそんな俺を、春菜は澄んだ目でしっかりと見つめる。

 一体なんで、そんな表情が出来るのだろうか。


「……そんなこと、関係ない」

「……え?」

「ごめんね。だけどお兄ちゃんの言ってることが本当だったとしても、わたしの想いは全く変わらない」

「そ、そんなわけ……」

「正直ね……お兄ちゃんが何年後から死に戻りしたとか、その時何をしてしまったとか、そういうことは関係ないよ。だってわたしが好きなのは、“今の”お兄ちゃんなんだもん」

「今の、俺……」

「お兄ちゃんに昔何があったのか、わたしには分からない。辛いこと、悲しいことがいっぱいあったのかもしれない。でもね、わたしにとってお兄ちゃんは貴方しかいない……わたしが好きなのは……今の貴方なんだよ」


 春菜は恥ずかしそうに、でもはっきりと俺に聞こえるようにそう言ってくれた。

 俺がその時、一体どんな表情をしていたのかは分からない。

 でもその春菜の言葉で、俺は救われた気がした。

 ずっと昔に犯した罪が、許された気がした。


「…………ありがとう、春菜」

「お礼を言われる意味はよく分からないけど……まあ、どういたしまして」

「はは……本当に、ありがとな」


 俺はやっと辿り着くことが出来たのかもしれない。

 ずっと逃げ続けていた自分から、ようやく決別出来たような気がした。


「…………そ、それで?」

「ん、どうかしたか?」

「……んじは?」

「え?」

「へ、返事っ!わ、分かるでしょ!いちいち言わせないでよ!」

「……あ」


 さっきよりも一層顔を真っ赤にして、春菜は恥ずかしそうにこちらを見ている。

 そうだ、俺は告白されたんだ。話が脱線したせいですっかり忘れていた。

 ……そうか俺、妹に告白されたのか。

 こんな状況勿論経験したことなんてないからか、頭が真っ白になる。

 返事をするってことは、つまり付き合うかどうかを決めるってことか。

 俺が春菜と、恋人になる……?

 今まで彼女を救うことしか考えたことがなかった。

 まさかこんなことになるなんて、誰が想像出来ただろうか。


「え、えっとだな……」


 何か言わなければならないことは、分かっている。

 分かっているはずなのに言葉が出てこない。

 一体なんて言えば良いのか、自分でも全く整理がつかなかった。


「はっきり、言って?わたしに気を遣う必要なんてないから。自分の気持ちに正直になれて、今は清々しいんだ。だから、どんな答えだって大丈夫。だから、お兄ちゃん……お願い」


 そう言った春菜の肩は、遠目でも分かるくらいには震えていた。

 きっと今の春菜は俺以上に緊張して、頭が真っ白になっているに違いない。

 そんな春菜に対して俺がしなければならないのは、誠心誠意答えること。

 今の素直な気持ちを伝えなければ、それこそ彼女に失礼だ。

 一度ゆっくりと目をつぶってから、しばらくして春菜を見る。

 そしてーー


「……春菜、俺ーー」























バキンッ!!!







 ーー“その音”は屋上に響き渡った。

 春菜が寄り掛かっていたフェンスは音を立てて、一気に崩れ落ちていく。

 そしてそれに巻き込まれる形で、寄り掛かっていた彼女は宙に投げ出された。


「あーー」


 驚いた表情の春菜と、目が合う。

 これから自分に何が起こるのか全く分かっていない、そんな表情だった。

 そしてそのまま、まるで時間が止まってしまったかのように全ての動きが止まる。


『なん、だーー』


 俺自身、一歩も動くことも言葉を発することも出来ない。

 ただこれから起こる悲劇を、止まった世界で眺めるしかない。


『ふざけん、なよ……』


 助けに行きたくても、足がまるで地面に縫い付けられたようにぴくりとも動かない。

 それに春菜は既に空中に投げ出されている。

 このまま走ったとしても、落下する前に引き上げることは出来そうになかった。


『なんで……だよ……』


 心を、ゆっくりと絶望が侵食していく。

 やっとここまで辿り着けたのに、結局結末を変えることは出来なかった。

 このまま春菜は屋上から落ちて、死ぬ。


『……はは』


 俺がやってきた事は、結局無駄だったわけだ。

 死は俺を嘲笑うかのように、春菜の死にゆく姿を見せつける。

 俺のせいだ。

 俺がもっと早く春菜の気持ちに気が付いてやれたら。

 今日、いずれかのタイミングであいつの話をもっと真剣に聞くことが出来ていたら。

 そうしたならば、春菜が屋上に行くことは無かったはずだ。

 全ては、俺のミス。

 俺が、春菜を殺したも同然だった。


『…………もう、終わりだ』


 止まった世界の中で、俺の心は完全に折れたーー




















『思い出して』


 ーーはずだった。

 どこからか聞こえて来るその声は、さっきも聞いたものだった。

 止まった世界の中で、その声だけが俺に語り掛けて来る。


『諦めないで』


 ……無理だよ。

 身体はぴくりとも動かないんだ。

 それに動いたところで、もう間に合わない。

 ここからじゃ春菜を救うことなんて、出来るはずがないんだ。

 もう、どうしようもないんだよ。


『大丈夫。薫は、もう一人じゃない』


 何故か、その声を聞いていると懐かしくなって来る。

 どこかで聞いたことのあるその声は、不思議と俺を勇気づける。


『信頼できる仲間が、今の貴方にはいる。だから、信じて。皆を、自分を。諦めないで、薫……!』


 もうどうしようも出来ないはずなのに、それでも“彼女”はそう言った。

 そうだよな、そうなんだよな。

 ここで諦めて、その後どうするというのだろうか。きっと後には後悔しか残らない。

 まだやれることがあるなら、俺は抗いたい。

 最後まで、諦めることを諦めたい。

 まだ、そのチャンスがあるというのなら、俺は……!


『私たちで紡いだ今を、その先の未来を見せて』


 背中に、温かい感触を感じた。

 屋上には俺と春菜以外、誰もいないはずなのに。でも俺はこの温かさを知っている。


『さあ、行って。薫、お願いーー』


 そして俺はその瞬間、確かに“彼女”に背中を押されたような気がした。















「ーーぉぉぉぉぉお!!」

 気が付けば時間は動き出していた。

 俺は落下するフェンスに向かって、叫びながら駆け出す。

 既に空中に投げ出された春菜には、それでもおそらく届かない。

 だから俺はーー


「春菜ぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

「お、お兄ちゃーー」


 ーー空中へと身を投げた。

 そしてそのまま空中で春菜を抱きしめる。

 たとえ俺が死ぬことになったとしても、春菜だけは絶対に助けてみせる。

 絶対に死なせはしない。そんな俺の信念が、恐怖に打ち勝った結果だった。


「くっ!?」


 俺たちはそのまま地面へと落下していく。

 春菜をきつく抱きしめながら、目をつぶる。

 神様でも偶然でもなんでもいい。誰でもいいから、春菜だけは死なせないでくれ。

 そう強く願いながら俺は落ちていった。



 ーーそして落下の衝撃と共に、俺の意識は途切れた。

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