13話「止まったままの時間」


 学生生活というのはあっという間に過ぎるもので、気が付けば初夏。

 言い換えれば世間はゴールデンウィークに入っていた。

 しかし、休み明けに定期テストが控えている俺たちには、ただ遊んでいれば良いだけではない。

 しっかり勉強もした上で思いっ切り遊ぶ。それが正しい学生の在り方というものだ。


「じゃあ始めるぞ。まず佐藤はこれな」

「えっと、これは?」

「ああ、それは世界史の年表穴埋めだな。まずは今回の範囲だけでも3周してくれ」

 

 それぞれの苦手科目を教えてもらい、それに最適かつ短時間で仕上がる方法を提供する。

 佐藤の場合、特に出来事の前後関係が曖昧なため、まずはそこからだ。


「次に春菜。お前は数学が苦手すぎ。とにかく公式覚えんと話にならないから、このプリント1周して、出来なかったとこの公式暗記な」

「……なにこれ。まさか作ったの?」

「そんなの当たり前だろ。俺が見た方が早いしな」

 

 春菜はとにかく数学嫌いのようだ。

 文系科目は得意そうなので、まずは暗記。つまり戦える武器を増やしていく必要がある。

 数学は引き出しの多さ、発想力が大事ではあるがまずは基礎。土台となる部分を鍛えないとな。


「で、最後に海斗。お前は…すまんが無理だ」

「うんうん……ってええ!?」

「とりあえず出そうなところを各教科まとめといたから、このプリントやれ。出来たらもう少し広げるからな」

 

 海斗はとりあえず平均点を目標に少しずつ精度を上げていくしかない。

 まあ意外とこういうタイプはハマれば伸びるのだ。

 俺の生徒でも部活をしっかりやっていた奴は、集中すれば驚く程成績を上げる者が多くいた。


「よし、それじゃあ準備が出来たところで、早速始めようか」

 

 満足気に言った俺が見たのは呆然としている3人の顔だった。

 もしかして少しやり過ぎだったかな、なんて反省しているとゆっくりと佐藤の手が上がる。


「ん、どうした佐藤?誤植でもあったか。だとしたらすまん、徹夜で作ったからーー」

「か、薫…いや、薫さん」

「なんだ?」

「本当に、どうしたの?なんか悪いものでも、食べた?」

「えっ…と、あれ?」

 

 どうやらさっきのは訂正だ。

 “少し”ではなく俺は盛大にやり過ぎたようだった。
















「いやぁ、さっきのはマジで焦ったなぁ」

「本当!薫ったらマジな目して『とりあえず3周な』とか言うんだもん」

「わ、悪い……」

「昨日からずっとパソコンに向かって何してるのかと思ってたけど…まさかこんなプリント作ってたなんて…」

「つ、ついな……いつも世話になってるからなんか恩返しがしたくてな……なんか、すまん。とんだ空回りだな」

 

 ゴールデンウィーク初日。

 今日から5連休ということで、初日くらいは皆で勉強しようと市内の図書館に来たまでは良かった。

 しかし、どうにも塾講師の魂に火がついてしまい、徹夜で3人それぞれのプリントを作った結果、俺はめっちゃ引かれていた。

 仕方ないのだ、これは。

 定期テストと言われればつい、分析してテスト対策プリントを作ってしまう。

 もうこれは慣れだ、職業病だ。


「…いや、正直滅茶苦茶助かってる。これがなかったら俺死んでたかもしれん。だって明日から部活の遠征あるしさ」

「うん。私もある程度までは勉強してたけど、ここまで効率よさそうなのは初めてかも」

「ま、まあ、その、うん……ありがとね。助かる」

「……それなら良かった、かな」

「前から思ってたけど、薫って自分のためよりも他人のための方が力出るタイプだよな」

「私もそれ思ってた。桃園さんのときだって、普段はあんなことしないもんねぇ」

「へ、へー。そうなんだ……ふーん」

 

 最初の勢いには引かれてしまったものの、用意したプリント類自体は大変好評のようで皆それぞれ感謝の言葉を述べてくれた。

 しかし次からは気を付けないとな。

 どうにもこの手のことになると、いまいち加減がうまく出来ないのだ。


「…う、うるさいな。ほら、さっさとやるぞ!」

 

 ――正直、俺は焦っていた。

 死に戻りをしたものの、今のところ妹のためにしたことと言えば、精々図書館やカラオケに付き合うくらいだ。

 彼女のために青春を捧げるなどと大それたことを誓った割には、大した成果など出せていなかった。

 むしろ今の春菜の学校生活を支えているのは、女友達を作ったり一緒にフォローしてくれている同性の佐藤なわけで。

 実際、佐藤がいなければ春菜はこの短期間でクラスには馴染めていないだろう。

 勿論、それは以前の俺ならばやらなかったこと、要するに海斗と佐藤に俺たちが兄妹であるという事情を話し、相談した結果ではあるのだが。

 それでも俺自身で何かをしたのかと問われれば、今の俺には何も言い返せない。

 だからこそ、唯一の得意分野である学習面で、少しでも役に立てればと奮闘しているのだ。

 

 俺には、これしかない。

 あの日、春菜が死んでから、誰からも遠ざかるように人生を過ごしてきた俺に出来ることは、あまりにも少な過ぎる。


「あ、薫。ここなんだけどさ」

「おう。あー、これはな」

 

 そんな自分の考えにどこか疑問を抱きながらも、必死にそれを払い除けて目の前の定期テストに集中する。

 大丈夫。俺は春菜を助けられる。

 俺はもう子どもじゃない。大丈夫。

 そう心の中で繰り返して。


 














「それじゃあ、またなー」

「ゴールデンウィーク中、もう一回くらいは最低でも集まろうね。あ、またプリントよろしく、薫センセー!」

「もうやんねえよ、じゃあな!」

「2人とも、ま、またね!」

 

 夕方。

 海斗と佐藤と別れ、春菜と帰り道を歩く。

 段々と日が伸びて来て、5時を回ってもまだまだ周囲は明るかった。

 とりあえず今日の勉強で皆、ある程度の方針は立てられたと思う。

 後はどれだけ頑張れるかが勝負だな。

 難しく考え込む俺の顔をを、すっと春菜が覗き込んできた。


「……アンタ、平気?」

「ん?」

「昨日もわたしたちのために徹夜して、自分のことは大丈夫なのかって」

「ああ…」

 

 正直、それは問題無い。

 塾講師としての5年、個別指導を中心に、中学1年生から高校3年生を持っていたのだ。

 伊達に飯を食うために5年も勉強していない。

 大学入試ならともかく、高校2年生の勉強なら一通り見ればすぐに思い出せる。

 死に戻りして得たチート能力が、これだけだっていうのも考えものではあるが。


「それなら、大丈夫だ。あのプリントを作ってるんだぞ。逆に言えば、あれくらいはもう勉強してるってことだ。お前は自分の心配してれば良いんだよ」

「ちょ、ちょっと頭触らないでって!もう!」

 

 顔を赤らめて恥ずかしがる春菜を、俺は守りたいと思う。

 兄として、当然の気持ちだ。間違っていないよな。

 ……なんだろう。今朝から心がざわめくのを感じる。

 昨日の徹夜で少し疲れているのかもしれない。


「…そ、そういえばさ、こないだのカラオケあったじゃない」

「…あー、あの歌うと思わなかったら恋話だけで、一切歌わなかったやつな」

「それは言わないで!本当に恥ずかしかったんだから…」

「はは、悪い悪い」

「それでね、クラスの恋話になったんだけどさ…」

「ああ、どうせうちのおしどり夫婦の話だろ。あいつらも早く、くっつけば良いのになぁ」

「うん。勿論その話もしたんだけど、さ。他にも聞かれたりして…」

「他に?なんかうちのクラスでそんな話、あったっけ?」

「わ、わたしとね…アンタの話」

「……えっ」

 

 予想外の話題に思わず足を止めてしまう。

 つられて足を止めた春菜はなんだか少し恥ずかしそうだった。


「ふ、2人は、そ、そ、その、つ、付き合ってるのかって…」

「つき…あ……は?」

「いやね!こないだ北原さん、あ、あの沙織って呼ばれてた子に聞かれて!」

「……そっ、か」

 

 必死に“何か”を否定しようとする春菜の声が遠くに聞こえる。

 

 ――付き合う?

 誰と誰が。

 そりゃ、俺と春菜だろ。兄妹だぞ?

 いや、でも義妹だから法律的には問題無いのか。

 何を言っているんだ。俺が。春菜と?

 ……そんなこと、ありえない。

 だって俺は、コイツを、妹を、目の前にいる不器用だけど、一生懸命自分の壁を壊そうとしている少女を、見殺しにしたんだ。

 

 ーー10年間、春菜の死を後悔してた?

 そりゃそうだ、大事な家族だったんだから。

 大事な家族?

 一体俺は春菜の何を知っていたんだ。

 過去で、俺は彼女と2年間、一度も触れ合おうとしなかった。

 だから彼女の‘体質’のことを俺は知らなかった。当たり前のように。

 

 ――俺は、俺はまだ何もしてない。

 俺が、俺が本当に後悔していたのは……


「だ、だから!つい兄妹だよって答えちゃって……ご、ごめんね。勝手に教えちゃって。でも仕方なくて…」

「…………」

「……もしもし、聞いてる?」

「…あ、悪い。聞いてなかった」

「ちょ、ちょっと!?ちゃんと聞いてよね!こっちだって、は、恥ずかしいんだから!」

「あはは、ごめんごめん…」

 

 頼むからそんな目で、信頼しきっている目で俺を見ないでくれ。

 春菜からの信頼が増すのを感じるたびに、自分の彼女に対する罪悪感が少しずつ増えていくような気がして、俺はその事実から目を逸らすことしか出来ないでいた。

 


 

 

 ――そして、こんな最悪のタイミングで、俺は‘あの人’と、最悪の再会をすることになる。

















 家に帰るとすでに夕飯の準備が出来ていた。

 どうやら材料から察するに、今日はすき焼きのようだったが、若干の違和感を覚える。


「なんか、少し材料多くないか」

「そういえば、確かにそうかも」

「ふふふ、そこに気がつくとはさすが私の子どもたち!」

「おわっ!?」

 

 どこからともなくお玉を持って現れた明子さんに、思わず飛び退いて距離を取る。

 この人は年齢の割にやることが若いんだよな、全く。


「実はね、今日はスペシャルゲストが来るのです!」

「スペシャルゲスト?」

「そう!って言っても私と春菜は会うのが初めてなんだけどねー」

「親父の友達ですか」

「えーっとね、確か…ああ!真夏川青子(まなつがわあおこ)さん!」

「…………え」

 

 親父の知り合いにスペシャルな奴なんていたっけ、と失礼な考えをしていた俺は、明子さんが言った名前を聞いた瞬間に頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。


「真夏川……なんか変わった名前だね」

「なんでも昔この辺に住んでた、薫くんのお姉さん的存在なんですって」

「へー、近所のお姉さんってことなんだ」

「今、お父さんが真夏川さんを駅に迎えに行ってるところなのよ。もうすぐ一緒に帰ってくると思うから、皆で夕飯の準備しましょー」

 

 ……来る。

 あの真夏川青子が。青ねえが来る。

 全身から一気に冷や汗が噴き出るのを感じる。

 逃げないと。今すぐ逃げないと。高校生になってからはいつもそうしてたはず。

 夜まで近所をぶらついて、海斗ん家に泊まらせてもらって。

 朝になってほとぼりが醒めた頃に家に帰る。そうやって切り抜けて来た。

 今回だってーー


「…ねえ、大丈夫?すごい汗だけど」

「はる…な…」

「な、何よ」

 

 逃げるのか。春菜を置いて。そうしたら確実に春菜は青ねえの餌食になるに違いない。

 あの人は絶対に逃がさない。俺たちの関係を知ったら尚更だ。

 俺は、俺は春菜の兄なんだ。

 逃げるわけには、いかないんだ。


《ピンポーン!》


「…っ!?」

「あら、もう帰ってきたみたい!はいはーい!」


 そんな俺の葛藤を無視するかのようにチャイムが家に鳴り響いた。

 もう逃げる事は出来ない。死んだ過去を含めれば数年ぶり、いやもっとぶりの再開。

 もう会う事もなく、そして一番会いたくないと思っていた人。

 そして考える間もなく、リビングに入ってきた彼女を見た瞬間、俺の小さな決意は一気に崩れ去っていく。


「わあ、このリビング懐かしー!……あー!久しぶり、かー君!」

 

 満面の笑みで俺のことを‘かー君’と呼ぶその人は、間違いなく俺の知っている真夏川青子こと、‘青ねえ’だった。


「あ、お…ねえ…」

 



 ――そして俺にとって、地獄の夜が始まる。

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