14話「真夏川青子という女」
俺と真夏川青子(まなつがわあおこ)、青ねえの出会いはもう思い出せないくらい昔のことだ。
お互いの親が忙しいのと、家が隣合っていたことで俺たちは一緒に遊ぶことが多かった。
3つ上の幼馴染。初めはただそれだけの関係だった。
『青子ちゃんは、本当になんでも出来るわねぇ』
『こないだの運動会でも、大活躍だったらしいわよ!』
『弟さんの面倒もよく見てるし、本当にウチの子とは大違いよー』
近所の人たちの青ねえに対する評判はいつも同じ、称賛ばかりだった。
実際に青ねえは何をやらせてもそつなくこなし、クラスメイトからの人気も凄かった。
幼馴染の俺はよく青ねえと一緒にいることが多く、周りからも弟のような扱いを受けることが多々あった。
皆が青ねえを好きになり、好かれようとしていたし、才色兼備、優等生の見本のような彼女に一目を置いていた。
ただ、俺は、俺だけは青ねえに対して異なる感情を抱いていた。
それは一言では上手く表せないが、恐怖に近い感情だった。
ずっと青ねえの近くにいたからかもしれない。
なんでもかんでも彼女の言うこと、やることを肯定しかしない周囲と、褒められても、認められても常に同じ笑い方しかしない彼女の両方に、俺は恐怖に似た何かを感じていたのだった。
だから、中学1年生のあの日、つい聞いてしまったのだ。
ずっと疑問に思っていたあることを、聞いてはいけないことを。
いつも以上に暑い夏の日だった。
部活から帰る途中、偶然学校帰りの青ねえと会った俺は、一緒に帰り道を歩くことにしたのだ。
大きくなってからはあまり一緒に遊ぶ事も、過ごす事もなくなっていた俺にとって、知らない高校の制服を着た彼女はなんだか新鮮だった。
そして久しぶりに色々話すうちに、つい気になっていたことを俺は聞くことにしたのだ。
『かー君も、ウチの高校来れば良いのにー』
『青ねえの高校は、レベル高いから無理だよ…。それに入った時には青ねえ卒業してるし。つーか前から気になってたんだけどさ』
『どうしたの。そんな難しい顔して』
『いや、青ねえってなんかいつもつまらなそうだなー、みたいな?』
『……どういうこと、かな』
『あ、別に悪口とかじゃなくてさ、いつも同じ笑い方してないかなって。あー、これって悪口なのか?』
『………いつから、思ってた?』
『いつからって…結構前だけど、なんか心から笑ってないっていうかさ…』
『…………』
『えっ、と…ごめんごめん、やっぱ今のなしーー』
幼馴染だから。
遠慮せず聞ける仲だと思っていたから。
だからこそ、なんとなく感じている恐怖を払拭したくて言った一言。
それでも気まずい空気を嫌ってやはり訂正しようとした俺が見たのは、今までに一度も見たことのない青ねえの‘笑顔’だった。
『……ふふふ』
『あ、あお…ねえ……?』
『ふふ。うふふ…!すごいね、かー君。まさかとは、思っていたけど』
『お、怒ってるの青ねえ?だとしたらーー』
『怒る?…違う違う、違うんだよ。かー君。私は嬉しいんだよ。私はね、ずっとつまらなかったんだ。本当に、絶望してたんだよ。だけどね、こんな近くにいたんだ』
怖かった。
自分の思っていたことが、現実のものになるような気がして。
初めて見た青ねえの本当の笑顔を見て、俺は自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに、今更気が付いた。
『みんな、私にひれ伏すんだよ。なびくの。…なんでだろうね。誰もね、私を叱ってくれないんだよ、かー君。否定しないの。みーんな私の言いなり。つまらない、本当につまらない人生なんだよ』
『あ、あ…お』
『裏で誰かを虐めてもね、誰も私を責めない。皆が、庇ってくれるの。今までも、これからもきっとそう。誰も本当の私なんて見てない。親も友達も。でもね……う、うふふ!あはははははははははははははは!!』
冷や汗が噴き出る。
今日はこんなにも暑いのに、震えが止まらない。
目の前で笑いながら話す幼馴染は、もう俺の知っているその人ではなかった。
『な、なに言って、ん、の』
『…うん、テストしてあげるよ、かー君。私の初めてになれるかどうかの、テスト』
もう青ねえが何を言っているのか、俺には理解できなかった。
恍惚な表情を浮かべながら、青ねえはそのまま去って行く。
俺はただその後ろ姿を黙って見ているしかなかった。
――そして、この日を境に学校中から俺への虐めが始まった。
まさに地獄の日々だった。
色々な方法で様々な人たちが俺に毎日嫌がらせをしてきた。
友だちだと思っていた奴らからはいつの間にか避けられて、部活でも虐めは止まらなかった。
先生も見て見ぬふりをする。
急な周囲の様変わりに驚愕する俺の耳に入ってきたのはある噂だった。
『知ってる?あの真夏川先輩、弟同然に思ってた四宮君に襲われたらしいよ』
『私、告白を断ったら急に襲われて、って聞いてる!』
『真夏川先輩、泣いてたらしいよ!マジで許せないんだけど…』
青ねえと俺の中学は、当然一緒だった。
そして青ねえは中学でも勿論皆の憧れの的だった。
そんな青ねえに幼馴染で弟同然の俺が、性的な暴力を振るった。
そう学校中でいつの間にか噂になっていた。
彼らからしたら俺は崇拝する先輩をズタズタに切り裂いたゴミクズなわけで、これは虐めではなく制裁だという認識だったに違いない。
誰がこんなデマを流したのか。一人しかいない。
俺にはあの青ねえの笑みが頭から離れなかった。
なぜ青ねえはこんなことをするのだろう。
あの日のことをやはり怒っているのだろうか。
当時の俺にはそれ以上考える余裕はなかったし、あの笑顔の意味も全く理解出来ていなかった
勿論最初は否定もしたし、反抗もした。
しかし誰も信じてくれず、ただ我慢するしかない。
そんな日々を半年ほど続け最早抵抗する気も起きず、学校に行くのも限界が来た日、俺はついに青ねえの家に行った。
予想に反して彼女の部屋に入れられた俺がやることは一つだけだった。
――なぜこんなことをするのか問い詰める?
――怒りに任せて暴力を振るう?
――あるいは謝罪を求める?
俺が選んだ答えはそのどれでもなかった。
『もう、許してください…』
青ねえの部屋に入るなり俺は土下座した。
すでに精神は限界を超えてすり減っていた。
自分が悪いのか、そんなことはどうでも良い。とにかく誰かに許してほしい。
なんとか、してほしい。ただそれだけだった。
『……どういうことかな』
『もう、限界です。許してください…』
『……かー君さ、私のこと、好き?』
『好きです、尊敬してます。だからもうこれ以上――』
『…もう、いいや』
『……じゃ、じゃあ』
『もういいよ。さよなら』
許してくれるのかと、顔を上げた俺が見たのは、まるで地に這いつくばるうじ虫でも見てるかのような真夏川青子の光の無い瞳だった。
完全に興味をなくしたおもちゃをみるような、心底がっかりしたような目で数秒俺を見た後、昔のような張り付いた笑顔でこう言った。
『もういいからさ、早く消えてくれないかな』
こうして半年に及ぶ俺への至る所での虐めは、その次の日からぱったりと止んだ。
誰も俺に構わなくなり、虐めなんて最初からなかったのような日常が戻ってきた。
そして、俺に一生消えない心の傷をつけた青ねえは、程なく家の都合で引っ越して、俺たちは今日まで会うことはなかった。
たまに親同士の付き合いで家を訪ねて来る時があっても、俺は家から逃げ出して絶対に会わないようにしていた。
なぜ、青ねえはあんなことをしたのか。
そして、なぜ急にやめたのか。
俺にはまだ理解できないし、したくもない。
ただ、彼女の笑顔を見ると上手く呼吸が出来なくなる。
恐怖以上のナニカ。
それが俺にとっての真夏川青子なのだ。
「それじゃあ、今は都内の大学に通ってるんだな青子ちゃんは」
「はい、桜陽学院大学ってところで法律を学んでるんです」
「あらー、私も聞いたことあるけど、有名なとこよね。聞いてた通り立派ねー」
数年ぶりに会った青ねえは、より洗練されていた。
明るい栗色の髪は左右に分かれ二つ編みになっている。
大きな目が印象的な端正な顔立ちに、すらっとした体型。
今聞いた話では現役大学生モデルとして活動しているらしく、そこそこ知名度もあるようだ。
どこからどう見ても非の打ち所がない女子大生。
だからこそ、誰も信じないのだ。彼女の内に隠された狂気に、誰も気がつけない。
明子さんも初対面にも関わらず、すぐに打ち解けておりすでに青ねえの術中にはまっているようだった。
目の前には俺が小さい時からいつも見てきた光景が広がっていた。
「春菜、あなたも見習わないとねー」
「う、うん。そう、だね…」
不安そうな春菜の声に、思わず横を向くと、彼女はぎこちない笑みを浮かべていた。
よく見れば手が少し震えている。
そこでようやく俺は彼女の‘体質’について思い出す。
もしかしたら、今春菜には青ねえの心の声が聞こえているんじゃないだろうか。
笑顔の下の狂気を、僅かでも感じ取っていて、それで動揺しているのではないか。
だとすると相当まずい。
間違いなくそれが悟られれば青ねえは春菜に興味を抱く。
そして、あの時の俺と同じ目に、遭う。
「…春菜、さんだっけ?可愛い名前だね」
「あ、ありがとう…ございます」
「……あのさ、私今日泊まらせてもらうんだけど良かったらーー」
「悪いな、青ねえ」
「…何かな、かー君」
話を遮って、まっすぐ青ねえを見る。
本当は今でもすぐに逃げ出したい。だけど、それじゃあ何も変えられない。
俺が死に戻りしてきた目的は、確かに春菜を死なせないためかもしれない。
だけど、俺自身が前に進まなければ、過去と決別しなければ俺は彼女と共に前に進めない。
俺自身も、変わらないといけないんだ…!
震える拳をぎゅっと握りしめ、深く深呼吸する。
俺は、もう逃げるわけにはいかないんだ。
「もうすぐ定期テストでさ。今日は俺の部屋で、テスト勉強する約束してるんだ」
「…へー、そう。それなら私が見てあげようか」
「いや、大丈夫。2人の方が集中できるし、青ねえはお客さんなんだから、ゆっくりしててよ。な、春菜?」
「う、うん、そうだね。約束、してたもんね…ごめん」
「なんだ、お前たちもうそんなに仲良くなったのか。意外と妹思いなんだな、薫は」
「薫君は妹思いよ。こないだなんてーー」
もう後戻りは出来ない。
震えはまだ止まってはいなかった。それでも俺はやらなくちゃならない。
青ねえの好きにはさせない。もう、あんな思いは俺だけで十分だ。
そんな俺の覚悟を嘲笑うかのように青ねえはこちらを見つめてーー
「……テストしてあげる」
そう呟いた。
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