66話「再び繰り返す」


 11月末日。

 その日は生憎の雨模様だった。

 最近の寒さに拍車を掛けて気温が下がる中、陵南生の多くは既に体育館に集合していた。

 特に何かをするわけでもなく、クラスごとに並びそれぞれが雑談に花を咲かせている。

 その声は控え室にいる俺たちにも届いてきて、まもなく演説が始まるのだと言うことを改めて実感させられるのだった。


「はーい、それじゃあそろそろ始まるからねー」

 

 そんな俺たちの緊張とは真反対の、のんびりとした口調で入ってきた担任の依田ちゃんは俺たちの心境を知ってか知らずか、相変わらずのマイペースだった。


「あらま、珍しい。緊張してるんだ四宮」

「…ま、まあ少しは」

「少しって顔じゃ無いけど?」

「まあ四宮の気持ちは分かるよ。私も最初は驚いたからさ。まさかあの四宮が生徒会長に立候補だなんて……けどまあ、誰の差し金かなんて、すぐに分かったけどねぇ」

 

 依田ちゃんはじっと俺の隣に座る会長を見定める。

 まあそれぞれの応援者を見れば誰にだってすぐ分かることだった。


「差し金なんて、そんな……私はただ四宮君なら生徒会長をやれるってそう思っただけなんです!」

「はいはい、そういうのはいいから。また面白いこと思い付いた、みたいな顔してたよ秋空―」

「……えへへ、やっぱりバレてます?」

 

 てへぺろ、みたいな顔してる先輩をこれほど殴りたいと思ったのは初めてかもしれなかった。

 周りを見回すとどうやら白川先輩と大塚さんもほぼ同じ気持ちのようで、それぞれやれやれと言った表情を浮かべている。


「全く、本当に会長の気まぐれには毎回苦労するんですから」

「まあ、紅音の悪ふざけは今に始まったことじゃないからね」

「二人とも酷い!四宮君もそう思うよね!?」

「すいません、全くフォロー出来ないんで。つーか今話しかけないでください。折角覚えた文章が飛びそうなんで」

「いやいや、私たち仲間だよね?」

「……うん、それぞれのチームが上手くやっているのはよく分かった。先生は嬉しいよ」

 

 一体今の何を見たらそうなるのか、理解不能な解答を出した依田ちゃんはそのまま入口から一番離れた席に座っている春菜に近づいて行く。


「で、どうかな桃園さん。大丈夫そう?」

「…………」

「桃園さん?」

「…………」

「桃園さん!」

「は、はいっ!?」

 

 依田ちゃんの少し強めの呼び掛けでやっと気が付いたのか、慌てた春菜はそのまま持っていた原稿用紙をバラバラとその場にぶち撒けてしまった。

 傍目でも分かるくらいに、春菜は緊張している。

 その証拠に原稿用紙を拾おうとするその手は、微かに震えていた。


「ほら、これで全部だね。大丈夫、桃園さん?だいぶ緊張しているみたいだけど」

「だ、大丈夫です」

「まあ応援者の佐藤さんが急な体調不良で欠席しているから、気持ちは分かるけど…」

 

 春菜の隣の席は、空席だった。

 本来なら彼女の応援者であり、候補者の前説として喋るはずだった佐藤の席。

 依田ちゃんが言った通り、そんな重要な役目を担当していた佐藤は今朝急な高熱で欠席となってしまった。

 春菜にとっては不運に違いないし、それで動揺しているのもよく分かる。


「大丈夫です、本当に、大丈夫ですから」

「さっきも言ったけど無理しなくてもーー」

「大丈夫です!……やらせてください、本当に大丈夫なんで」

 

 似つかない大声で、春菜は依田ちゃんの説得をかき消した。

 いつもの春菜からは想像も出来ないような、それでいてとても辛そうな声だった。

 この場にいる全員に春菜が無理をしているのが分かってしまうくらいには、それは辛そうに聞こえた。

 依田ちゃんはそんな春菜を見て、少し考えた後ゆっくりと彼女の両肩に手を置いた。


「――分かった。桃園さんもこの1ヶ月近く精一杯頑張ってきたんだもんね。自分の納得できるように、全力を出し切りなさい」

「…はい、ありがとうございます」

「うん、それじゃあ改めて説明するようなこともないし、生徒会選挙の候補者演説を始めましょうか。くじはさっき決めた順でーー」

 

 そこからは依田ちゃんが決められたルールを今一度説明してくれた。

 でも俺にはそんな説明は耳に入らなかった。

 俺から少し離れた位置で、春菜は真剣に説明を聞いている。

 たった一人でずっと何かと闘っているかのようだ。

 一体春菜が何と闘っているのか、苦しんでいるのか。

 もう1ヶ月以上も経つのに、未だに俺は分からずにいる。

 兄として、家族として、俺が支えてあげないといけないはずなのに。

 結局俺は何も出来ずにいた。

 海斗のいうように待つことしか出来ないことは、よく分かっている。

 それでも何も出来ないこの状況は俺にとっても辛い日々だった。

 このままでは過去の俺と何も変わらないのではないか。

 虐められていく春菜を、自分の身可愛さにずっと無視してきたあの時を、俺はまた繰り返そうとしているのだろうか。


「――とまあ、こんな感じだ。よし、校長先生の長いお話も終わったみたいだから、早速トップバッターから行きましょうか。じゃあ大塚さん、白川副会長、お願いね」

「はい、まあやるからには全力でいきますので。生徒会長の座は譲りませんから」

「そんなに肩の力入れなくても大丈夫だから。自然体でいこう、雅」

「は、はい。そうですね、そうします」

「よし、行こうか。それじゃあお先に」

 

 少し緊張した大塚さんの緊張を上手くほぐしながら、白川先輩は控え室を出て行った。

 この部屋のすぐ先が体育館の壇上になっていて、候補者と応援者はそこで演説をすることになっている。

 本来は来賓室として用意されている部屋のようで、他の候補者の声は聞こえはするがはっきりと何を言っているのかは分からないようになっていた。

 これは先に話した候補者の演説内容が分からないようにするための配慮らしいが、正直この土壇場で演説の内容を変えるような愚か者はいないと思う。

 残された俺たちはただ目の前の原稿を再度読み込んで、自分の番が来るのを待つ他ないのだから。

 じっと自分の原稿を読み直すが、やはり当然と言うべきか全く頭に入ってこない。

 くじで決めた順番では次が春菜、そして最後が俺たち。

 まだ時間があるといえばそうなのだが、この時間はまるで生殺しのようで生きた心地がしなかった。


「……始まったみたいだね、みーちゃんの演説」

「あ、そうみたいですね。声は聞こえるけど、何言ってるのかは全然分からないな」

「うーん、こっそり覗いてこようかな」

「いや駄目ですって!ルール聞いてましたよね!自分の番になるまでこの控え室を出ちゃいけないって。俺たち失格になりますよ!」

「冗談だって、冗談。そんな本気にしないでよー」

「いや、会長が言うと冗談に聞こえないんですって…」

 

 がっくりと肩を落とす俺を、会長はくすくすといつもと同じ明るい調子で笑っていた。

 本当にこの人は緊張とは無縁の存在なのかもしれない。

 流石1年間生徒会長をやってきたことはあるなと思った。


「ふふ、少しは緊張がほぐれたかな?」

「…まあ、そうですね」

「今更考えたって仕方ないでしょ?今までやってきたことを信じようよ。大丈夫、薫君なら出来るよ!未来はそういう風になってるんだから」

「それはなんかの予言ですか」

「ううん、ただの勘。でも、私の勘は結構当たるからねぇ」

「それなら信じてみますよ、その勘。それに会長のいう通り、俺たちだってずっとこの1ヶ月頑張って来たんですもんね。後は出し切るだけだ」

「うんうん、その意気だよ薫君!」

 

 こういう時、本当に会長の天真爛漫さに救われる。

 緊張で固まっていた全身が、ゆっくりとほぐれていくのを感じる。

 そしてようやく、目の前にいる春菜が俺なんかよりずっと緊張しているのが感じ取れるのだった。


「春菜……」

 

 春菜はさっきまでの俺と同じように、ずっと原稿を見つめている。

 でも俺がそうだったように、きっと春菜の頭にも内容は全くと言っていいほど入ってないに違いなかった。

 こんな時佐藤が側にいれば少しは励ましの言葉を掛けられたのかもしれない。

 でも今佐藤はここにはいなくて、春菜は一人で緊張に押しつぶされそうになっている。

 俺にはそんな春菜の姿が、彼女は転校してきた初日の自己紹介の時の姿に重なって見えた。

 

 ――このままじゃ、不味い。

 

 このまま春菜が壇上に上がってしまったら、きっと不味いことになる。

 あの時は俺がいた、海斗がいて、佐藤がいた。

 でも今度は誰も側にいてやれない。このままじゃきっと取り返しが付かないことになる。


「薫君?」

「すいません、一言だけでいいんで」

「……うん、そうだね。励ませるのは、きっと薫君しかいないから」

 

 俺はゆっくりと席を立ち上がり、春菜に近づく。

 もう1ヶ月近くもまともに会話なんてしていない。

 一体何を言えばいいのか、俺には分からなかった。

 でも同時に何かを言わなければならない気もした。

 俺の気配に気が付いたのか、春菜は慌てたように顔を上げる。

 その表情は、本当にあの自己紹介の時とそっくりだった。

 儚くて、今にも消えてしまいそうだった。


「あ、あのさーー」

「桃園―、もう終わるから用意しろー。原稿持ってついて来るだぞ」

「は、はいっ!」

「あ、あの!」

「すまんが急ぎなんでな。ほら、桃園行くぞー!」

 

 最悪のタイミングだった。

 気が付けば大塚さんの演説は終わったようで先生が開けた扉の先からは割れんばかりの拍手が聞こえてくる。

 あっという間に春菜はその先生の後に着いて行ってしまった。

 残されたのは俺と会長のみ。

 再び閉まった扉を、俺はただ見つめるしかなかった。


「何やってんだよ、俺は…!」

「まあ落ち着いて、ね?春菜ちゃんだってこの1ヶ月間、ずっとこの日の為にやってきたんだから。だから大丈夫だよ。春菜ちゃんを信じよう?」

「でも……」

 

 直前に見た、あの春菜の表情は俺の思い過ごしなのだろうか。

 俺が過保護すぎるだけで、春菜はもうとっくに俺なんか必要ないのだろうか。

 思えば体育祭の時だって、夏祭りの時だって、あいつは自分の努力で体質を克服してきたんだ。

 会長の言う通り、俺は春菜を信じるべきなのかもしれない。


「ほら、ここに座る!もう少しで自分の番なんだよ?人の心配する前に、自分の心配しなさい」

「そう、ですよね。すいません」

「さっきまであんなに緊張してたんだから、私は心配だよ。むしろ一番ヤバいのは間違いなく薫君だと思うけどねー。なんか本番に弱そうだし?」

「そ、そんなことは…いや、あるかもです」

「あはは、正直でよろしい。ほら、深呼吸して。壇上に上がったら生徒が皆ジャガイモに見える魔法を掛けてあげるから」

「いや、どんだけ古いですかそのネタ」

「じゃあ手のひらに字を書いてーー」

「それもだいぶ前に広まったやつですよね?」

「…もう、薫君ってば文句ばっかりだなぁ」

「励ましてくれるのはありがたいんですけど、もう少しマシなやつありませんかね…」

 

 なんとかして俺を励まそうとしてくれる会長の心遣いが、今はただ嬉しかった。

 そして何よりも心強かった。

 会長と話していると勇気が湧いてくるようで、同時に少し冷静にもなれた。

 だからこそ気が付いてしまった。

 俺たちのいる控え室が、どうしてこんなにも静かなのか。その理由を、俺は考えてしまった。


「……声が、しない」

「え?」

「声がしないですよね、春菜の」

「えっと……あっ」

 

 そこでようやく会長も今壇上で何が起きているのか、想像したようだった。

 やはり勘違いなんかではなかった。

 あの時の春菜の表情を見たときに察するべきだった。

 あいつは普通の女の子なんかじゃない。

 1ヶ月の頑張りが吹っ飛んでしまうくらいの体質を抱えている。

 そしてそれを知っているのは俺だけのはずだったのに。


「か、薫君!?どこ行くの!」

「すいません、会長。本当に感謝してます。この1ヶ月のこと、本当に嬉しかったです。でも俺は行かないといけないんです。だって俺はあいつの兄なんで。だから、すいません」

「薫君――」

 

 何かを言おうとしていた会長を無視して、俺は思いっきり扉を開けた。

 会長には本当に申し訳ないと思ったけれど、俺は自分の心に従うことにした。

 だってもう後悔なんてしたくないから。

 静まり返った体育館の壇上へと俺は向かう。

 今はただ、妹の力になる為に。そして、もう二度と繰り返さない為に。

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