チャンス

くるとん

第一章 不運な男

第一話 不運

確率というものは、数を重ねるごとに理論値に近づくとされている。ということは、時には偏りも出るということだ。サイコロを数回振って、同じ目が出続けることだってあるだろう。同じ目が出ることを幸運ととらえるか、あるいただ確率の偏りであるととらえるか、それは考え方ひとつだ。


例えば今、天気は雨である。果たして雨であることは、確率的と言えるだろうか。科学技術が大きく発展した現代において、天気予報の精度は格段に上がったとされている。それはすなわち、天気を雨にする要素が発見されたということにほかならない。それでも降水確率という言葉が使われているように、やはり確率的とみることもできるだろう。いかなる事象も、経験則からはずれることがある。


「あれ、傘がない。」


どうやらまた盗まれてしまったようだ。いや、誰かが間違えただけかもしれない。人を疑うのはよそう。たかだか二十回連続で傘をなくしたに過ぎない。


「僕の傘は、またどこかで、誰かを雨から守っているのだろう。」


ポジティブに考えなければ、はっきり言って、やってられない。こうやって雨に濡れながら帰るのは、もう何度目だろうか。最近は外出を控えていたのだが、僕が外出すると雨が降る。


今日だって、降水確率は二十パーセントだった。家を出たときは晴れていた。タイミングが悪いのか、ついていないのか。


「うわっ!」


自動車が盛大に水たまりを散らかしていった。見事にスーツがびしょぬれである。あとからクリーニング代を請求してやろうか。


自分でもよくわかっているのだが、僕は運が悪い。


幼少期から懸賞など当たった試しがない。いつしか応募すること自体やめてしまった。前に勤めていたスーパーでは、僕の入社日に、車がスーパーに突っ込むという事故が起きた。まるで僕が狙われたかのように、品出しを始めていた僕を吹き飛ばした。全治三か月の大けがだった。あげく相手方が任意保険に入っていなかったため、泣き寝入り。労災が下りただけ、まだましだった。


「ただいま。」


一人暮らしなので、家には誰もいない。それでも、帰宅できるとほっとするので、こうやっていつも返事のない呟きを繰り返している。


電気をつけようとするが、つかない。どうやら、さっきの雷で停電してしまったようだ。暗闇からなんとかバスタオルを探し当て、髪や体をふく。


しばらくすると、電気が復旧したので、シャワーを浴びることにした。どうせ風邪をひくので、体を少しでもあたためて、対策をとる。


「今日もなんとか元気に過ごせたな。」


ひとまず生きている、それだけでも幸運なのだ。あの事故のときに、命を落としていたかもしれない。そう思うと、なんとか日々こうして過ごすことができる。


今日は就職面接だった。けがをした後、スーパーをやめてしまったので、最近は就職活動中だ。大学の入試は何度かすべったので、今年で二十五歳。世知辛い時代なので、中途採用してくれる会社はなかなか見つからない。今日だって、面接をしてもらえただけでもありがたい。ほとんどの会社は「お祈りメール」が返ってくるだけだった。


面接の感触は悪くなかった。地元では大きな出版会社で、近々新社屋を建てる予定だそうだ。出版業界に詳しい、というわけでもないが、幼少期から図書館が憩いの場だった。やはり危険が少ない。外に遊びに行けば、車にひかれるかもしれないし、何かが飛んでくるかもしれない。そんな考えを続けるうちに、本とは仲良くなった気がしている。


部屋着に着替えると、かばんの中から今日の書類などをテーブルに並べる。


「濡れてるし…。」


タオルで水気をとる。面接の折、本をいただいた。タイトルは『群青』、作者は宮野ひびきさん。実は昔から宮野先生の大ファンだ。今日も面接帰りに、この本を買おうと思っていた。もらえたのは幸運といって良いかもしれない。


電話が鳴った。


「あ、もしもし。杉山ですが。」


―――もしもし、私、十五出版の高崎と申します。


「先ほどはありがとうございました。」


面接担当者から直々の電話だった。


―――こちらこそ、ご足労いただき、ありがとうございました。お電話で恐縮なのですが、社内で検討した結果、杉山さんを採用することとなりましたので、ご連絡させていただきました。


「あ、ありがとうございます。」


受かってしまった。エントリーすること三十九社。やっと就職先が決まった。


―――つきましては、入社関係書類を郵送いたしますので、そちらに必要事項をご記入いただきまして、今月の二十五日に弊社にお持ちいただいてよろしいでしょうか。その時に業務内容など細かい説明をいたしますので。


「わかりました。よろしくお願いします。」


―――はい。では、失礼いたします。


これでなんとか生活していくことができる。会社までは少し距離があるので、引っ越しも検討しなければならない。一気にあわただしくなってきた。


翌日、郵便受けに書類が届いていた。両親は早くに亡くしているので、身元保証人の欄は、前回同様、兄にお願いすることにした。兄は大手証券会社に勤めるエリートである。年は二つしか変わらないが、年収その他もろもろ、雲泥の差と言ってよいだろう。自分が情けなくなる。


書類の準備が済んだので、汚さないように、棚の上にあげておく。兄は今晩寄ってくれるらしいので、その時にハンコをもらおう。


「あれ、何もない。」


冷蔵庫を開けると、悲しいほどに何もなかった。昨晩は、コンビニで買ってきた弁当を食べたので、気づかなかった。棚をあさると、カップ麺が見つかったので、ひとまずこれでしのぐことにする。


お湯を注いでしばらく待つ。麺は柔らかめが好きなので、時間はあまりはからない。その間に、昨日いただいた本の続きを読む。今度会社に顔を出したときに、感想なりを聞かれるかもしれない。


読み進めていると、玄関のチャイムが鳴った。やや驚いて時計を見ると、もう夜の七時過ぎだった。夢中になってしまった。五時間近くお湯を吸い続けたカップ麺は、なんとも言えない別の食べ物になっている。


玄関のドアスコープを覗くと、兄の姿があった。鍵を開ける。


「おおー、恵介。おめでとう、就職先決まったんだって。」


兄が祝ってくれた。ケーキを買ってきてくれたようなので、冷蔵庫にしまう。兄はカップ麺に興味津々のようだったが、身元保証人のハンコを押してくれた。


「子どもが待ってるから。じゃあ、がんばれよ。」


そう続けると、兄は自宅へと帰っていった。兄の子どもはちょうど二歳になった。かわいい盛りのようで、兄はデレデレである。最近は人気のおもちゃを買うために、朝の五時から家電量販店に並んだそうだ。


肝心の僕はあまり好かれていないようで、会っても距離をとられる。まあ、そんなに会う頻度が高いわけではないので、当然といえば、当然の反応なのかもしれない。


「さてと、まずは食べるか。」


冷めてしまったことも相まって、何とも言えない味だった。兄はショートケーキを買ってきてくれたようだが、見事にいちごが落下している。おそらく冷蔵庫のドアにぶつけてしまったときだろう。しっかりと定位置に戻し、フォークでいただいた。


いただいた本は、とてもおもしろかった。シリーズ物ではないが、普段の宮野先生とは少し毛色の違う作品だった。宮野先生は、はかないラブストーリーを主軸に活躍されている。今回は、はかないというよりも、甘いラブストーリーだった。


「こういう出会い、ないかな。」


取引先の担当者と恋に落ちる。お互いに相手の気持ちを探りあう臆病な恋。なんだか初恋のような、甘酸っぱい気持ちになる。僕の初恋は散々だったので、あまり思い出したくはないが、こういう恋はしてみたいものだ。


その後の数日は、インターネットで会社のことを調べたり、スーツを新調したりと、準備に忙しい日々だった。


「いよいよ明日か。」


初日から遅刻するわけにはいかないので、夜のうちに朝ごはんの支度をしておく。案の定、キッチンの水漏れという非常事態に見舞われたが、こういうアクシデントには慣れたものなので、自分で修理する。


翌朝、少しバタつきはしたものの、予定時刻の十分前には会社に到着した。エレベーターは閉じ込められたことが何度かあるので、階段で三階に向かう。

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