第三話 回避

「ナビは私がするから、任せて。…苦手だけど。」


心強い言葉があった。最後方はよく聞き取れなかったが、多分大丈夫だろう。その後、信じられないほどの遠回りを繰り返したが、無事に田口先生のお宅に到着した。帰りはカーナビを使わせてもらおう。


「よかった。最初はたどり着けなかったのよね。」


今の森山さんの言葉は、名誉のために聞かなかったことにしよう。それに誰にでも得手不得手はある。僕の不運も「運の使い方」が不得手と、とらえることもできる。誰でも得手、すなわち強みをいかせれば最高だ。それが仕事になれば、願ったりかなったりと言って良いだろう。


そういえば、宮野先生のあとがきの一説に、次のような文章があった。


―――私は、文章を書くことが得意だと思ったことはない。運よく評価していただけたことで、鈍くわずかに光る才に気づかせていただけた。


僕にも何か才はあるのだろうか。まだ見つけることはできていない。この仕事を通して、何かに気づくことができれば、それは幸運なことなのかもしれない。


「四階なんですけど、階段でも良いです?」


やはり経験とはおそろしいものだ。森山さんからエレベーター回避の提案がなされた。なお、全面的に賛成である。


―――ピンポーン


呼び出し鈴を鳴してみるが、応答がない。


―――ピーンポーン


今度は少し長押しをしてみるが、やはり応答がない。まさか一昨日の僕みたいに、トイレに閉じ込められてしまったのではないか、そんな嫌な想像をしてしまう。もう一度呼び出し鈴を鳴らそうとする。


「うん、出直してきましょう。」


「え、いいんですか?」


予想外の言葉に、戸惑う。


「田口先生、良いアイデアが浮かぶと、夢中で書き続けてしまわれるタイプの先生なの。こういうことは日常茶飯事だし、まあ、杉山さんも少しづつで良いので、慣れていってください。」


僕がカップ麺を犠牲にして、読書に耽ったときのような感じなのだろうか。いや、あれを作家先生の集中と比較するのは、あまりにも不遜である。


結局車に戻り、待つこと二時間。森山さんの電話が鳴る。


「もしもし、森山です。」


―――いや、いつもすみません。まだ、近くにみえますか?


「はい、マンションの駐車場におりますので、今からお伺いしますね。


そして先生、昨日お伝えさせていただきましたが、私と共同担当というかたちで、新人が付きます。併せてご挨拶に伺わせていただきますが、よろしいでしょうか?」


―――あぁ、そうでしたね。はい、いいですよ。よろしくお伝えください。


「ありがとうございます。では、お伺いします。失礼します。」


森山さんは電話をポケットにしまうと、車から降りた。僕も車を降り、鍵を閉めて森山さんの後に続く。


―――ピンポーン


呼び出し鈴を押すと、音が鳴り終わる前に、扉が開いた。


―――ガンッ


「痛っ!」


扉が僕の顔面を捉えた。


「うわっ、ごめんなさい。大丈夫ですか…?」


少し細身で長身、おしゃれなメガネをかけた男性が出てきた。


「お、お構いなく。ぼーっと立っていた僕が悪いので…。」


そもそもこんなことは、それこそ日常茶飯事である。それにそんなに勢いよく扉を開く人はまれなので、音ほど痛くはない。


「すみません…あ、新人の方ですか?」


「そうです。杉山恵介と言います。杉林の杉に山梨の山、恵みに介護の介と書きます。ご迷惑をおかけしないよう、精いっぱい頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。」


「これはご丁寧にどうも。作家の田口幸一です。あ、表札の通り、本名は谷岡です。名前は同じ。こちらこそ、よろしくお願いします。どうぞ、中へ。」


「失礼します。」


森山さんと僕は靴をそろえて、部屋の中に入る。部屋はかなり広いが、とにかく物がない。あるのはテーブルとパソコン、そしてタブレットぐらいだ。冷蔵庫すら見当たらない。


「いや、引っ越したばかりで、まだ何も揃ってないんですよ。」


「先生、もう三か月ですよ。あまり床で寝られるとお身体にも障りますし、そろそろ…。」


むしろ三か月も生活してみえたことがすごいと思う。僕では無理だし、食事などはどうされているのだろうか。


「あー、そうだ。えっと、杉山さん…でしたよね。この後、家具の買い物に付き合っていただいてもよろしいですか?」


「えぇ、構いませんが…。」


僕はそう答えながら、森山さんに視線を送る。特に問題はないようで、小さな頷きが返ってきた。


「いやー、助かりますよ。…森山さんと買いにいったら、店員さんに夫婦と間違われて大変だったんですよ。ベッドなんかキングサイズを勧められるし…。」


最後は、森山さんに聞こえないように耳打ちだった。そんなことがあったのか。まあ、確かに夫婦と間違われても仕方ないかもしれない。


「では、森山さん。これが今回の原稿です。久しぶりの自信作ですよ。」


「はい、では読ませていただきます。」


二人とも一気に真剣な表情になった。場の空気が張り詰める。座布団に座っているということもあるが、皆、正座である。


今回は短編集の一つで、月刊誌にも載るとのことだった。十分ほど経過しただろうか。


「緊張感があって、とても良いと思います。それでですね、七ページのここなんですが、もう少し伏線の幅を持たせるのはいかがでしょうか。」


「あぁ、そこですよね。俺も迷ったんですよね。あんまり露骨でもいけないし、かといって今回はトリックが単純だから、伏線で落としておかないと薄っぺらくなる気もして。」


「では、人物紹介のあたりに少し入れてみてはどうでしょうか。」


「そうですね…。ああ、今回のって巻頭でしたっけ?」


「はい、巻頭です。十二ページの予定なので、人物紹介も入れれると思います。」


その後も専門的な会話が続いた。僕の少ない知識と後から森山さんに聞いたことを総合すると、どうやら伏線がピンポイント過ぎるとのことらしい。確かにトリックがあまりにも早い段階で分かってしまうと、読み手の評価に影響する。もちろん、あえて犯人がわかった状態で話が進む作品もあるので、批判的に論じているわけではない。


結果的には人物紹介の欄に伏線を追加し、本編の伏線は少し弱めるという変更が加えられた。


「これでお預かりします。ありがとうございました。


それじゃあ、私は先に戻るから、あとお願いします。あ、タクシーは領収書もらってね。」


森山さんは車の鍵を受け取ると、そのまま会社へ戻った。果たして会社までたどり着けるのかという問題がなくはないが、さすがに大丈夫だと思う。そして僕は、田口先生とともに近くの家電量販店と家具屋を見て回った。ひとまず一式揃ったが、すべて配達をお願いしたので、田口先生の生活環境が改善されるまでは、あと少しかかりそうだ。


「いや、助かりましたよ。ありがとうございます。こういうの悩んじゃうんですよね。値段もよくわからないし。」


田口先生は二十四歳とのことだった。大学は実家から通われていたそうで、一人暮らしは今回が初めてとのことだった。


「半分家出みたいにして上京したので、両親にも連絡取りづらくて。」


先生のデビュー作は、先生が二十歳はたちの時の作品だ。『音のない部屋』というタイトルで、当時のミステリー関連の新人賞を総なめにした。大手出版社からもたくさん声がかかったそうだが、大学在学中ということもあり、しばらく執筆活動から離れていたそうだ。


「いえ、お役に立てたのであれば、幸いです。」


「あ、そうだ。今度の作品は、時間トリックに挑戦しようと思ってるんですけど、電車の時刻とかを調べてもらっても良いですか?」


「はい、わかりました。森山とも相談しつつ、資料をまとめておきます。」


「よろしくお願いします。じゃあ、俺はこれで。」


「はい、失礼します。」


タクシーに乗り込み、会社へ帰る道すがら、先生の言っていた時間トリックというものについて詳しく調べてみる。あまりミステリーは詳しくないが、基本的には、アリバイトリックに使われるようだ。この時間にこの場所にいたならば、どんな交通手段を使っても現場に行くことはできない、といった具合で、その後、裏に隠されたルートを見つけ出すという流れになるようだ。


「ありゃ、お客さん、ごめんなさい。事故みたいですね…渋滞してます。少し遠回りになりますが、別ルートでも良いですか?」


「ええ、構いませんよ。」


構いませんとも。まだ事故に巻き込まれなかっただけでも、幸運かもしれない。最近はとにかく思考をポジティブに持っていく練習をしている。


僕は「不運」であるという自覚はあるが、決して「不幸」だと思ったことはない。そもそもたくさんの危機を乗り越えて、今しっかりと生きている自分は、それだけでも幸せだとは思っている。

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