68話「兄と妹・3」


「お、お兄ちゃん……ちょっといい?」


 春菜が俺の部屋を訪ねて来たのは、選挙演説が終わったその日の夜のことだった。

 何とか選挙という大舞台を乗り切れた俺は、晩飯の後しばらく何もせずに今日の余韻に浸っていた。

 自分のこともそうだが、春菜のあのピンチを凌げたことが何よりも嬉しかったのだ。

 そんな風にぼーっと考えている俺の思考を一瞬にして現実へと引き戻したのが、春菜の声だった。


「あーっと…ちょっと待ってな!今用意するから!」

「うん、待ってる」

 

 急なことに急いで部屋を片付けながら、春菜の訪問自体が相当久しぶりなことに気がつく。

 あの文化祭の日から、春菜は妙によそよそしくなり俺たちの関係も疎遠になっていた。

 だから最近は春菜が俺の部屋に来ることなんてなかったし、そもそも会話さえちゃんとしていたかも怪しい。

 明子さんには影でかなり心配されていたが、俺自身も原因が分からずお手上げ状態だった。

 それが突然の訪問となれば慌ててしまうのも仕方ないだろう。

 とりあえず取り急ぎ周囲を片付けて、何故か変に緊張しながらゆっくりと扉を開けた。


「ま、待たせたな。入れよ」

「お、お邪魔します…」

 

 そんな俺の緊張が伝わったのか、春菜も若干のぎこちなさを醸しながらおずおずと俺の部屋に入っていく。

 そしていつも座っていたように、俺のベットに遠慮がちに座り込んだ。

 自分の部屋に妹がいる懐かしさを感じながら、俺も何故か遠慮がちに自分の椅子に座った。

 まるで初対面同士のお見合いみたいな気まずさ。

 その気まずさが、今までの俺たちのすれ違いの期間の長さを如実に表していた。


「……なんか、久しぶりだな」

「そ、そうだね…」

「今日は、お互い大変だったな」

「うん…」

「俺なんか普段はこんなんだからさ、あんまり緊張しないんだけどなー。やっぱりあんな大勢の前だと流石に緊張しちゃったわな」

「………」

「えーっと……ああ!大塚さんの演説もかなり良かったみたいだぞ?まあ精一杯頑張ったわけだし、誰が当選しても怨みっこ無しって感じだけどな」

 

 何とか場を繋ごうという俺の洗練されたトークも虚しく、春菜は相槌を打つのみで部屋には重い空気が漂っていた。

 俺の見立てでは今日の一件で少しは俺たちの仲も修復されたはずだったのだが。

 今の俺は一人で完全にダダ滑りしている残念な奴でしかない。

 このままでは不味い、そう思った俺は春菜が何かを言い出そうとしていることに今の今まで気が付かなかった。


「……なさい」

「ん?」

「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい」

「は、春菜…?」

 

 そして俺が気がついたときにはもう遅かった。

 春菜はぎゅっとこぶしを握りしめて、それでも必死になって言葉を絞り出していた。


「お兄ちゃんのこと、避けてた。どうしようもなくて、お兄ちゃんは悪くないのに。話したら、きっと酷いこと言っちゃいそうで。だから、わたし避けるしか、なくて…」

「……俺も、ごめん。春菜のこと、分かってやれなくて」

「お兄ちゃんは、悪くない。悪くないんだよ…。わたしが、わたしのせいなの。怖かったの。このままじゃ、わたし……。だからずっと避けてた。見せたかったの。わたしは一人でも大丈夫だって。お兄ちゃんに助けて貰わなくったって、ちゃんと生きていけるんだって……証明したかった」

「それじゃあ、生徒会選挙に立候補したのは…」

「……見せたかったの、お兄ちゃんに」

「お、俺に…?」

「もうわたしは大丈夫、強くなったんだよって。そうすれば…そうやってお兄ちゃんと対等になれたら……きっとそのとき、わたしはーー」


 そこまで言って春菜ははっとした表情をした。

 何か言ってはいけないことを言いそうになってしまったような、そんな気持ちを誤魔化すように少し時間を置いてから話を続ける。


「……でもね、現実はそんなに甘くなくて。やっぱりわたしはお兄ちゃんに迷惑かけちゃった。はは、本当にどうしようもなく、救いようのないやつだって、そう思ったの…」

「そんなことない。春菜はちゃんと最後までやり切っただろ。皆、春菜の演説に聞き入ってたよ。お前は救いようのないやつなんかじゃない」

「それは、お兄ちゃんが助けてくれたからだよ?もし一人きりだったら、きっとわたしは何にも出来なくて、あのまま立ち尽くすだけだった」

「春菜……」

 

 春菜は自分自身を嘲笑うかのように、くすっとほんの一瞬笑った。

 それはどこまでも皮肉めいた笑いだった。


「勘違いしてたんだ、わたし。転校してきて、今まで一生懸命になって、少しは変われたんだって思ってた。もう昔のわたしじゃないんだって、そう思ってた。でもそんなこと、全然なかったんだね。結局、一人じゃ何にも出来ない、弱虫の桃園春菜のままだったんだね…」


 それはきっと春菜に‘声’が聞こえてきてから、ずっと抱えてきたコンプレックスそのものだった。

 いつだって春菜は周りを気にして生きてきた。

 自分の意思とは関係なく聞こえてくる心の声に怯えて、他人と距離を取って生きてきたんだ。

 だから春菜はいつだって臆病で、そしてそんな自分をずっと弱虫だってそう思っていたのだ。


「……あのな、そんな当たり前のこと、今さら言われなくたって分かってるっつーの」

「そ、そうだよね。わたしなんてーー」


 だから俺は言ってやる。

 そんな弱気な妹に、俺はそれでも生きていてほしいから。

 そして胸を張っていて欲しいから。


「誰だって、そうだよ。人間は一人でなんて生きていけるわけないだろ。それは春菜だけじゃなくて、俺だって海斗だって佐藤だって。会長だって白川先輩だって大塚さんだって。皆そうだよ。この世に一人で生きていける人間なんて、いやしないんだよ」

「…そう、なのかな」

「そうなんだよ。春菜、お前は今までずっと人を避けて生きてきたから知らないだろうけどな、人は一人じゃ生きてなんかいけない。だから手を取り合って、力を合わせて色んなことを乗り切っていくんだ。その大切さを、この学校生活で春菜は学んだんじゃなかったのか?今日の演説で、そう言ってただろ」

「それは…」

「助けてもらって何が悪いんだよ。それも込みで、俺はそれがその人の力だと思うけどな。助けてくれる仲間がいるってことはさ、それだけ助けたいって思われてるってことだろ?上辺だけじゃない、本当の絆を築けたってことだろ。それって凄いことだと思うよ、本当にさ」

 

 この世の中に、自分が困っているときに助けてくれる‘友達’が一体どれくらいいるのだろう。

 大人になった俺には、その貴重さが少なからず分かる。

 そして目の前にいる妹は、転校して1年もしない内にその掛け替えのない財産を少ない数、手にしていることに気が付いていないのだ。


「わたしの、力…」

「そうだよ。一人で生きることのどこが偉いんだ?それよりも、俺は春菜を本当に尊敬してるんだ。1年も経たない内に自分の体質と向き合って、努力して、他人と触れ合うことができたんだから。春菜、お前が妹であることを俺は誇りに思うよ」

「お兄ちゃん、お兄、ちゃん…」

「頑張ったな、春菜。謝ってくれて、ありがとう。気が付けなくてごめんな。でも一人で生きるなんて、言わないでくれよ。俺たちは、兄妹なんだからさ。たまには兄貴の俺に、かっこ付けさせてくれよ、な?」

「お兄ちゃ…ごめんなさ、い……ごめんなさい……」


 春菜はそれだけ言うと我慢するのをやめて、静かに泣いた。

 俺はそんな春菜の側で、何度も何度も彼女の頭を撫でた。

 以前の俺が出来なかった分まで、俺は彼女の横にいたいと思った。

 一ヶ月以上のすれ違いの末、やっと俺たちは仲直りすることが出来た。

 結局何故春菜が俺を避けていたのか、その理由を聞く事は出来なかった。

 でも今の俺にはそれは些細なことのように思えた。

 そんなことより大切なことが、いま目の前にあるのだから。
























「今日は色々あって疲れたと思うから、早く寝ろよな」

「うん、ありがと」

「ちゃんと目薬差せよ。じゃないと明日まで目が真っ赤だぞ?」

「わ、分かってるから!それくらい言われなくたって自分でやるわよっ!」

「はは、悪い悪い」

「もうっ…」

 

 まだ少し潤んだ目を隠しながら、春菜は恥ずかしそうにそう言った。

 こんな何気無い会話も本当に久しぶりだった。やっと日常が戻ってきたような気がする。


「じゃあ、また明日な」

「うん、また明日……あ、そうだ」

 

 だから少しだけ油断していたのかもしれない。


「ん、どうした?」

「今日ね、演説のとき、頭が真っ白になったときにね…聞こえてきたの」

「聞こえてきたって?」

「お兄ちゃんの、心の声」

「……え?」

「それまで聞こえてた色んな人の声がね、一瞬だけ消えて。それでお兄ちゃんの声が確かに聞こえてきたの。その方向を向いたらさ、本当にお兄ちゃんがいてね」

「それであの時、俺の方を向いたのか。でも俺の心の声は聞こえないはずじゃ…」

「うん、それはそうだと思う。現に今だって聞こえないし。でもあの時だけ、聞こえたんだよ。凄く驚いたけど、でもおかげでやっと頭が冴えた気がしたの。だから、ありがとね」

「そ、そうか。まあ心の中でかなり応援してたから、それが通じたのかもしれないけどな!」

「調子に乗らない!…で、さ」

「ん?」

「……ううん、やっぱりなんでもない!」

「なんだよ、気になるな」

「ごめん、忘れて?じゃあ、おやすみなさい」

「おう、おやすみ」

 

 挨拶をして、春菜は自分の部屋へと帰っていった。

 ふと時計を見るとすでに日付を越えていた。

 それだけ春菜が俺の部屋にいたということだ。


「ったく、本当に世話の焼けるーー」

 

 そこまで言いかけて、俺はある可能性を考えた。

 さっき春菜が言っていたことが本当だったとしたら、一瞬でも俺の心の声が聞こえてきたと言うことになる。


「……まさか、な」

 

 この死に戻りを可能にしている大前提、俺の心の声だけ都合良く春菜には聞こえないというこの前提。

 これがあったからこそ、俺は今まで春菜にバレることなく死に戻りして人生をやり直すことが出来ていた。


「いやいや、大丈夫だろ…」

 

 もしその‘一瞬’に聞こえてはいけないことが聞こえていたとしたら。

 きっとこの死に戻り自体が破綻することになるのではないだろうか。

 電気を消してベットに倒れ込み、そんな馬鹿げた考えを必死に消そうとする。


「……まさか、ないだろ」

 

 ーー何度言葉に繰り返しても、妙な胸騒ぎが消える事はなかった。


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