第二話 才

階段を上り、三階のフロアに足を踏み入れる。ここが僕の新しい職場だ。目の前には受付があり、女性が一人座っている。前に面接でお邪魔したときと同じかただったので、一通りの挨拶をしておく。


「担当は高崎たかさきさんでしたね。連絡しますので、少々お待ちください。」


受付の女性は、内線電話をかけてくれた。しばらく呼び出しの電子音が鳴り響いたが、どうやら高崎さんは席を外されていたようで、連絡はつかなかった。少しこちらでお待ちください、と促されたので、受付の前のスペースで待たせてもらう。


すると、エレベーターのドアが開き、中から女性が一人降りてきた。暖色だんしょくでまとめたファッションに、黒い大きなバッグを抱えた女性。何が入っているのか、と思うほどパンパンのバッグは、とても重たそうだ。


「お持ちしましょうか?」


「あ、ありがとうございます。でも、もうすぐなので、大丈夫です。」


女性は微笑みながら答えた。言われてみれば確かにその通り。そんな会話をしていると、受付の女性が戻ってくるなり、女性に駆け寄った。


宮野みやの先生、おはようございます。すみません、お忙しいところ。ご案内いたします。」


おっと、作家さんだったようだ。女性はそのまま奥の応接室らしき部屋に入っていった。そんな様子を見ていると、奥から高崎さんが小走りでやってきた。


「いやー、お待たせしました、杉山さん。どうぞ、こちらです。」


高崎さんに連れられ、女性が入った応接室の向かいにある部屋に通された。一通りの挨拶と事務的な手続きを終えると、高崎さんから会社の詳細な説明があった。


「杉山さんもご存じだとは思いますが、わが社は創業してまだ十年の中堅出版会社です。それでも若手の先生を中心に、五十人以上の先生と専属契約を結んでいます。


特に宮野ひびき先生は、昨年度のブルー賞に最年少でノミネートされ、今や恋愛小説界では敵なしと評される先生です。先日作品をお渡ししましたが、お読みになりましたか?」


ブルー賞とは、小説界で権威ある賞の一つである。主に現代ドラマのジャンルに分類される作品が対象で、受賞作品は毎年ニュースでも大きく取り上げられている。


「はい、宮野先生の新境地といった感じがしました。過去の多くの作品は、はかなさのある恋愛にフォーカスされていましたが、今回は一転して、甘酸っぱさを強く押し出した作品に感じました。」


調子に乗ってしゃべりすぎてしまった。少し後悔していると、宮野さんが少し驚いたような表情になった。


「杉山さん、いや、出版業界は初めてということでしたが。以前から先生の作品を?」


「昔から宮野先生の大ファンなもので。出過ぎたことを言いました。すみません。」


「いえ、出版業界で働くうえで、本が好きということは、良い要素だと思います。おそらく挨拶周りなどでお会いする機会があると思いますが、その際はあくまでも会社員として接してくださいね。」


少しテンションが上がる。宮野ひびき先生は、高校生でデビューされた天才作家である。すでにデビューから十年以上経っているが、人気はおとろえを知らない。テレビなどには露出されない先生なので、お顔は存じ上げない。


「さて、仕事の内容についてですが、面接でもお話した通り、先生の担当についてもらうことになります。


どの先生の担当になるかは、現在の担当との兼ね合いもありますので、少々お待ちください。もちろん共同担当という形で先輩社員が付きますので、ご安心ください。」


その後、仕事の詳細やスケジュールについての説明が続いた。高崎さんの言によれば、おそらく田口幸一たぐちこういち先生の担当になるだろうとのことだった。田口先生は、若手のホープと呼ばれているミステリー作家だ。作品は数冊読んだことがある。


「では、上司と配置の相談をしてきますので、ここでしばらくお待ちください。」


一通りの説明を終えると、高崎さんはそう言って、部屋を出て行った。


―――ミステリーか…。


正直あまり得意分野ではない。凄惨な表現は苦手で、そういう描写は読み飛ばすことも多い。それでも担当につく以上は、そんなことは言ってられない。時には内容に踏み込んだ議論も必要となる。


―――では、宮野先生。今度は一週間後にお伺いいたしますので、よろしくお願いします。


ドアごしに廊下の会話が聞こえる。そこで今さらながら気づいた。


宮野先生…宮野ひびき先生だ。


さっき受付でお会いしたのは、あこがれの宮野ひびき先生だった。明るい雰囲気の素敵な方だった。いつか担当につかせてもらえる日が来るならば、作品についてお話を伺ってみたいものだ。


「失礼しますよ。どうもどうも、初めまして。編集部部長の郡山こおりやまです。杉山恵介さんですね。末永く、よろしくお願いします。」


まだお若い部長さんだった。深々と頭を下げられたので、こちらも深々と頭を下げる。


「さっそくですが、杉山さんには田口幸一先生の担当をお願いしたいと思います。主となる担当は、森山さんです。」


部長さんの横に立っていた女性から挨拶を受ける。


「はじめまして、森山もりやま美久みくといいます。よろしくお願いします。」


「はじめまして、杉山恵介です。出版業界は初めてです。ご指導、よろしくお願いします。」


「じゃあ、森山さん、あとはよろしく。では杉山さん、がんばって!」


部長さんはグーサインを残して、編集部へ戻っていった。


「じゃあ、さっそく田口先生のところへ行きましょうか。車の運転、お願いできます?」


鍵を渡され、部屋を出ると、二人でエレベーターに乗り込む。一瞬、嫌な予感がしたが、見事に的中してしまった。


―――ガタンッ


「きゃっ!」


「おわっ!」


大きな音とともに、エレベーターが緊急停止した。本当に申し訳ない気持ちになる。おそらく僕が階段で降りれば、こうはならなかったと思う。


―――警備室です。大丈夫ですか。地震を検知したようです。安全を確認してから、最寄りの階まで動かしますので、しばらくお待ちください。


エレベーターのスピーカーからアナウンスがあった。少しほっとする。十分ほどかかるとのことだったので、田口先生についてお話を伺っておこう。


「杉山さん、落ち着いてるのね。もしかして、初めてじゃない?」


その通りです。どうやら、あまりにも落ち着いていたので、驚かれたようだ。しかし、これで五回目。さすがに慣れるし、驚かなくなる。


エレベーターメーカーさんの名誉のためにも言っておくと、故障で止まった経験はない。どれも災害を原因として止まったものなので、エレベーターとして正常な運行である。


「へー、それは災難ね。」


驚かれた、というよりも信じられないといった表情だった。確かに嘘みたいなはなしである。でも事実なので、しょうがない。


「えっと、田口先生の話でしたね。


田口先生は、ミステリーを中心に活躍されています。最近は新作を構想中ということで、その助けになる資料集めが必要なんです。杉山さんには、資料集め、具体的にはニュースやトリックに使えそうな情報を収集してもらうことになると思います。」


「本当にあった事件を題材にされるんですか?」


「んー、参考にされることはあるみたいだけど。あと、田口先生のミステリーは人が亡くならないことが原則で、殺人事件系は資料収集から外してもらって大丈夫ですよ。」


それはありがたい。そんな会話をして、メモに書き留めていると、エレベーターのディスプレイが再起動した。


―――お待たせしました。今、動きますので。


無事一階に到着した。急がば回れとはまさにこのことかもしれない。先人はやはり素晴らしい知見ちけんの持ち主だったようだ。

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