9話「“声”」


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 初めて違和感を覚えたのは小学校高学年のときくらいだっただろうか。

 当時、戸籍上は父親と呼ばれていた男は外面だけは良い人だった。

 大手一流企業に勤め、同期の中でも出世頭と言われていたようだ。

 誰にでも優しく、上司部下双方からの信頼も厚い、理想的な旦那様。

 でも、誰にでも欠点はあるわけで、父親の場合はそれが致命的なものだった。

 外では優しく気が利く旦那様も、家では俺様の亭主関白の極み。

 それだけならまだしも、自分の機嫌が悪い時はお母さんや、わたしへの暴言や暴力は当たり前のDV男だった。

 お母さんはわたしを守ってくれていたけど、わたしが父親の機嫌を損ねればお母さんが虐められる、殴られる。

 そんな家庭環境の中で、いつしかわたしは泣くことを忘れ機嫌を取ることに一生懸命になっていった。

 わたしがヘマさえしなければ、3人で仲良く暮らしていけるはず。

 今思えばそんなことあり得るはずはないのだが、当時はそれを本気で信じ、他人に合わせてうすら笑いを浮かべる、そんな子どもになっていた。

 でもそんな上辺だけの対応なんて、子ども同士ではすぐに分かってしまうものでーー


『春菜ちゃんって、いつもヘラヘラ笑ってるよね』

『ね!先生にもいつもいい顔してるよね!』

『アイツ、気持ち悪いからこないだ突き飛ばしたんだよ、そしたらさ、笑ってるんだぜ?』

『えっー、気持ちわる!』


 ショックだった。

 偶然聞いてしまったクラスメイトの陰口に耐えられなくて、そのまま学校を飛び出した。

 涙が止まらなくて、なのに作り笑いしか出来なくて、頭の中がグチャグチャになっていく。

 気が付いた時には自分の家の前にいた。


『春菜?……ど、どうしたの春菜!?』

『お、お母さんーー』


 丁度、買い物から帰って来たであろうお母さんと鉢合わせした時に、‘それ’は突然聞こえて来た。


《私のせいだ…!》


『……え?』

 

 それは確かにお母さんの声だった。けれども、目の前のお母さんは何も言っていない。

 困惑するわたしを、涙を流しながら作り笑いをしてるわたしを、お母さんは無言できつく抱きしめる。

 だけど、わたしには確かに聞こえていた。


《ごめんなさい、春菜。本当に、ごめんなさいっ…!》

 

 なぜお母さんが謝っているのか、わたしには分からなかった。

 もしかしたら、いや多分お母さんはずっと前から、心の中でわたしに謝っていたのかもしれない。

 父親の、家庭環境のせいで歪んでしまったわたしに負い目を感じていたのかもしれない。

 でも苦しんでいたのはお母さんも一緒なのだから、お母さんは悪くない。

 無言で涙を流しながらわたしを抱きしめるお母さんの謝罪の‘声’は、しばらく収まることはなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇







 しん、と静まり返った部屋でただ一つ春菜の声だけがよく響いていた。

 ふと時計を見ると既に日付を越えていたが、そんなことを忘れてしまうくらいに、彼女の話は予想外のものだった。


「それからなの、わたしが‘声’を聴けるようになったのは」

「声…」

「その人が心の中で強く思っていること、一般的に言えば本音ってやつかな」

 

 それが至極当たり前のことのように話す春菜を見て、俺は彼女が嘘をついている可能性は極めて低いと思った。

 それでもいきなり「心が読めます」なんて言われて、はいそうですかなんて納得できるわけもない。


「声はね、いつも聞こえるわけじゃないの。でもその人に近付けば近付くほど、鮮明に聞こえやすくはなるみたい」

 

 それを聞いてふと思い出されるのは今朝の出来事。

 あの時春菜はやたらと距離を取りたがった。もしかしてそれはーー


「じゃあ、今朝俺と距離を取ったのは…」

「…ごめん、理由なんて、あの時は話せなかったし、今でも半信半疑って感じでしょ」

「…すまん」

 

 もし彼女の言うことが全て真実ならば、今俺の思っていることも筒抜けってことだ。

 嘘ついたって意味はない。

 俺が死に戻りしていることも、最悪春菜にはバレているということになる。

 俺の返事を予想していたのだろう、春菜は首を振って気にしないで、と答えてくれた。


「むしろいきなり、はい全部信じます!なんて言われた方がよっぽど胡散臭いから」

「まあ、そうだよな」

「結局、両親は離婚したけどこの体質は治らなくってさ。日や体調によって聞こえる頻度も全然違うし、集団の中にいると色んな人の声が一気に聴こえてくることがあって、正直かなりキツいときもあるんだ」

「それじゃあ今日の自己紹介のときのあれは…」

「うん、思ってたより緊張してたみたい。クラスの皆の声が一斉に聞こえて来て、気絶しちゃうかと思ったよ」

「いや、笑えねえよ…」

「あはは……そうだね」

 

 疑問には一通りの答えが出た。

 だから何だというのだろうか。

 春菜が抱えていた問題は、俺なんかが想像するよりも遥かに大きなものだった。

 他人の心の声が四六時中聞こえる?しかも無差別に、自分の意志とは関係なく?

 …そんなの、どうすればいいんだよ。

 

 脳裏に浮かぶ。春菜の死。

 

 それは間違いなく、彼女特有のこの体質絡みに違いなかった。

 つまり、この問題を解決しない限り、彼女を救うことは出来ない…?


「……明子さんは、知ってるのか」

「…ううん、知らない」

「お前なぁ」

「これ以上!…これ以上、心配かけたくないの。謝って、ほしくないの。もう、十分過ぎるほど、お母さんは辛い思い、してるから」

「……そうか」

「それにね、悪いことばかりじゃないから」

「それってどういうーー」

 

 俺が言い終わる前に、春菜はすっと俺を指差した。

 その目には確信めいた何かが宿っている。

 なんだ、俺がどうしたっていうんだ。


「アンタが初めて、なのよ」

「は、初めて…?」


 なにその女子高生に言わせたら捕まりそうなワードランキング上位にありそうな台詞!?

 ――ってこれも聞こえてるのかと、身構える俺に対して春菜は全くの無反応だった。


「…聞こえないの」

「聞こえないって……ま、まさか」

「うん、アンタの声は聞こえない。何故か知らないけど全く、ね」

「マ、マジか」

「最初におかしいと思ったのは、昨日初めて会ったとき。抱きしめられるくらい、近くにいたのに何も聞こえなかった」

「た、単なる偶然とかじゃ?」

「そんなことない。今朝のときだって、そして今だって、アンタの考えていること、何も分からない」

 

 そんな当然のことをこの妹は世紀の大発見みたく言ってのける。

 俺の心だけは読めないって、そんなことあり得るのか。ならばよし。


 ーー本当にこの妹は兄を敬うことの知らない残念な妹だよ、おっぱいは大きいがな!


「いてて!読めてるじゃねえかよ!?」

「読めなくても表情がなんかムカつく!」

「ええっ…」

 

 急にほっぺをつねられたことに対する抗議も虚しく却下される。

 しかし、とんでもない話になってきたな。

 俺が思っていた以上に、事態は深刻なようだ。


「それにね、アンタといると、何故か周りの‘声’が聞こえにくくなるの」

「そ、そうなのか」

「うん。自己紹介のときも、アンタに注目が集まってから、急にクラスの声が小さくなっていったし、夕飯のときもいつもより、お母さんの声が聞こえなかった」

「な、なるほど。それはすごいな」

「…単にうるさい奴が目立ってたからってだけかもしれないけどね」

「おいおい、少しは褒めろっての」

「気にしなくて良いって言ったのはそっちだよ?」

「こ、この妹がぁ…」

 

 目の前の小生意気な妹は置いておいて、どうやら俺の心の声だけは聞こえないのは本当らしい。

 もし俺の考えていることが分かるなら、目の前にいるのはオッサンだってことが春菜にはバレているわけだ。

 だとしたら、この自然な反応はおかしいわけだしな。

 普通多少なりとも動揺するはずだし、そのことについて真っ先に聞いてくるはずだ。

 それに今日の春菜の様子を見て、一番納得のいく説明にもなっていると思う。

 大体俺にはこの桃園春菜という少女が、こんな悪趣味な嘘をつく女の子だとは到底思うことは出来ない。

 彼女の覚悟と意思は本物であることに間違いはないだろう。


「……分かった。とりあえず、俺に出来ることがあれば最大限協力する」

「…………し、信じて、くれるの?」

「なんだ、嘘なのか」

「嘘じゃない!嘘じゃない、けど…」

「あのなぁ、俺はお前の‘お兄ちゃん’なわけ。それ以上に理由が必要か?」

「あ、あり、ありが…ひっく」

「お、おい、泣くなよな!」

「だ、だっでぇ!!」

「分かった分かった!ほらティッシュ使え!な!」

 

 緊張の糸が切れたのか、途端に泣き出す春菜。

 今まで誰にも打ち明けられなかった彼女の苦しみを考えると、それ以上何も言えるわけもなく、俺は泣きじゃくる妹を静かに見守ることにした。


















「…夜遅くまで、ありがとう」

「気にすんな。つーか大丈夫か」

「だい、じょうぶ」


 真っ赤に腫れた目で言われても、全く説得力はないのだが、本人が大丈夫というんだ。大丈夫なんだろう。


「じゃあ、また明日な」

「あの、さ」

「ん?どうした、まだティッシュいるか?」

「ば、馬鹿っ!そうじゃなくて、さ…」

「なんだよ」

「…あ、ありがとう。話聞いてくれて。後、信じてくれて。すごく……嬉しかった」

「……どういたしまして。こっちこそ、ありがとな」


 明子さんにやってもらったように、春菜の頭をよしよし、と撫ででやる。

 春菜も辛かったろうに、よく話してくれたよな、本当に。

 ふと目をやると顔を真っ赤にした春菜がこちらを睨みつけていた。

 やば、調子乗りすぎた。


「あ、あの、春菜さん…?」

「……すみ、お…いちゃん」

「へっ?」

「お、おやすみ!お兄ちゃん!」

「い、今なんてーー」

「うっさい馬鹿!!じゃあね!!」

「は、春菜!?もう一度言ってくれ!」

 

 願い虚しく、春菜は駆け足で自室に戻っていく。

 ‘お兄ちゃん’ねぇ……なんだかむず痒くなる響きと共にこれからの山のような課題を前にして、俺は静かにため息をついた。

 


 ーーとりあえず、麦茶飲んで寝よう。


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