第二章 幸運

第四話 資料

「領収書いただけます?漢数字で十五と書いて、十五出版でお願いします。」


無事会社に到着でき、少しホッとする。相変わらず階段を使い、三階へ向かう。受付の女性、もとい梶田さんに挨拶をして、社内に入る。


ひとまず森山さんに報告をすると、僕の入社報告会が催された。とはいえ、多くの社員が出払っているそうで、簡易的なものだった。自己紹介をすると、諸先輩方から貴重なアドバイスをたくさんいただけた。


この業界は初めてなので、当たり前といえば当たり前なのだが、新鮮な体験ばかりだ。作家先生のご自宅にお伺いする経験など、今までの人生では想像もつかなかった。まして一緒に家電量販店でショッピングにしゃれこむことになるとは、夢にも思わなかった。


今回の調べものもそうである。小旅行の際に電車の時刻表を調べたことはあるが、スマホのアプリを使っているため、最短ルートから最安ルートまで、さまざまな選択肢を一瞬で表示してくれる。よくよく考えると、アプリで調べればアリバイが簡単に崩せるだろうが、それはナンセンスだろう。


「よろしくお願いします。」


一言挨拶を入れ、席に座る。担当替えや編集の都合など、さまざまな事情で席はコロコロと変わるそうだ。隣の席には誰もいないが、資料が山のように積み重なっている。雪崩が起きてもおかしくないが、絶妙なバランスを保っており、妙に芸術的な様相を呈している。


森山さん曰く、一日の本数が少ない路線を中心に調べた方が良いとのことだったので、地域鉄道や第三セクターを中心に調べ始めることにした。


―――へぇ、紅葉の山里を走り抜けるのか。風情があるよな。


旅番組やニュースで紹介され、行ってみたいと思うことは数多くあるが、実際に行ける割合は少ない気がする。仕事の都合であったり、金銭的な都合であったりと事情はさまざまであろう。ちなみに僕は、旅先で不運なトラブルに巻き込まれることが怖く、ここ十年ほど、旅行には行っていない。


―――観光地だから他の交通手段も充実してるな。


特にバスがとても充実している。僕の故郷も観光地として有名なので、雰囲気は何となくわかる。


結局、終業時刻まで時刻表とにらめっこを続けた。森山さんはというと、校閲部という部署で田口先生の新作のチェックを受けていたそうだ。田口先生の作品が校閲から指摘を受けることは少ないとのことだったが、今回はいくつか確認すべき点があったようだ。


―――田口先生、今日はありがとうございます。新作の方ですが、校閲が終わりまして、何点か確認させていただきたいのですが、お時間よろしいですか?


森山さんの電話はほどなく終わる。何点か修正されるとのことだった。タイミングを見計らい、今日の報告をしておく。


「森山さん、ひとまず観光地を中心に交通手段をピックアップしてみました。明日には資料にあげられると思いますので、よろしくお願いします。」


書類を森山さんに手渡すと、いくつかアドバイスをいただいた。公共交通機関ばかりに目がいってしまい、自動車という身近な交通手段を見落としていた。


―――そうか、地理的な要因も考えなければならないのか。


「わかりました、ありがとうございます。もう少し練り直してみます。」


「うんうん。あ、そうそう。うちの会社、ワークライフバランス月間で、定時退勤推進中なの。まあ、杉山さん今日が初日だし、無理のない程度で帰ってもらって大丈夫だから。退勤するときは、入口のタイムカード押してね。」


なんだか申し訳ない気もするが、お手伝いできることもなさそうなので、今日は定時で上がらせてもらうことにする。森山さんとの距離も少し縮まったと思うし、これからこの会社でバリバリ頑張ろうと思う。


会社を出ると、丁度バスが止まっていた。路線を確認して、乗り込む。まだ込み始めてはいない時間帯なので、普通に乗ることができた。自宅とは逆方向に進みだすバスだが、今日はこれで良い。プリンターのインクを買いに行く予定なので、家電量販店に向かっている。


家電量販店は昼間に来たところと同じなので、おおよその売り場はわかっている。


―――えーっと、確か五十番のインクだったよな…。


インクを探していると、隣のパソコンコーナーにいる女性が気になった。


―――あ、宮野先生だ。…うーん、声をかけるのはさすがにまずいよな。


宮野先生はかなり迷われているようで、あっちへこっちへと、パソコンコーナーをうろうろされていた。すると視線に気づかれたようで、こちらを見られる。慌てて会釈をしておく。


「あれ、どこかで…あ、出版社で。」


宮野先生がこちらへいらっしゃった。


「あ、今朝は失礼しました。新人の杉山と言います。今日が初日で。」


「杉山さんですか、よろしくお願いします。」


宮野先生が頭を下げられたので、こちらも下げ返す。


「あの…つかぬことをお伺いしますが、パソコン、お詳しいですか?」


「知っている方だとは思いますが、どうかされたんですか?」


知っているといっても、自分のパソコンを選んだ時の知識程度で、グラフィックボードがどうこう、というレベルですでにわからなくなる。オーバークロックなんて言われた日には、何それおいしいの、と答えかねない。


「実は、仕事用のパソコンの調子が悪くて。あ、今度ジョーさんにお願いしておくので、一回診ていただいても良いですか?」


ジョーさんとは、おそらく担当さんのことだろう。


「わかりました、ただお役に立てるかどうかまではわかりませんが…。」


「大丈夫ですよ。ジョーさんも私も機械系は本当にだめで、叩いたり揺すったりしちゃうタイプなんですよね。でもよかったー、よろしくお願いします。」


宮野先生はなぜかとても笑顔だ。僕なら仕事用のパソコンなんて壊れようものなら、結構落ち込んでしまうだろう。高級品だし、データが飛ぼうものなら、しばらくパニックかもしれない。


「それじゃあ、私はこれで。失礼します。」


「はい、お疲れ様です。」


―――なんだか…かわいらしいな…。あ、ダメだダメだ。仕事仕事。


宮野先生はおそらく同い年ぐらいだろう。同世代にあれほどの才能を持つ人がいると思うと、なんだか誇らしくなる。それに、一ファンとしても、うれしい。


レジで精算をしていると、ポイントがかなりたまっていたようで、ポイントで割引してもらえた。


「残り、七円になります。」


財布の中には悲しきかな、一万円札が一枚のみ。なんだか申し訳ない気持ちになるが、一万円で支払いを済ませる。金額的には減っているのだが、質量的には重たくなった財布を抱えて、店を出る。


地下鉄の乗り場を目指す道すがら、相変わらずすべての歩行者用信号に引っかかり続けた。地下鉄もかなり混みあってきたようで、数本あとの普通電車に乗った。


「ただいまー。」


誰もいない自室に向かって声をかける。ポストを見ると、不在表が入っていたので、再配達をお願いしておく。


―――さすがに疲れた。


初日ということで、緊張していたのだろう。肩が凝っている気がする。久しぶりにシップを貼ることになりそうだ。案の定、シップは切らしていた。しかたないので、湯舟でゆっくりすることにしよう。


「ふへーぇ。」


身体に染み渡るようだ。まあ、浸透圧の関係で、本当にお湯が染み渡ったら大変なのだが。湯舟は比較的落ち着く場所だ。これだけ不運な僕でも、今のところお風呂場でトラブルにあったことはない。排水溝がつまる、ということをトラブルに数えるかどうかにもよるが、比較的安全な場所だと思っている。


お風呂から上がり、部屋着に着替えてテレビをつける。


―――ピンポーン。


宅配さんが来たようだ。


「はーい。あ、どうもありがとうございます。」


届いたのは小箱に入ったネクタイだ。以前勤めていたスーパーは制服があったので、ネクタイは就活用の数本しかもっていなかった。今後はスーツが基本となるので、先日注文しておいたのだ。


―――ちょっと派手だったかな。


首元に合わせてみる。まあ、許容範囲だろう。テレビは台風の情報でもちきりだった。日本列島に直撃はしないようだが、影響が出る地域があると予想されている。接近までは二日ほどあるようだが、ベランダを片付けておく。備えあればうれいなし。


プリンターにインクを補充してみるが、どうも調子が悪いようだった。もう十年近く使っているので、買い替え時なのかもしれない。仕方ないので、またどこかで家電量販店に行ってみることにしよう。


―――さてと、早めに休むか。


目覚ましを少し早めにセットして、布団に入る。今日はアッという間の一日だった。一日を軽く振り返ってみるが、この仕事は、案外、自分の性に合っているのかもしれない。そんなことを思った。


翌朝、会社に向かうと、初めてお会いする方が何人かいらっしゃったので、挨拶をしておく。皆さん優しい方ばかりで、暖かく迎えてくださった。この会社に入れたことは、僕の人生における大きな幸運の一つかもしれない。


もう人生二十五年も生きてきた。そろそろ運の確率も本来の理論値に収束するころだろう。そう思うと、胸が高鳴る。


「あ…。」


コピー機が見事に止まった。紙が切れたようだ。やはり運は確率的ではないらしい。悲しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る