第12話 桃の木の実をもぐ

 桃の木の枝が落ちている。


 それが桃の木だと分かったのは、季節外れの花が咲いていたからだ。もうすぐ梅雨がやってくるこの時期に桃の花が咲くことは珍しい。

 この木の枝は、少年の進行方向の先にあった。少年はどうやってこの木の枝を迂回して通ろうかと迷っていた。


 中間試験まであとおよそ1ヵ月。特進クラスに進級し、なんとしてもいい成績をとりたい少年は、朝早くに学校に向かっていた。家で勉強するより学校の方がはかどるからという理由もある。


 それなのに目の前にこの木の枝だ。季節外れに咲く花は面倒ごとの兆し。そう学習してしまった彼にとってこの桃の枝は警戒するに十分な存在だった。


 この時間帯にこの道を走る車は少ない。通行する人間もほとんどいない。道路は2車線で比較的だだっ広いから、反対側の車線に行けばなんとか迂回できるだろう。そう考えた少年は左右を確認して横断歩道のない道路を横切ろうとする。小学生たちが通る時間帯ではないから「いけないんだー!」と言われることも、お手本になる必要性もない。やむを得ない事情なのだから事情を知る人間はきっと分かってくれるだろう。


 縁石をとび越え、車道へ出た。と、同時に後ろから煙のようなものがこちらに漂ってくるのに気が付いた。

 おそらくこの煙は桃の木の枝から出たのだろう。甘い、桃の香りが少年の鼻へ運ばれてくる。

 しまったと思った時には既に遅く、少年の視界がぐにゃりと歪んだ。眩暈にも似た浮遊感を感じて、立っていられない。周りに寄りかかれる場所もなかった。くらくらする頭を抱えながら少年はその場に座り込んでしまう。


 やっと落ち着いたと思い顔を上げた少年の目の前にアスファルト舗装の道路はなく、木々が生い茂った山道が広がっていた。

「えー……」

 目の前の光景に少年は思わず声を上げた。そんなのありか、と、声に出して言いたい。まさか物理法則まで無視してどこかへ転送されるとは思わなかった。


 周囲の植物を見れば花が咲いている。牡丹に木蓮に金木犀、菖蒲に桔梗にと、季節の花々が咲き乱れなんともちぐはぐな印象を受ける。

 そしてその植物たちはとても嬉しそうに少年を迎え入れ、声をかけてくる。

「待っていた」

「よく無事で」

 歓喜と驚嘆の声がする。それはまるで、もう二度と会うことのないと思っていた知り合いと会うことができたような、そんな声だった。


 この植物たちは誰かと勘違いしているのではないだろうか。少年は周りからの反応に面喰いながら考える。何故なら少年は一度もここに来た覚えはない。彼等とは初対面のはずなのだ。


「ちょっと、静かにしなさい。一度に話しかけられて困っているじゃない」


 高い声が辺りに響いた。途端に、周りの歓声はぴたりと止んだ。


 静寂。

 無音。


 植物たちはさわりとも音を立てずに静かにしていた。突然やって来た静けさは最初こそ驚いたものの、混乱した少年の頭を少しずつ落ち着かせる時間へと変わっていった。


 しばらくしてすっかり落ち着きを取り戻した少年は、先ほど制止した声の主を探す。さわさわと揺れる葉の音をする方を見ると桃の木がそこにあった。


「悪いわね。みんな貴方の無事を気にしてたから、つい興奮しちゃったみたい」

 先ほどと同じ声が桃の木から聞こえてくる。

 桃の木もこの世界同様にちぐはぐな印象を受けた。花が咲き、葉が少しだけ茂り、平べったい桃の実が重そうに成っている。


「でも、ひどいじゃない!面倒なことになりそうみたいな顔して避けるとか!私ほどの植物なら離れてても枝から様子が見えるのよ!」

「えっと……」

「それにしても本当によく無事でいるわね。あんなことするって提案された日から私もずっと気にしていたのよ」

「あんなこと?」

「そうよ!ここにいる植物たちはみんな心配していたんだから!」

「えぇっと……?」

「覚えてないの?」

 矢継ぎ早に飛んでくる発言に少年は曖昧な返答しかできなかった。あんなこととはなんなのかとも質問できる様子ではなさそうだった。


「……人違いじゃないかな?」

 ようやく出た言葉はそれだけだった。

 しかし、桃はまるで首を横に振りたいかのように木々をざわざわと横に揺らす。

「何言ってるのよ。人違いなんてありえないわ。そんな体になっている人間なんて貴方くらいしか考えられないもの」

そう言われた。試しに自分の名前を聞いたら桃から少年の名前が出てきた。どうやら本当に人違いではないらしい。

 では何故自分は覚えていないのか。

 首を傾げる少年を見て、桃の木は少年に記憶がないことに気が付いたようだ。

「あぁ、なるほどね」

と、自分だけ納得したような声を上げる。


「忘れているのなら仕方ないわ。それにどうせ時が来れば思い出すでしょうし。――その時にまたその話をしましょう」

 それよりも、と桃の木は体を揺らして桃の実を少年の前に差し出した。


「食べなさいな。今の貴方には必要なもののはずよ」

「喋る植物を食べるのはちょっと……」

 食べろと言われた少年は、いつかの菜の花のことを思い出して、一歩後ろに下がる。喚き散らされ、恨み言を聞かされた思い出は、少しだけ少年のトラウマになっていた。

「喋らない植物なんてないわよ。貴方たちに聞こえてないだけ。何より私たち一部の植物は誰かに食べられることを目的として作られているのよ。食べない方が失礼だわ」

「そういうものなの?」

「そういうものよ」

 確かに菜の花も食べられないことに対して「あんまりじゃないですかー‼」と叫んでいた。彼らにとって食べられずに終わるのは一種の侮辱に値するのだろう。仕方がないので少年は桃に手を伸ばした。


 皮をむくとより強い桃の香りが鼻に届く。果肉に嚙り付けばやや歯ごたえがある。口の中いっぱいに桃の味が溢れ、嚙り付いたそこからぽたぽたと果汁が漏れた。


 美味しいけど、べたべたするのは嫌だなぁ、などと考えていれば手についていた果汁は、さらさらと細かい砂のような感触になって少年の手から離れていく。その様子を少年が眉根を寄せて見ていたら「べたべたするの嫌でしょ?」と、桃から言われた。どうやら何らかの方法で水分を奪って粉のような状態にしているようだ。自分の手は大丈夫だろうかと視線を移せば、

「失礼ね。人に何の影響なんてないわよ」

と、言われた。


 そのまま食べていると種が顔を出した。種はまるで意思を持つかのように、ぽろりと実から離れて地面へ転がっていく。これも目の前の桃の木がしたことなんだろうか。若干気味が悪いと感じるがこれで残すと怒られそうだ。残った実の部分を口に運ぶ。


 食べ終わったところで改めて木に生えている桃の形を見た。桃の実は平べったい形をしていた。自分の住む地域ではあまり流通を見かけない”蟠桃”という品種だ。


「……蟠桃は確か蟠桃会で食べられる桃だよね?」

「あら、よく知っているじゃない。そうよ。そしてここはその蟠桃会で食べられるために作られた果樹園の入口。桃源郷とも呼ばれている場所の玄関口。私はその水先案内人のようなもの。誰かには『桃源郷口の仙桃』と呼ばれているわ」

「そうなんだ」

 蟠桃会は中国神話などに登場する催しだ。西王母が主催する神仙が蟠桃を食す宴会のこと。そこで出される蟠桃は蟠桃園で育てられる。仙桃とも呼ばれ、食べれば不老長寿を得ると言われている。


 だったら……、と思い至って少年は桃の実をよく観察した。それなりに明るい場所だから気づかなかったが、桃の実はうすぼんやりと発光していることに気が付いた。

 いや、桃の実だけではない。ここにある植物は皆薄く光を帯びている。

 この光には見覚えがあった。年末の神社で、暗い中先輩と共に見たあのタチバナの実と同じ光だ。


「……はじまりを集めた実」

「今の貴方には必要でしょう?」

「さっきからそう言ってるけど、なんで俺にこれが必要なの?」

「教えないわ。忘れているだけだからそのうち思い出すでしょうし」

 どうやらこの桃は意地が悪いらしい。笑うように小刻みに葉を揺らして少年の疑問に答えようとしない。

「思い出さないって可能性はないの?」

「無いわね。あれだけのことをやろうとしていたのだもの。どれだけ忘れさせようとも思い出すための種はそこかしこに蒔かれているわ」

 あとは芽が出るのを待つだけ。桃の木はそう言ってまた葉を小刻みに震わせた。


「さ、もっとじゃんじゃんもいで食べなさい。いくら食べても余分になることなんてないもの」

 また木の枝が少年の方へ伸びる。質量のある実をもいで、少年は口へ運ぶ。2つ目もすんなりと喉を通った。


 食べ終わったころにまた桃の実が差し出される。3つ、4つ目ともなると胃がきつい。甘ったるい味にも慣れて飽きつつあるのを自覚した。

 5つ目を、というところで少年は首を横に振る。これ以上は胃に入らないだろう。

「あら、それならお土産にでもいくつか持って帰りなさいな。足が早いから今日中に食べなさいね」

 1個だけ貰おうともぎ取ったがそれだけじゃ足りないだろうと言われて2個、3個と少年の腕の中に投げ込まれた。それだけでなく背中のリュックサックにまで詰め込もうとするので、丁重にお断りをお願いした。

 それでも腕いっぱいに放り込まれた桃の実は多く、少年は学校に着いたらどこへ置いておけばいいだろうかと悩んだ。とりあえず先輩にいくつか渡そう。そう思った。


「――どうして始まりを集めた実なんてものがあるか前の貴方は知っていたけど、覚えてる?」

「え?……覚えてない」

 突然の桃の木の言葉に少年は首を横に振った。「まぁ、そうよね」と桃は言う。


「はじめてその実ができたのは偶然なんだけど、私や蟠桃園なんかのようなものは貴方たち人間が手を加えて作った、品種改良の賜物よ」

 はるか昔、偶然多くの始まりを集めた実を見つけた人間が、どうすれば意図的にその状態にできないか考えて研究した。研究は上手くいきたくさんの「多くの始まりを集めた実」というものが出来上がった。

 多くの始まりを集めた実はやがて不老長寿の実として知られるようになった。死を恐れた人間はこぞってこの実を増やそうとした。だが、やがて人間の醜悪な部分によって増やすどころか足の引っ張り合いをするようになった。自分の一族のみで占有しようとする者、他人が自分より永く生きることを許せない者、欲望や嫉妬、様々な感情がマイナスの方向へ変わっていく。行動も、より周りの人間の足を引っ張るようなものに変わっていった。


「流石にこのままだと人類が滅ぶとでも思ったんでしょうね。研究の第一人者たちは人々から私たちを隠して事実を神話や昔話に変えた。今この真実をしる人間はほとんどいないわ」

 それでも僅かに知る者がいるのは、植物たちがそう望んだからだ。食べらることを目的として育てられた植物たちにとって食べられない状態になるのが嫌だったと言う。


「だからこれだけは忘れた貴方に教えてあげるわ。またここに来て欲しいから」

それ以外は教えるつもりはないけどと付け加えた後、桃の木は静かになった。


「――いっぱい話したら疲れちゃったわ。貴方も学校があることだし、今日はこの辺にしておきましょう」

 その言葉に少年はハッとして慌てた。そうだ、今こうして悠長に話している時間はない。勉強が出来ないのは仕方がないにしても遅刻なんて言語道断。

 抱えていた桃の実を落としそうになりながら、少年は辺りを見回した。帰る道はどこだろうかと植物が生い茂る世界の中を確認する。


「慌てなくても大丈夫よ。あっちの時間だと5分くらいしか経ってないのだから」

 桃の木の言葉が響く。

 甘ったるい、むせ返りそうなほど強い桃の香りが広がった。


 ここへ来た時と同じような浮遊感が少年を襲う。


 明滅し、だんだんと暗くなる視界が気持ち悪い。

 音が遠ざかっていく感じがする。

 くらくらする視界の中、桃の木の「それじゃ、貴方の神様によろしく」の言葉だけがやけに鮮明に聞こえていた。

 やがて視界が黒に塗りつぶされ、音が全て遠くへと感じられていく。意識を手放す前のあの感覚が、少年を襲ってくる。


 しかし、完全に音が遠ざかる前に、急に音がこちらに戻ってきた。視界も鮮明になり、地に足が付いている。

 そこは少年が登校しようとして桃の木の枝を見つけた道路だった。帰ってきたのだ。


 少年は慌てて腕時計に目をやると、時計の針は思っていたほど進んでいなかった。あちらに連れていかれる直前に時計を見ていないので本当か分からないが、あの桃の木の言う通り5分くらいしか経っていないのだろう。


 幻覚や白昼夢を見ていたのではない。それは腕に抱えている桃の実が証明している。それでも少年はなんだか狐につままれたような感覚で釈然としない。

 ここで棒立ちになっていても学校に遅れるだけだ。何とも言えないもやもやを抱えつつも少年は学校の方へ歩き出す。


 少年は桃の木と別れる時に言われた言葉を思い出していた。

「貴方の神様によろしく」

これは一体どういう意味だったのだろう。


「あら、おはよう後輩くん。どうしたの?その桃」

「先輩……」

 後ろから声をかけられた。振り返ると先輩が首を傾げながらこちらにやって来る。


「朝から色々あったようね」

 話を聞かせて頂戴と先輩から促され、少年は歩きながら先ほどのことを話始めた。






*****


「先輩方、おはようございまーす」


 学校の下駄箱で靴を履き替えていると、見知った少女が話しかけてきた。

 何故か肩にタオルを引っかけており、尋ねると「朝練行ってました」と返ってきた。彼女はどうやら薙刀部に所属して活動しているらしい。てっきり友人と同じ帰宅部だと思っていた。


「あ、そうだ。メッセージ来てると思うんすけど、今日うちの先輩休むそうです」

「……ごめん、ケータイ見てないから気づかなかった」

「あら、本当ね」

 少女が思い出したように声をかけてきた。少年はケータイを取り出し、覗き込んでくる先輩と一緒に確認したら確かに友人から「休みます」とメッセージが入っていた。


「体調悪いの?」

「いや、仮病っす。ちょっとフジナダと用事があって……」

「そうなんだ」

「急ぎの用事だから放課後じゃ間に合わなくて……休むことにしたらしいっす」

「大変ね」

 休みの理由を話した後、本当は自分も一緒に行きたかったと少女は口をとがらせて不満を言う。ただでさえ勉強苦手なのだから休むなと怒られたらしい。


 いくつか少女から漏れる不満を聞いたところでチャイムの音が聞こえた。朝礼まであと10分の予鈴だった。


「そろそろ教室行かなきゃ遅れちゃうわね。後輩くん、またお昼に会いましょう」

「分かりました」


 先輩はひらひらと手を振って1階の廊下の奥に消えていく。2年生である少年の教室は2階、1年生である後輩は3階へ行かねばならないので2人は階段の方へ足を運んだ。


「――先輩、今日の朝、桃でも食べてきたんですか?」

 少女より先に歩いていた少年に、ふと――少女はそんな質問をしてきた。


「え?ううん、?」

「そうなんすか?いえ、めっちゃ桃の匂いがしたんで……」


 今日の朝ご飯には桃は出ていなかった。朝はそれ以外で食べた覚えはない。

 芳香剤もつけた覚えはないが本当にその匂いは自分からだろうかと、少年は服の袖を顔に近づけて匂いを嗅いだ。


「あー、多分気のせいなんで気にしないでくださいっす」

「それならいいけど……」

「はい。では先輩またー」

「ああ、うん。またね」

 匂いを嗅ぐ少年に悪い気がしたのか、少女は少しだけ申し訳なさそうに言った後、手を振って別れた。

 申し訳なさそうな言い方にそこまで気にしなくていいのにと少年は思いながら、階段を上っていく少女に手を振った。その後先生が来る前にと、教室の方へ歩いていく。


 そういえば、今日はかなり朝早く出たはずなのにどうしてこんなぎりぎりの時間になってしまったのだろう。一瞬疑問に思ったがそういえば先輩と校門の前で長話をしていたのだったと思い出す。


 ふわりと、何か花のような香りがした。なんの香かは分からないが少年は良い香りだなと思いながら教室の中に入っていった。



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