第5話 ポインセチアを踏みつける(上)

「今日は用事があって早く帰らなきゃいけないから、ごめんけど別々ね」


 と、ケータイのメッセージに入っていたのが、5時間目と6時間目の間の休憩時間。

 仕方がないので一人で帰ろうと思い、放課後になるや否や少年は、帰りの準備をする。

 誰かと一緒に帰ろうかと一瞬考えたが、止めた。現状を考えると迷惑になることは間違いないからだ。





*****


 十月の半ば頃、少年は先輩と共に金木犀の香水の仕込みに励んでいた。出来上がりは二か月後になると聞かされていた当時は、こんなことになるとは思っていなかった。


 十二月の半ば、金木犀の香水が出来上がったと先輩が言った瞬間から、少年の周りは地獄になった。


『望んだ容姿に変える』香水を欲しがって、生徒が、先生が、男女問わず多くの人間が、少年と先輩に群がった。


 時には目の前で諍いが起き、時には金を積んで頼まれる。人間ここまで醜悪になれるのかと、繰り広げられる光景を見て、少年は思った。


 十二月末の現在。出始めた当初に比べて、訪ねてくる人の数は落ち着いたが、それでもやはり香水を求めてやって来る者はいる。もうすぐクリスマスなのもあってか、それまでに欲しいと言って駆け込んで来る者は後を絶たない。


 こんな状態で友人と帰れば、迷惑をかけてしまうことは想像に難くなかった。

 友人もそれを察してか、「また明日」と言って、教室を出る少年を見送った。冷たいと思う人間もいるかもだが、少年には友人の気遣いが有り難かった。――迷惑をかけられたくないという感情でかもしれないが。


 それよりもとにかく、ここからどうやって無事学校から脱出できるか、少年は疲れて回らなくなった頭で考える。


 確か、図書室のある建物の裏に、ほとんど使われていない急な石段があったはずだ。そこを下っていけば学校を出ることができる。しかもその周辺を通る生徒はほとんどいない。

 そもそも帰り道としてはとても不便な所にあるので存在自体、知っている者が少ない。人に見つからずその石段のところまで行けば、なんとかなりそうだ。


 そう思って少年は周りを気にしながら遠回りをするように下駄箱の方へ行き、存在に気付かれる前に靴を持って図書室のある建物を目指す。幸い誰にも気付かれることなく、少年は外に出ることに成功した。


 十二月だというのに雪はほとんど降っておらず、朝に軽く積もったはずの薄く白い絨毯は、既に姿を失っていた。今年はいつもより暖かいようだ。

それでも風は冷たく、少年の顔へと当たる。乾燥しているのか、ぴりぴりと肌が突っ張る感じがした。


 マフラーで首を隠し、足早に目的の石段へと向かう。やはり寒さからか、人の気配はない。


 そう思った瞬間、どこからか男性の叫び声が聞こえた。


 慌てて声のする方へ走っていくと、男性に巨大な花が覆いかぶさっているのが見えた。

「え、えー……」

 少年は急な出来事に困惑する。先輩と共にいない状態で植物の被害をどうこうするだけの力は、少年には持っていない。


 とりあえず襲われていることは理解できたので、どうにかして助けなければと近づくも、思いの外、花が男性を押さえつける力が強く引き剥がすことができない。


 しかも反撃してくる余裕もあったらしい。ぼこり、と音がしたかと思うと少年の足元に根のような物が出てきて少年の足を掴む。そしてそのまま引っ張り上げられ、投げ出された。


 受け身をとって、衝撃を殺そうとするも上手くいかずに地面へと転がった。背中が痛いがなんとか起き上がると、花に覆いかぶされていた男性は、みるみる花の方へ吸収されていく。


 遅かった。少年のなす術もなく、男性は体全てを花に飲み込まれた。

 

 どうするべきかとおろおろしていると、花がぶるぶると震えだした。そして、先ほど飲み込んだ男を吐き出したかと思うと、花はどんどん小さくなっていく。


「え?」

 何故吐き出したのか理由がわからず男の方へ行くと、男は急に目を覚ました。

「え?あの、大丈夫ですか?」

 こちらの声は聞こえていないのか、男は辺りをきょろきょろと見て、自身の体を見てを繰り返す。


「は、ははははは、あははは!やったやった!」


 そしてそのままこちらを気にすることなく、笑いながら走り出した。少年が声をかけても気にすることなく、どこかへと走っていく。


 取り残された少年は、いまいち状態を飲み込めず、立ち尽くした。

「なんだったのかな……」

 困惑した声でそう言ったところで、帰ってくる言葉はない。


 男を吐き出した花を見る。それは、ポインセチアだった。観賞用に植えられたのか、はたまた花自身が意図をもってここに生えたのか。少なくとも、本来なら自生することはあり得ない花がそこに咲いていた。


 ――二株も。


 先ほどの、男を飲み込み、吐き出したのがこのどちらか一方として、もう一方は?そう疑問に思ったところで、片方のポインセチアが揺れだした。


 このままではいけない。少年は慌てて走り去ろうとする。

 だが、再び地面から突き出してきた根が、足に絡みついてきた。絡みついてきた根に蹴りを入れて、走り出す。しかし、それよりも早く、ポインセチアは大きくなり、少年へと覆いかぶさる。


「うわっ!」


 地面に倒れこみながらも必死に抵抗した。嫌な予感がする。なんとしても逃げなければ、いけない気がする。


 ふと、ぼそぼそと何かを言っているのに気が付いた。小さく聞き取りにくい声で、何かを言っている。


「かわって?代わって……」


 存在を、生き様を、体を、全て代われと、花は言う。呪いのようにぼそぼそと、言う。

 少年の顔から血が引いた。先ほどの男性が吐き出されたのを見て困惑したが、あれは男性そのものではなかったことを知った。知った以上、同じようになる気はない。


「この、放せ!」

 再度、花に向かって蹴りを入れる。花はびくともせず少年に覆いかぶさっている。代わろうと、顔を近づける。


 もうだめだと、思った。このままこの花に吸収され、姿を奪われると、思った。だが、花がこちらに完全に被さる前に、何かが飛んできて花を吹き飛ばす。


「何、しているんですか?」


 声のする方へ視線を向ければ、教室で別れた友人が立っていた。


 彼は、先ほどの男性を引きずりながらこちらに来た。男性はそれなりに重量がある上、抵抗しているにも関わらず、顔色変えることなく引きずってくる。


「成り代わるなら、きちんと交渉すべきでは?同意のない人間に無理やり成り代わったところで、人の世に馴染めはしませんよ」

 友人はそう言って、吹き飛ばした方の花の所へ歩く。


 花の隣には空き缶が転がっていた。おそらく花を吹き飛ばした原因はこれだろう。花を吹き飛ばすほどの威力が、どうやって出たのかは分からないが。


 花は既に元の大きさに戻っており、敵わないと悟ったのか根を伸ばし逃亡を図ろうとする。

 それに気付いた友人は「往生際が悪い」と言って、花を思いっきり踏みつけた。


 花から絶叫が上がる。


 耳が痛いほどの絶叫に、少年は思わず耳をふさいだ。それでも聞こえるのだから、周りにも聞こえているのではと心配になる。


 友人は気にすることなく、もう一つのポインセチアが咲いているところに男性を連れていき、花に顔を近づけさせる。

「ほら、さっさと元に戻りなさい。抵抗するのであれば、それ相応の対処をさせてもらいますよ?」

 脅しに近い文句を言って、友人は成り代わった花に交渉をしかける。こちらの花も観念したのか、みるみるしぼんでいき花の形に戻る。花になっていた男性の方も、元の人型を取り戻した。


「え?あれ?ん?」

 元に戻った男性は、何がどうなっているのかわからないような声をあげながら起き上がった。事態を飲み込めず首をかしげているが少年もどう説明すればいいか分からなかった。


 友人は、「助かったんですからさっさと逃げた方がいいですよ」と、言って、男性をこの場から引き離そうとする。飲み込まれたポインセチアの花が視界に見えたのか、男性は首を傾げつつも青ざめた表情をして、その場から逃げるように走り出した。


 男性がいなくなったのを見計らって、少年と友人はポインセチアの方に目を向けた。だが、そこには花は咲いておらず、掘り起こされた土があるだけだった。


「あ、くそっ」

「意外と口悪いよね」


 悪態を吐く友人に困惑しつつももう一度ポインセチアが生えていた場所に目を向ける。

 友人の態度と掘り起こされた土の状態から察するに逃げられたのだろう。またどこかで花を咲かせて、成り代わろうとするのだろうか。


 何はともあれ、現状は彼に助けられたのだ。今はそのことに安堵するべきであろう。


「えーと、ありがとう」

「良いですよ、別に。ついででしたし」

 お礼を言うとひらひらと手を振って友人は言う。ついでというのは、先ほどの男性のことだろうか。


「あんまり驚いてなかったけど、よくあるの?」

「花が成り代わることです?そこそこありますよ。むしろ貴方が今日までそういった事に遭わないほうが珍しいと思っていたくらいです」


 あれだけ、植物に関わっているのに。そう言われるとそうなのだが、今まで植物が成り代わろうとして襲ってくることはなかった。だからこそ今回の出来事はかなり困惑したし、助かって良かったとも思う。


「しかし、逃げられたのは痛いですね。さっさと踏み潰すべきでした」

 心底残念そうに友人は肩を落とす。成り代わろうとした花と今の彼の発言、どちらの方が攻撃的なのだろう。少なくとも彼の方に慈悲の心はない。徹底的に殲滅しようとする気概すら感じる。だからといって成り代わりたいわけではないのだが。


「あれだけ脅せばこっちには来ないんじゃないかな?」

「それだと別の人が被害に遭うじゃないですか。それならこっちに恨みをぶつけてくれた方がマシですよ」

「そういうところは優しいよね。君」


 ずっとここにいるわけにもいかないので、二人は帰ることにした。表門を通るのは面倒ごとに遭う可能性が高いので、やはり当初の目的通り石段を降りる。既に暗く、足元が見えにくい中、ケータイの明かりを頼りに降りていく。


 かさり、とどこからか音がした。何かがじっとこちらを見て、追ってくるような気配を感じたが、特に何かがあるわけでもなくなく、途中で友人と別れ、無事に家についた。家の前で振り返ったところでは、帰るときに感じた気配は消えており、気のせいだったのかもしれないと思った。

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