15話「動き出した時間」


 自分の部屋に入った途端、思わずベッドに倒れ込んでしまった。

 緊張の糸が切れたのだろうか。

 震えている両手をもう一度握りしめる。

 長年の恐怖との対峙。

 すっかり抜け落ちていた青ねえの存在。


「……俺は、やっぱり逃げてたんだよな」

 

 俺の記憶ではあの日、青ねえに許しを乞いに家を訪ねた日以来、俺は彼女に会っていない。

 今日だって青ねえは家に来たのだろうが、俺は逃げ出していたはずだ。

 つまり、俺は春菜を放っておいたということ。

 さっきの青ねえの反応から見るに、間違いなく春菜に興味を示していた。

 俺がいないこの家で、過去に何があったのか。知る由はない。

 それでも、春菜が青ねえの毒牙に掛かったであろうことは、先ほどのやり取りで十分想像出来た。

 このままじゃまずい。とりあえず春菜と話をしよう。

 そう思って重い身体を起こして扉を開けるとーー


「…あら、タイミングバッチリ!お邪魔しまーす」

 

 目の前には青ねえがいた。

 呆然とする俺の横を抜いてあっという間にベッドに座り込む。


「な、なに勝手に入ってんだよ!」

「まあまあ堅いこと言わないで、ね?私たち幼馴染なんだからさ」

「…青ねえと話すことなんてーー」

「別に春菜ちゃんの部屋に遊びに行っても、いいんだけどなぁ」

「……っ!」

 

 張り付いた笑顔で言った青ねえの一言は、まるで俺の心臓を抉るようだった。

 ここで追い出してどうするんだ。

 春菜の部屋に行かれてしまうなら、今はむしろ好都合。被害は最小限に抑えなければならない。


「…ふふ、立ってないで座ったら?」

「…ここで、いい」

 

 これ以上近付けば、またあの日のように心が折れて、今度こそ二度と抵抗する気がなくなってしまう気がして、俺はキッパリと断る。

 それを聞いた青ねえは嬉しそうに、本当に嬉しそうに‘嗤った’。


「うふふ…。いいね、かー君。どういう心境の変化、なのかな」

「別に…年頃の男子高校生なら普通だよ。青ねえ」

「やっぱりあの子?新しく出来た妹さんのおかげなのかな」

「…春菜は、関係ない。これは、俺たちの問題だ」

「腐って価値がなくなったと思ってたけど、まだやれるのかな、かー君」

「青ねえの言ってることが、俺には分からない……どうして、あんなことした?」

「…あんなこと?」

「俺への……俺への虐めだよ。あれのせいで俺の中学校生活は、滅茶苦茶だった。俺、青ねえに、恨まれるようなことしたか?」

「あの程度で無茶苦茶になる関係なら、無い方が良かったんだよ」

「…なんだって?」

「かー君、世界っていうのはそういうものなんだよ。人はね、簡単に人を裏切るんだよ。友情なんて、愛情なんて、そんなものは幻なの。所詮人間だって唯の動物に、過ぎないんだよ」

 

 立ち上がった青ねえはゆっくりと近づいてくる。

 大きな目は妖しい光を灯し、焦点が定まっていない。

 怖い、逃げたい。

 そんな思いが汗と共に噴き出る俺は、なにも出来ずその場から動くことが出来ない。

 蛇に睨まれたカエル、まさにそんな言葉を体現する状況だった。


「人はね、自分にない魅力や能力を持つ者には、決して逆らえない動物なんだよ。圧倒的なカリスマ性を持つ者にはね、皆が尻尾を振っておこぼれに預かろうとするでしょ。学校はそれを‘理解させる’場所なんだから」

「そ、そんなこと…」

「あるでしょ?現に貴方は裏切られたんだから」

「そ、れ、は…」

「でもそれって私が悪いのかな。誰も貴方のことを信じなかったのは、単に貴方が私より価値がないから。周りがそう判断したからなんだよ。社会に出ればね、かー君。こんなことはきっと当たり前なんだよ」

 

 何も、言い返せない。

 現に体験したこと。そして、5年という短い期間ではあるが実際に社会に出た俺自身が痛感していたこと。

 秀でた能力を持つ者が結局は出世して、世の中を動かしていく。たとえ性格や行動に難があったとしても、だ。

 青ねえの言う、いわゆる‘カリスマ性’というやつを持つ者が、持たざる者を支配する。

 彼女がやってきた事は、それと何ら変わらない、‘当たり前’のこと。青ねえはそう言っているのだ。


「だからね、言ったでしょあの日。‘テスト’してあげるって」

「テスト…」

「そう。かー君はね、初めてだったんだよ。‘本当の私’を見つけてくれた、初めての人だったんだよ?」

 

 目の前にある青ねえの頬は赤く染まり、うっとりとしている。

 大人の女性、しかもとびきり美人の彼女の恍惚とした表情を見ても尚、身体の震えは止まることはない。

 むしろ恐怖は増幅し、あんなに決意していた意志もすぐに折れてしまいそうだった。


「貴方は私になびかない。顔色を窺わない。本当に、嬉しかった。だから特別に‘本当の景色’を見せてあげたのに……」

 

 本当の景色。

 それが、あの半年間の地獄だった、ということなのだろうか。

 この人の言っていることが、全く理解出来ない。


「謝られたときは、心底失望したよ、かー君。結局この人も、他の人と同じなんだって。私を、叱りも罵倒もしない、ただの言いなりの奴隷だって」

「な、なにを、か、勝手なこと…!」

「凄く良い…今のかー君、凄く良いよ。だから、今日は許してあげようと思って」

「ゆ、ゆるす……?」

「また、仲良くしよう?幼馴染でしょ、私たち。今日の貴方を見てね、見直したの。今もそう。必死に私に抵抗して、震えながら睨み付ける男の人なんて、初めて、なの…」

 

 そう言って青ねえはゆっくりと俺を抱きしめる。

 甘すぎる香水の香りと柔らかな感触が俺を包み込んだ。

 怖い。青ねえが、怖い。

 目の前の幼馴染はもうずっと昔から歪みきっていたことを、今更俺は思い知る。

 もう、逃げられない。


「あお、ねえ…」

「うんうん、もう大丈夫。大丈夫だよ。分かる?私を理解できるのは貴方だけ。その逆で、貴方を理解出来るのも、私だけなの。だからーー」

「――ちょ、ちょっといい?さっきのことなんだけど…」

 

 その刹那、コンコンと鳴るノックと春菜の声で、俺は我にかえった。

 最後の力を振り絞り、抱きしめていた青ねえからゆっくりと離れて、震える身体をなんとか抑える。


「…………青、ねえ。正直、あんたの言ってることはよく分からない」

「…そう」

「でも、悪いけど、今の俺に、あんたは……必要ない」

「…ふふ、そう」

「も、もうこれ以上、話すこともないし、あんたのこと、幼馴染だなんて、思わない。あんたが俺にやったこと、俺は……絶対に、許さない」

 

 春菜の存在が、俺を後押ししてくれた。

 俺はもう後悔しない。過去なんかに負けたりなんか、しない。

 震える声で、それでも青ねえを見据えて言った俺の言葉に、彼女はーー


「……ふふふ、今はそれでいいよ。でも、待ってるからね、‘薫’」

 

 嬉しそうに‘嗤いながら’横を通り過ぎた。


「お、お兄ちゃん?ちょっと聞いてーーあっ…」

「あら、ごめんね春菜ちゃん。かー君、お邪魔しました!…また、ね」

 

 春菜と鉢合わせた青ねえは、特に春菜に興味を示さなかった。

 とりあえず、標的は俺だけに留めることが出来たようだった。


「び、びっくりした……って、ちょっとアンタ、その汗どうしたのよ!」

「は、春菜……」

「えっ!?ちょ、ちょっと!?お、お兄ちゃん!?お兄ちゃんーー」

 

 一気に疲労を感じて意識が遠くなる。

 やっぱり徹夜なんかするべきじゃなかったと思いながら、必死に呼びかける春菜の声を聞いた直後、俺は意識を失った。


















「ただの風邪、だって」

「すまん、迷惑かけたな」

「本当よ!急に倒れてきて、めっちゃ焦ったんだからね!」

「悪い悪い」

「笑ってんじゃないわよ、全く。本当に世話が焼けるおに…兄貴なんだから」

 

 俺が目覚めたのは翌日の昼前だった。

 どうやら発熱していたらしく、掛かりつけの医者にも来てもらったようだが、結果はただの風邪。

 そしてやはりというか、昨日から一睡もしていないことの疲労のようだった。


「親父から聞いたけど、一晩中俺の部屋で看病してくれたんだって?」

「ま、まあ、一応兄妹だし当然っていうか、兄の不始末は妹の責任っていうか…」

「…ありがとな、春菜」

「だ、だから急に、頭撫でないでよ、もう…」

 

 俺の言った‘ありがとう’の本当の意味を、春菜は知らない。

 でもそれでいい。

 これは俺と青ねえの問題だ。春菜を巻き込むようなことじゃない。

 そして青ねえは、モデルの撮影があるとかで朝早く帰ったとのことだった。

 ーーまた、遊びに来ます、との伝言を俺に残して。


「あ、あのさ…真夏川さんのことだけど」

「…何か、聞こえたのか。心の声」

「ううん、はっきりとは。でもね、何か、つまらなそうだった。感情がないっていうか」

 

 春菜の能力がどこまで正確なのか俺には分からない。

 ただ、やはり俺の勘、そして青ねえの勘は当たっていたようだ。

 春菜は、‘本当の真夏川青子’を理解できる可能性がある、ということ。


「…そっか。まあ、青ねえのことは俺に任せろ。春菜は、大丈夫だから」

「……分かった。…というか、青ねえって、なに」

 

 何故かジト目で俺を見る春菜。

 そんなにおかしな呼び名なのだろうか。


「なにって、青子だろ、本名。だからだけど」

「‘ねえ’はなによ」

「いや、それは年上だからだよ。近所のお姉さん的存在っていうかさ」

「ふーん…あ、っそ」

「なんだよ」

「別に。あんな綺麗な幼馴染がいて良かったですね、‘お兄様’」

「あ、あのなぁ……」

 

 なんか知らないが膨れている春菜。

 彼女がいなかったら俺は、また青ねえのおもちゃにされていたに違いない。

 俺は、結局あの時から、春菜が死んだ時から何も成長していなかった。

 子供のまま、現実から目を背けて逃げて気がつけば10年以上が経っていた。

 外見だけ年を取って、中身はあの日から何にも成長しちゃいなかったのだ。

 ここから、もう一度始めよう。

 今度こそ、目の前にいる妹を、そして俺自身を救うために。


















「もうすぐ本番でーす」

「あれぇ、青子ちゃん!なんか良いことあった?」

「えー、分かります?実は久しぶりに幼馴染に会って来たんです」

「あー、そういうの良いよねぇ!昔の自分を思い出すっていうかさ!」

「そうなんですよ!…それに、色々な発見もありましたし」

「発見?なんかあったの?まさか恋とか!?」

「うーん、秘密です!」

「ええー!?気になるなぁ!」


 ……ねえ、知ってる薫?

 運命っていうのはね、実は生まれた時から決まっているの。

 私たちが幼馴染っていうのは、きっとそういうこと。

 だから、今度は私を失望させないでね。



 私をもっと……楽しませてね。

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