断章9「穴来命の物語」


 夜の病棟は静かすぎてまるでこの世界に自分しかいないような感覚に陥る。

 辛うじて淡い光を放つ非常灯を頼りに、慎重に歩いていると目的の部屋に辿り着くことが出来た。


「306号室……ここ、だ」

 

 もう一度送られてきたメールを確認する。

 そこには確かに『306号室で待つ』、そう打たれていた。

 差出人を、そして病室の名前を見つめるがやはり間違いなかった。

 そのどちらにも‘四宮薫’と書かれている。

 この中に、彼がいる。そう実感した瞬間、心臓の鼓動が早鳴るのを感じた。

 でもそれは決して良い意味なんかではない。

 その証拠に頬を冷や汗が伝っていく。


「……大丈夫、だよね」

 

 そう口に出した私の声は微かに震えていた。

 あれから、四宮薫が記憶を引き継いだまま、死に戻りを繰り返して今回で5回目。

 4回目までは特に異常はなかったはず。

 それでも呼び出されたのが病室となれば、変な勘ぐりもしてしまう。

 前に実験したあの通り魔は、一体何回目で精神が崩壊してしまったんだっけ。

 思い出そうとしても、もう何百回も前のことを思い出せるはずもなかった。

 それに仮に思い出せたとして、一体何の慰めになるのだろう。

 仮に心の耐久値があるとすれば、勿論それには個人差があるわけだし第一通り魔と薫では状況が違いすぎる。

 薫の場合、死に戻りするのは10年も前なのだ。

 もし彼が妹を救うことに失敗すれば、私と出会うまでの時間を彼はまた後悔の中過ごさないといけない。

 それを、もう今回も含めて少なくとも50年分は経験している。

 確かに私は薫に言った、薫を殺す、そして彼の願いを叶えると。

 でも肝心の四宮薫が‘壊れて’しまったら、きっともう元には戻れない。

 もう彼の願いは、私の唯一の生きる希望は…二度と叶うことはない。


「………あっ!」

 

 想像しただけで震えが止まらなくなる。

 そして私はつい、持っていた携帯電話を思い切り落としてしまった。

 静まり返った病棟に、無機質な音が響き渡る。

 やってしまったーー


「……誰だ?」

「あ、あの……」

「…その声、命?命なのか」

「う、うん……私、穴来命」

「良かった……上手く忍びこめたんだな。悪いけど、入って来てくれないか?」

「わ、分かった……」

 

 扉越しに聞いた薫の声は、そこまで変わってはいなかった。

 もうこうなれば覚悟を決めるしかない。

 一度深呼吸をしてから、鈍く光る取手に手を掛ける。

 氷のように冷たいその感触に耐えながら、私はゆっくりと扉を開けた。


「ーー久しぶりだな、命。本当に、本当に君を待ってた」

「あ……」

 

 私が室内で見たのは、顔以外は全身包帯だらけの人間だった。

 窓から入ってくる月明かりに照らされて、無機質な病室に彼だけが浮かび上がる。

 真っ白な包帯と、唯一見える顔。

 その顔はやはり私が知っている四宮薫のものだった。

 何よりも彼の声が、目の前にいる人間が四宮薫であることを物語っている。

 だけど、そうだけどーー


「…こんな格好で、本当にすまない。でも君が来てくれて、本当に良かった」

「な……なんで……?」

 

 情けないことに、私はそんな言葉しか発することが出来なかった。

 そんな私に、それでも薫は以前と同じように優しく話しかけてくれる。


「先に言っておく。これは君のせいなんかじゃない。全ては俺の弱さのせいなんだ。だから、君が気にする必要は全くないんだ」

「何が、あったの……?」

「……命、本当に君のせいじゃーー」

「いいから教えてよっ!!」

 

 無機質な病室に、私の声だけがこだました。

 こんな時間に大声を出したら、きっと誰かに気付かれてしまう。

 でも今の私にそんなことを考えている余裕なんて、全くなかった。

 ただ目の前の現実を受け入れようとするのに、精一杯だった。


「…………俺は、また失敗したんだ。妹を、春菜を助けることが出来なかった」

「…そう、なんだ」

「駄目なんだ。何度やっても春菜を救うことが、出来ない……。どれだけ最善を尽くそうとしても、最後にはあいつは死んでしまう…」

「薫……」

「俺は、もう俺にはどうする事も出来ないんだよ。最初から、こんなこと無理だったんだ…。死んだはずの妹を救うなんて、そんなこと不可能だったんだ……!」

「そんなこと……」

 

 ――ないと、そうはっきり言うことが出来なかった。

 だって目の前にいるのはまるで少し前までの自分そのものだったから。

 薫を救うことが出来なくて、何度も目の前で死んでいくのをただ見ているしかない無力な自分そのものだった。

 だから否定することが出来ない。私だってたまたま薫が死なない道を見つけることが出来たに過ぎない。

 それに、私と薫では繰り返す時間が違いすぎる。

 再び目の前で救いたかった人を失って、そのまま長い時間を過ごしてきた彼の苦しみは私にも想像出来なかった。


「……だから、死のうとしたんだ」

「……え」

「だってもしかしたらもう、命は来ないかもしれない。本当は全部夢で、妹を救えなかった俺の妄想に過ぎないって…」

「そ、そんなことないっ!それは、そんなことーー」

「仮に本当だとして、次は救えるなんてこと…あるわけないんだよ」

「そ、それは……」

 

 絶望に染まった薫の目を見て、私は何も言い返すことが出来なかった。

 じゃあ、薫が今こんな姿なのはーー


「……色んな方法で、死のうとしたんだ。でも直前で、いつも春菜の顔が目に浮かぶんだよ…。助けてって、そう俺に言っているようで…だから死にきれなくて、諦められなくて俺は…俺はっ……!」

 

 薫は、震えながらそう吐き出すように答えてくれた。もう、限界のようだった。

 これ以上、彼に死に戻りをさせることは出来ない。

 もしもう一回でも記憶を繋いだまま死に戻りして、妹を救うことが出来なかったら…。

 脳内には変わり果てたあの通り魔の姿が浮かんでは、消えていった。


「……すまない、命。君にあたるような言い方をした。悪いのは、弱い俺なのに、本当にすまない」

 

 もう薫はボロボロだった。

 むしろこうして普通に話していられることが奇跡のようだ。

 でもここは病室なわけで、目に見えないだけでもう限界は刻一刻と迫っているように思えた。


「……ありがとう、薫」

「……命?」


 やはり、こうするしかない。

 最初から分かっていたことじゃないか。この旅は、私だけに許された孤独な旅なのだから。

 何百回も死に戻りを繰り返していく内に、寂しさに耐えられなくてその結果彼を巻き込んでしまった。

 こんな苦しい思い、薫にさせるべきじゃなかったのに。

 私は自分の苦しみを分かってほしくて、彼に認めてほしくて、触れてほしくて……。


「聞いてほしい、ことがあるの」

「……ああ」

 

 でもそれはやっぱり間違いだったんだ。

 とても幸せだったけれど、やはりするべきじゃなかった。

 だからもう私は迷わない、間違えない。

 新たな決意をして、私はゆっくりと薫に伝えることにした。

 彼の妹を救うための、たった一つの方法を。



 


















 深夜の屋上は、当たり前だけれど誰もいなくて静寂に包まれていた。

 設置されているベンチに二人腰掛ける。


「……鍵、よく開けられたわね」

「ここ、長いんだ。だからよく深夜に抜け出しては、色んなところを散歩してたんだよ。屋上もそうだし、今日命が入って来た非常口だって、俺が開けといたんだ」

「そうなんだ……まあ、自慢にもならないと思うけど一応褒めておくわ」

「こんな景色が見れるんだ、感謝して欲しいくらいだけどな」

 

 夜空には星々が輝いていて、それを見るとほんの少しだけ救われた気持ちになれた。

 確かに薫の言う通り、一見の価値はあるのかもしれない。


「……うん、そうかもね。ありがとう、薫」

 

 小さく呟いた私の声が、彼に届いたのかは分からない。

 けれど吸い込まれるような夜空を見ていると、本当に少しだけ心が落ち着いてくる。

 隣に座っている薫もそれは同じのようで、しばらく黙って星空を眺めていた。


「……なあ、さっきの話だけどーー」

「大丈夫。さっきも言ったけど上手くやってみせるから。大体、私が何百回死に戻りして来たと思ってるの?ちょっとやそっとじゃ、へこたれないんだから」

「やっぱり、俺が」

「それは、無理。私の目的は貴方の願いを叶えること。貴方の妹を、死の螺旋から救うこと。でも肝心の貴方がいないんじゃ、意味ないもの。だから、私に任せてよ」

 

 それは至極簡単な結論だった。

 今まで通り、私だけが死に戻りをする。

 彼を殺して死に戻りさせて、妹を救うまでそれを繰り返す。

 ただし、連続では殺さない。

 記憶を引き継がせないで、失敗したらやり直す。ただそれだけ。

 今なら本当にギリギリだけど、まだ薫は間に合うはずだ。

 確証はないけれど、これ以上今の薫に死に戻りをさせることは出来ない。

 記憶を引き継がせることは、出来ない。


「でもそれじゃあ、俺は今までのことを忘れるってことだよな」

「それは……そうなるね」

「それってつまり、俺は命のことも忘れるってことだろ?命が自分の人生を、いのちを懸けて俺を、妹を救おうとしてくれていることを、俺は忘れてしまうってことなんだろ…」

「……大丈夫だよ」

「大丈夫なもんか……大丈夫なわけ、ねえよ……」

 

 薫は悔しそうな表情をしていた。私には、それでもう十分だった。

 こんなにも私のことを想ってくれる人がいてくれて、幸せだった。


「……大丈夫なんだよ、薫」

「命……」

「貴方がそう想ってくれているだけで、私はもう十分。元々、私の人生に意味なんてなかった。そんな人生を救ってくれたのは、貴方。誰かを想う気持ちを教えてくれたのは、貴方なの。だから、私は大丈夫なんだよ」

「そんなのって……」

 

 私はちゃんと、笑えているだろうか。彼を不安にさせるような表情をしていないだろうか。

 顔が熱くなって、言葉が震えそうになるのを必死に抑える。


「それにね、記憶が全部消えちゃうかなんて分からないよ。もしかしたら、断片的にでも思い出すかも知れない。妹さんを救うヒントを、そこから探し出せるかもしれないでしょ。だから私に任せて、ね?」

「……本当に、すまない。こんな大切なことを、俺は結局任せてしまうなんて。命のことを、忘れてしまうなんて…」

「大丈夫!だってたとえ貴方が忘れたって、私が貴方を覚えてる。命懸けで私を守ってくれたこと、私に優しくしてくれたこと、一緒に寝たこと、笑ったこと…ほんの少しの時間だったけれど、私に取っては全てが掛け替えの無い宝物なんだ。だからーー」

「……命」

「あ、あれ?」

 

 涙が、止まらなかった。

 どうしても我慢できなかった。

 私はなんで泣いているんだろう。悲しいことなんて、何もないはずなのに。

 そもそも私に泣く資格なんて、無いはずなのに。散々人を殺してきて、好きな人まで手に掛けた。

 どんな理由があろうとも、そんなの許される筈がない。

 こんな私に泣く権利なんてあるはずないのに、涙が溢れてくる。


「ありがとう、命……」

 

 薫に抱きしめられて、私は静かに泣き続けた。

 



 ーーねえ薫、私、やっぱり貴方が好き。大好き。

 私に生きる希望を与えてくれた、絶望から救ってくれた貴方のことが、好き。

 でもきっと貴方はそうじゃない。今の貴方には、妹さんしか見えていないんだから。

 きっと私の想いは届かない。

 でも良いの、それでも良い。

 好きな人に幸せになって欲しい。それが私の答えだから。

 だから、お願い。どうかその手で救って。大切な妹を救い出して、そしていつも笑っていてね。

 不器用だけど優しくて、温かい貴方でいて。

 そしてもう二度と私のことを思い出さないでーー























 私たちは、屋上のフェンスを乗り越えて互いに距離を取っていた。

 少しでも足を踏み外せばあっという間に転落する。

 そんな場所でもやはり星空は相変わらず綺麗だった。


「……本当に、良いんだな」

「貴方こそ、私に付き合う必要はないのに」

「せめて、一緒に逝かせてくれ。俺にはこれくらいしか、出来ないから」

「……本当に馬鹿だね、薫は」

「お前も大概だけどな、命」

 

 最初薫は一緒に心中してくれようとしていた。

 でもそれは丁重にお断りさせてもらった。正直私の死に戻りにはまだ不明な部分が多い。

 もし触れ合ったり抱き合ったりしたことで私が彼を‘殺した’ことになってしまえば、また薫は記憶を引き継いたまま死に戻りをしてしまう。

 それだけは避けなければならない。だからせめてこうやって離れて飛び降りることにする。

 勿論、これでも‘殺した’ことになってしまう危険性はあるので何度も断ったのだけれど、最後まで彼が折れることはなかった。


「……命」

「何?」

「俺、命に出会えて良かったよ。命のことは、絶対に忘れない」

「…忘れてくれないと、困るんですけど」

「それでも忘れない。たとえ忘れたとしても、絶対にいつか思い出す。だからーー」

「ありがとう。その気持ちだけで、十分。私こそ、ありがとう」

 

 離れたまま、私たちは少しだけ互いを見つめ合った。

 これが私たちのあるべき関係、あるべき距離。

 決して埋まることのない、縮めてはいけない距離。

 深く深呼吸してから、私は薫を見つめる。

 そしてーー


「――さよなら」

 

 星空へと飛び込んだ。















― dead end ―














「……こんばんは」

 

 暗い夜道で、私は‘彼’に話し掛ける。

 急に話しかけられて慌てて振り向いたその顔は、間違いなく私の知っている彼だった。


「えっと…こんばんは」

 

 戸惑いながらも返事をしてくれる彼に愛おしさを感じながら、私はゆっくりと近付いていく。

 一番大切なことを確認するために。


「ねえ四宮薫……私のこと、覚えてる?」

 

 そんな突拍子もない質問に、薫は困ったような表情を浮かべる。

 そしてーー


「……いや、知らないし、そもそも会ったことないでしょ、俺たち」

「……あは」

「えっと…君は」

「あははっ」


 ――私‘たち’の望みが叶ったことを、証明してくれた。


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 

 

 ――さあ、始めよう?

 ‘貴方’にとっては一度きりの死に戻りを。

 妹をその手で救うまで、永遠に続く物語を。

 私たちの物語を、愛する貴方のためにーー



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