断章1「穴来命の出会い」


 目が覚めると、見慣れた天井が視界いっぱいに広がる。

 気怠い身体をゆっくりと起こして、鏡に写る自分を見る。

 ――痣だらけの身体に、やつれた顔。

 人生に絶望している、いつも通りの私がそこにいた。


「…酷い顔」

 

 ‘あの人たち’を起こさないように、静かに身支度を整えて家を出る。

 外に出てやっと新鮮な空気を吸うことが出来た。

 冷たい澄んだ空気が身を包んで、私がまだ生きていることを教えてくれる。


「……いってきます」

 

 誰も返事なんてしてくれないのは分かってる。

 それでもささやかな抵抗のつもりで、私はぼそっと呟いた。

 今日もいつも通りの、何の希望もない1日が始まる。生きる意味なんて、ない。

 輝く朝日に照らされてこのまま溶けてしまえないかな、なんてあり得ない妄想をしながら、ひとりぼっちの通学路を歩き始める。

 どうか今日も、何事もなく終わりますように。


















「穴来さん、あとよろしくねー」

「じゃあまた明日―」

 

 放課後。

 いつものように掃除を押し付けられた私は、一人っきりで非常階段を掃除する。

 遠くからは運動部の掛け声や、吹奏楽部の奏でる音色が聞こえて来る。

 一人で掃除することに慣れっこな私はいつも通り、淡々と箒で一段一段丁寧に掃除をして行く。

 バイトまではまだ時間があるし、良い暇つぶしになるのだ。

 別に帰ったクラスメイトを恨んではいない。

 むしろ一人の時間を過ごせるので感謝したいくらいだ。

 虐められてるのだって、クレーマーと言われてる‘あの人たち’のことを考えれば当然なわけだし、何もおかしい事なんてない。


「親、か…」

 

 私は本当の親の顔を知らない。

 母親は私を産んですぐに死んでしまったらしいし、父親のことなんて聞いたこともない。

 親戚中をたらい回しにされて、苗字も何回も変わって最終的に今の‘穴来命’に落ち着いた。

 穴来家がなぜ私を引き取ってくれたのかは分からない。

 でも、毎日事あるごとに殴って来るあの人たちを見ていれば、少なくとも歓迎されていないことは明らかだった。

 誰も私が生きる事なんて、望んでない。

 幼い私が、そのことに気がつくのに大した時間は要らなかった。

 自分の‘命’という皮肉めいた名前が憎らしい。

 掃除をしているこの時間が唯一、私が安らげる時間だ。

 そんなことを考えながら、ぼーっと夕陽を眺めていると、自分の意思とは関係なく涙が溢れてきた。

 泣いても何も解決しないなんてことはとっくに分かっているのに、どうしても止められなくて、そんな自分がどうしようもなく惨めだった。

 誰か、誰か助けて。

 そんな願いは誰にも届くことはなく、1日が過ぎて行く。



















「お疲れ様でしたー」

 

 バイトの帰り道。

 月明かりに気がつき、ふと見上げると今日は満月だった。

 本当は家に帰りたくない。

 帰ったところで、‘物’として扱われるだけだ。でも他に帰る場所もない。

 学校に行かせてもらって、養って貰っている。

 本来ならそれだけで感謝すべきことだと思うし、私に文句を言う筋合いなんてない。

 頭では分かっていても、いざあの人たちと対面すると上手く呼吸が出来なくなる。

 殴られても、何を言われても私には従うしかないんだ。

 そんなこと分かり切ってるはずなのに。


「こ、こんばんは…え、えへへ」

「えっと……え?」

 

 色んなことを考えてぼーっとしていた私の目の前に、突然現れたその男は‘何故か’銀色に輝く何かを持っていた。

 話しかけられた事よりも、その男の持つ‘何か’から目が離せなくなる。

 なんだっけ、あれ。あ、そうだ。よく台所とかで使うーー


「あ、あ、遊ぼう、ね?」

「あ、あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁあ!!」

「お、おい待てっ!?」

 

 それが包丁だと認識するのと、私が駆け出すのはほぼ同時だった。

 後ろは振り返らずに全速力でその場を逃げ出す。

 すぐ後ろから先程の気持ち悪い口調から、一気に怒号へと変わった男の叫び声が聞こえる。

 

 怖い怖い怖い怖いーー

 

 誰か誰か誰か誰かーー

 

 神様神様神様神様――

 

 頭の中を色々な言葉が浮かんでは消えて行く。

 でも震える手足は思うように動かなくて、すぐに転んでしまった。

 そして逃げなきゃと思うのと、男の影が私を覆うのはほぼ同時だった。


「に、に、に、逃げちゃ駄目だよぉ!?」

「あ、あ、あ、あ…」

 

 もう逃げられなかった。月明かりで鈍く光る包丁が目に入る。

 ――知ってたじゃないか。

 神様なんてどこにもいない事なんて、ずっと前から知ってたじゃないか。

 私は、ずっとこの人生が終わってくれることを願っていたはずだ。

 でもいざ目の前の死を認識するとそんなことを考えていたことを酷く後悔する。

 結局、私の人生はなんだったんだろう。

 誰にも望まれなくて、愛されなくて、道具みたく扱われて、そして死んでいく。

 涙が止まらなかった。

 もう、終わる。私の、どうしようもなく無駄な生涯が、終わる。

 振り上げられた包丁から目が離せない。

 そのままスローモーションでゆっくりと振り下ろされていくーー


「や、やめろっ!!」

「ぐあっ!!こ、この野郎!!」

「……え?」

 

 しかし、その包丁は私に届くことはなかった。

 急に目の前に割って入って来た人影が、男と取っ組み合いになっている。

 突然のことに何が起きたのか、私には理解できずただその光景を眺めるしかない。


「がっ!?」

「お、お前が…お前が悪いんだ!!うわぁぁぁぁぁあ!!」

「あ…」

 そして数十秒もしない内に、私を襲おうとした男は慌てて逃げて行った。

 そう、私は助けられたのだ。

 そして放心状態だった私は、かばってくれた恩人が倒れ込むまで何が起こったのか理解できなかった。


「あ、あ、あ、あの!だ、大丈夫――」

 

 我にかえり、慌てて駆け寄った私が見たのは、包丁が腹部に刺さって血だらけになっている男の人だった。

 私を庇って代わりに刺された。

 その事実を認識した時、何かに思い切りぶん殴られたような衝撃が、私を支配した。

 自分のせいで、助けてくれた人が刺された。

 一気に身体が震えるのを感じた。

 私の、せいだ。


「あ、あ、あ、ごめんなさい!私のせいで!ど、どうしようどうしようーー」

「……け、怪我、は?」

 

 パニックで頭がいっぱいになった私に、血まみれの彼は優しく語りかけてくれた。

 まるで自分のことなんて気にしていないように、優しく私を見つめる。


「わ、私はだ、大丈夫です!でも貴方が!!」

「良かった…本当に、良かった」

「え?」

「俺でも、やっと、守れた……あり、がとう」

 

 その時私は確かに見た。 

 もう今にも事切れそうな彼が、本当に満足そうな笑みを浮かべたのを、見た。

 そして私にお礼を言って、そのまま目を閉じた。


「…い、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」

 

 血だまりの中、無意味な私の叫び声だけが響く。

 これが、私と四宮薫の出会いだった。


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