第13話 メグスリノキは視界をふさぐ
以前より日の入りが伸びて、冬より長い時間明るかった空も、夜の8時を過ぎればすっかり暗くなっていた。
川の流れる音が耳に届いて、足には湿った土を踏む感触がする。
暗くなった空にはちかちかと、やや緑がかっているようにも見える黄色い光が自由に泳いでいた。
蛍の光は暗闇に目が慣れるにしたがって増えていく。動かずその場に佇めば、近くに蛍が寄ってきて、少年たちの存在に気づかず通り過ぎて行った。
「――きれいですね。先輩」
「ええ、そうね」
少年の呟きに先輩は相槌を打って答えた。遠くで両親たちが何やら談笑し始めたようで、時折笑い声が聞こえてくる。
中間試験まであと2週間。まだ少し時間に余裕があるとはいえ、いい成績を残したい少年は試験対策を進めていた。
しかし頑張りすぎたのだろう。
初めての特進クラスでの試験なのもあり、どれほど難しい問題が出るのだろうと恐々とした思いで必死に勉強した結果、少年は知恵熱を出した。
見兼ねた先輩は、少年に少しくらい息抜きをしようと声をかける。ちょうど蛍が見ごろな時期もあって、家族を巻き込んで車で少ししたところにある蛍見公園までやって来ていた。
魚のように自由に空を泳ぐ蛍たちを、少年は静かにじっと見つめていた。
確かに、息抜きも必要だ。もしあのまま根を詰めて勉強していれば、こんなきれいな光景は目にしていないだろう。
試験までまだ2週間もあるのだ。必要な対策をとって臨めば問題ない。地道にコツコツとは嫌いではないから、なんとかなるだろう。
そう思い、先輩の方を見れば、
「良い息抜きになったでしょう?」
と、微笑みながら少年に問いかける。
「――そうですね。ありがとうございます、先輩」
先輩には頭が下がる勢いだった。受験生だというのにこうして少年のことを気にかけてくれるのだ。
気を使わせてしまったことに少々の罪悪感あった。それが顔に出ていたようで、先輩から、「受験生に気を使わせてしまったなんて思わなくて良いのよ」
と、言われてしまった。
わざわざ言葉にしなくても良いのに。気まずさに視線を先輩から逸らす。
ふと、視線を逸らした先で、気になるものを見つけた。やや青みがかった黄緑色をした光が、1つ、2つと飛んでいる。光は蛍の群れに紛れるためかちかちかと明滅を繰り返す。しかし蛍と少し違うリズムで光るため、逆に目立ってしまっている。
「先輩、あれ……」
「どれかしら?」
指をさしても先輩の視線は揺らいだままで、その光を追いかけることはない。もしやと思い片目を閉じると見えないはずの視界でちらちらと光り輝いていた。
「――後輩くん、目薬は?」
「……忘れてました」
ポケットに入っていた目薬に手を伸ばして取り出す。中に入っている液体が、たぷん、と音を立てて揺れる。
この液体はメグスリノキが主な成分らしい。効能は、‟見たくないものは見えなくなり、見たいものは見えるようになる”というものだ。
少年は幽霊や魂などと呼ばれるものと、実在する人間や物質と区別がつかないことがある。視界を閉ざしても見える像が本来実在しないものだと認識し区別しているが、いちいち目を瞑ってというのも面倒くさい。何より目を開けているときの視界がうるさい。
だから少年はこの目薬が必要不可欠だった。”本来普通の人間には見えないもの”を取り除くことのできる薬の存在はありがたい。ただ、定期的に点さなければ効果は薄れる。今日は昼から使っていなかったことで薬の効果が切れてしまったようだ。
「――そういえば、先輩に初めて会った時にこれ貰ったんでしたっけ?」
「懐かしいわね」
「もう1年経ったんですね……」
目薬を見て少年は初めてあった時のことを思い出していた。
*****
少年のこの目は生まれつきの持っていた性質だ。
しかし、小学校に上がる頃にはほとんど改善され、さほど他の人と変わらないほどの状態に落ち着いていた。普通と違うことに悩んでいた両親も、安心したように笑って「良かったね」と言っていたことを覚えている。
だが、中学2年生の終わり、再び‟よく見える”ようになった。
きっかけはある事故に巻き込まれたからだと思う。しかし、どうして自分が事故に巻き込まれたのか、そもそもどんな事故だったのか、少年は覚えていない。ショックで事故の記憶を封印しているのだろうというのが医師からの見解だった。そのため、きっかけが事故というのは少年の憶測にすぎない。
当時の少年はそれどころではなく、ただただ混乱するばかりだった。特に外傷もないのに何故か病院のベッドで寝ており、見えなくなっていたはずのものが再び見えるようになっていたのだ。
目の事以外の異常は特になかったので、すぐに退院できた。しかし、久々の情報量の多さで頭痛になることがしばしば起こった。中学は頭痛だけで済んである意味ましだったとも言える。
頭痛に耐え、なんとか希望の高校に入学出来たが、どういうわけかさらによく見えるようになってしまっていた。
授業中の黒板が見え辛い。
うっかり“実在する人”がいないところへ向かって話しかけてしまい、高校から知り合った人間に奇異の目を向けられる。
オカルト好きの人間から人体実験をさせて欲しいとせがまれる。
その他様々な問題もあって、このまま高校生活を送るのは不可能ではという不安が出始めていた。
そんな時、先輩から声をかけられたのだ。
『あなた、よく見えるみたいね。その状態は辛いでしょう?』
そう声を掛けられ、目薬を渡された。
初めは、疑いの眼差しを向けた。
ほとんど隠しきれていなかったものの、自分が一応周りに隠していたことを突然当てられた。それだけでなく、怪しい薬を渡されるのだ。警戒しないはずがなかった。
先輩は、「あげるわ。決心がついたら使いなさい」とだけ言ってその場を去った。
正直、こんな怪しいものすぐにでも捨てようと思っていた。
だが、この目のことで困っていたことも事実で、怪しい薬を頼ってでもなんとかしたい思いはあった。使うべきかどうか悩みに悩み、1週間経ったところでようやく決心して目薬を点した。
目薬を使った後の少年の視界は、なんとクリアに見えることか。
自分の部屋でさえ、時に‟何か”でごちゃごちゃした視界になっていた。それが今、家具や教科書が置かれただけの少々殺風景な部屋があるだけになったのだ。
授業中の黒板の様子もよく見えた。おかげで勉強も捗った。あまりの嬉しさに少年は先輩にお礼を言うべく、普段であれば行きづらい2年生の教室がある階へ向かい、近くにいた生徒に事情を話して案内してもらった。先輩にお礼を言って、小さな菓子の小包を渡した。
先輩は「ありがとう」とだけ言ってそれで終わる予定だったのだろう。だが、少年はそれだけでは気が済まなかった。
『何か、手伝えることはありませんか?』
ただ、お礼をして終わりたくはなかった。少なくとも少年にとって文字通り見える世界が変わったのだ。たかが菓子折り1つではお礼としては弱いと感じた。
だからといってお金を差し出せるほどの経済力は今の少年にはない。
考えた結果、少年は「何か先輩に役立つことをしよう」という答えを出して先輩に問いかけた。
先輩は少しだけ考えるような仕草をした後、「放課後、空いてるかしら?」と聞いてきた。
それからというもの、少年は先輩の手助けをするようになった。
*****
「――なんやかんや言って、色々あった1年でしたね……」
「ええ、色々あったわね」
手伝いを率先して名乗り出た後のことを思い出して、少年は遠い目をしていた。
何度死にかけたりしたことだろう。危うく自分が植物になりかわれるのでは、ということもあった。
他の生徒たちからも先輩と仲良くなったことを機に、色々と頼まれごとを押し付けられたりもした。先輩は基本断らないので、明らかに厄介そうな案件は少年が首を横に振って止めさせた。それが原因で不良そうな生徒に体育館裏に来いなどとマンガでありそうな脅しを受けることになることもあった。
それでも少年は先輩の手伝いをやめようとしなかった。先輩といる時間が楽しいものに変わったからだ。
感謝の気持ちだけでは、この関係は1年ももっていなかっただろう。別の感情もあるからこそこうして一緒に居られるのだ。
「そういえば、その目薬、使い心地はどう?」
一人で物思いに耽っていたところ、先輩の言葉にふと我に返って、視線を目薬に向けた。
「使い心地ですか?」
「私が使うと見えないものが見えるようになっちゃうから、後輩くんと使い心地が違うと思うのよね。以前に聞いたときは視界がクリアになって良かったって言っていたけど、ずっと使い続けていると違和感が出たりしないかしらと思ったの」
「あ、なるほど」
確かに自分のように使い続ける必要がある人間はそうそういない。使い続けた結果、目が悪くなってしまいましたでは先輩も悲しむだろう。
「今のところは問題ないです。……なんというか、目に直接作用するというより、目隠しをされてる気分にはなりますけど」
「目隠し?」
「はい、こう、実際には見えない目隠しが液体になって目を覆うというか……分かりにくいですかね?」
「なんとなくは分かるわ」
「なら良かったです」
とりあえず言わんとしていることは伝わったようでホッとする。
遠くから少年たちの名前を呼ぶ声が聞こえた。暗い中、両親がこちらに向かって手を振っているのが見える。そろそろ帰りたいのだろう。
「それじゃあ、ここでお開きにしましょうか」
「そうですね」
ケータイのライトで地面を照らしながら、少年たちは歩き出す。
そこへ、青みがかった黄緑の光が近づいてきた。少年は触ろうと手を出したがその光は自分の指をすり抜けてどこかへ行ってしまった。
この光はどこへ向かっていくのだろう。
それは少年には分からない。彼岸花での出来事の時とは違い、先輩も導くつもりはないらしい。導かなくても、この光は既に行き先が決まっているのだろう。
「――先輩」
「なあに、後輩くん?」
「これからも、隣にいさせてください」
そう言って少年は、先輩の方を向いて微笑んだのだった。
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