第11話

 ビルの屋上から、インヘルトは戦場を睥睨した。

 戦況は、まあこんなものだとうろと思えるものだった。敵の個体一体一体は、まあそれなりに強さがある。フィジカルに限れば、団員に近いものがあるだろうか。そして、どうやら耐久力も高いらしい。総じて面倒ではあるが、まあそれだけだ。

 傭兵団はその性格上、連携崩壊と戦術破壊を得意としている。つまり、そういったものを使わない相手には、さほど相性がよくない。とはいえ、そもそも一人一人が歴戦の殺人者だ。相性がよくないからと言って、負けるほど柔でもない。

 実のところ、最初にインヘルトが一撃し、敵の数を半数にまで減らしてもよかった。だが、それはしなかった。久しい大規模な戦争だ。団員から、おもちゃを取り上げるような事はしない。

 躯染めは、戦場に混ざっていなかった。少々離れたところで状況を見ている。いや、待っているのか。インヘルトが向かってくる事を。


(思惑に乗るのが楽しいわけではなし)


 思いながら、剣の握りを確かめる。

 両手に持たれたサーベル。柄が太く感じる違和感――こればかりはどうしようもない。握るのに不便がないのだから、諦める。


(が、ここで向かわない馬鹿もなし)


 ふっと、どこか漏らすように笑って。

 インヘルトはコンクリートを蹴った。最初の一歩は、それを割らないように優しく踏み込む。二歩目――空中で、今度は強く蹴り飛んだ。

 人は常に空中に触れている。つまり空気は触れられるのだ。ならば、空気が堅く足場になるほど強く蹴ればどうか。そこは足場になる。簡単な理屈。なのだが、どうにもあまり人には理解されなかった。リルエに至っては、空を踏める術でも付与した靴を履いたら? おもちゃ程度の値段で売ってるんだから。と呆れられた。

 一足飛びで戦場を飛び越える。

 そこに待っていたのは、猿の化け物という表現が一番正しいだろうか。頭頂部まで、4、5メートルほどに見える。といっても、まだ自分の視線の高さにまだ慣れた訳ではないため、あまり信頼できる数字でもない。加えて、躯染めは膝を丸め、しかも猫背だ。手足が異様に長いのにそう見せないのは、筋肉で体が膨れ上がっているからだろう。体中あちこち毛が逆立っており、背中のそれに至っては、ほとんど角のようになっている。

 自然界ではまず自然発生しない生物。つまりはそれが躯染めの特徴だ。そういった意味では、躯染めに改造された生き物やらも、また躯染めと言っていいだろう。

 インヘルトは真正面で、自然体に構えた。膝を少し折り、踵は軽く浮かせる。両手は剣を持ったまま、だらんと下ろすような姿勢だ。傍目からはそうは見えないだろうが、これはれっきとした彼女の戦闘態勢だった。


「おう、リクエストに応えて来てやったぜ」

「来たか……《鍵》……」


 猿のつぶやきが聞こえる。その声は、見た目に反して、かなり人間的だった。どこかつっかえている所はあるものの、声だけ聞かされれば、それが人以外の何かだと思う者もいない、そんな声だ。


「《鍵》だぁ?」


 意味の分からない単語に、インヘルトは疑問符を浮かべる。

 右手の剣を、肩に担ぐ。その行為に意味があったわけではないが、まあ、先手を取るのには適している。相手が急に話を放棄して攻撃してきた時の為と言えばそうだ。そもそも会話になるかすら怪しい相手ではある。

 その懸念は、ひとまず外れたのだろう。躯染めは体を動かす事もなく、口を開いた。


「その通り……《鍵》……ティラノが見つけ……そして……作り上げたもの……」

「ティラノ?」


 急に出された名をつぶやく。

 単に名前だけならば、思い当たる相手はいなかった。


「あの、ウラル山脈の躯染めの事か?」


 それは、ただの当てずっぽうだったが。単に、両者の中で、共通になりそうな相手というだけで出した。

 が、それは正解だったようで、猿は頷いた。背が曲がっているため首がほぼ水平で、首肯もかなり分かりづらかったが。


「しかり……察しがいい……のは……話が早い……助かる……」

「俺は楽しく殺し合いできたからいいんだがな。こっちには迷惑してる人間もいる。国境の曖昧な地点ならいざ知らず、明確に領土を踏み荒らされるってのも割に合わんし」


 理屈が通じる相手とも思えなかった。

 が、予想に反して、猿はかぶりを振った。


「ならば……我が上位者……ティラノの居城……踏み荒らした汝の罪……どう贖う……?」

「はは、全くその通りだ。まあ矛盾してる自覚はあるよ。言ってみただけだ。かわいい弟の代弁だよ」

「…………?」

「これは分からなくていい」


 もとより、全てがどうでもいい。興味があるとすれば、敵が強いかどうか、その程度だ。

 開戦の合図とばかりに一歩踏み出し……しかしそれは、躯染めに手で制された。


「待て……」

「まだなんか話があんのかい?」

「その体と……元の魂……明け渡せ……。さすれば……我は引き上げる……化生どもも……滅ぼそう……」

「いきなり殴りかかってきた割には、ずいぶん殊勝な事を言うじゃないか」

「元より……貴様と……話すのに……邪魔が入らない為……だけの存在……。あれらは……攻めるための……ものではない……。時間稼ぎ……さえ……できれば……いい……」

「興味の引かれねえ話だな」


 ばっさりと切り捨てる。

 だんだんと話に飽きてきたため、足は自然とそこらにある小石を蹴っていた。


「肉体と……魂……ひとつなぎで……《鍵》は……完成する……」

「その《鍵》とやらは何だよ」


 どうでもいい話ではあったが、思わず反駁する。実際、度々出てくる単語で、気になる事ではあった。


「《鍵》とは……この世を……終わらせるもの……」

「私が……この世を終わらせる?」


 思わずつぶやいたのは、フューリアだった。

 今までは、邪魔にならないようにだろう、インヘルトの背後に隠れていたが。少しだけ身を乗り出して、問いかけた。


「然り……。世界は……流転する……。始まり……終わり……それを……延々と……繰り返している……。この世は……終わらねば……ならぬ……。終わり……新たに生まれる……世界の……礎となる……時が……今なのだ……」

「そんな……そんなことの為に!」


 激高しそうになって、フューリアが叫ぼうとして。インヘルトは剣を持ったままの手で制した。

 フューリアは、とりあえずそれで口をつぐんだ様子だった。まだ何か言いたげなのは、気配で分かったが、あえて無視しておく。


「つまりは、ただの破滅願望じゃねえか。下らねえ」

「破滅願望……」


 その言葉を、躯染めが繰り返し。

 くしゃりと、猿顔がゆがんだ。もしかしたら、それは笑ったのかも知れない。


「そうかも……しれぬ……。しかし……我らは……そうしなければ……ならぬ……。それが役割……故に……」

「んじゃ話は簡単だ」


 彼女は言いながら、剣を十文字にクロスさせて構えた。口元だけが、皮肉げにつり上がる。


「俺たちはそれを否定する。お前らはそれが認められない。じゃあ戦って決着つけるしかないわな」

「野蛮……」


 言葉は、こんどは躯染めに切り捨てられた。しかし、言葉の中に、否定の色はない。


「だが……致し方なし……。汝を倒し……《鍵》の機能を……回復させる……」

「始まるぜ! しっかり口閉じて歯ぁ食いしばってろ!」

「はいっ!」


 瞬間、ぼごんと。猿の腹が、爆発したかのように膨らんだ。体を反り返らせ、しかし顔はこちらに向いたままの奇妙な姿勢で。

 躯染めは、かっと今までからは考えられないほどの勢いで、口を開いた。体を前に突き出して、吠えるように体を歪める。腹の中にたまっていた何かが、挙動と同時に勢いよく吐き出された。


「おぉ……おおおおおおおぉぉぉぉぉ!」


 それは、ただの雄叫びの様にも聞こえたが。

 放射状に伸びる不可視の衝撃波は、咆哮などという生易しいものではなかった。

 孤形に、地面が抉り飛ばされる。反射的にそれを避けようとして――インヘルトは足を止めた。背後には、今だ戦っている無数の仲間たちがいる。全員とは言わないが何十人という死者が出るだろう。

 次善の策として選んだのは、踏み込む事だった。真っ直ぐ飛ぶ破壊的な波に、インヘルトは横に剣を走らせる。

 衝撃波はあっさりと両断され、小さな音を立ててはじけ飛んだ。魂啼術――だか何だか知らないが、とにかく術の中枢そのものを破壊してしまえば、力は維持できない。難度はけして低くないが、彼女が好む対処法の一つだった。こうすれば、とりあえず余波は気にしなくていい。


「ゆ……くぞ……!」


 叫喚は、躯染めにとって、文字通りただの裂帛であったらしい。再び体を小さくして、構えらしきものを取っている。

 周囲を、全身をおろし金で少しずつ削るような猛烈な違和感が包む。躯染め全てが持つという、ただ近くにいるだけで魂を損耗させるというフィールドだ。インヘルトも以前の躯染めと対峙した時に味わった。その時よりは、大分弱くは思えたが。それが躯染めの格差なのか、それとも魂が改竄されたためかは分からない。


(とまれ、この程度ならいくらでも戦ってられる。時間制限を気にするほどでもない)


 もっとも、不快感がある事には変わりないが。

 と、その時。


我が声に従えセンテンフィア!」


 フューリアが叫んだ。

 鍵句と同時に、感じていた違和感が消える。


「私とインヘルトさんは深いところで繋がっています。私自身が術を使うことはできませんが、繋がった魂から、インヘルトさんが術を使ったことにする程度はできます。大した術は発動できませんが、この程度の防御術なら任せてください!」

「高度な魂啼術の使い手って、ほんとすげえし怖えなあ」


 思わずぼやかずにはいられない。

 誰に指摘されるまでもなく分かった。これは、理屈の上では可能だが、実際にやってみてできるわけがない類いの事であると。そんな真似をぽんとしてみせるのだから、リルエが恐れ入るのも納得だった。

 下らないやりとりをしている間に、猿は準備を整えていたようだ。

 握った拳に、体毛がまとわりついている。ほとんど角のようだったそれが異様にねじ曲がり、積み重なり、拳の大きさを二倍近くまでして、殴りかかってくる。

 インヘルトは反射的に、体を横に滑らせた。同時に姿勢をも斜めにし、作ったその余分で、剣を振る。

 一瞬、この世のものとは思えない異音がして。両者の体は交差した。

 剣を振り終えた姿勢のインヘルトに、拳を突き出した姿勢の躯染め。両者の丁度中間あたりに、ぽとりと落ちるものがあった。まとわりつき、巨拳の形にしていたそれの、上半分。角の残骸だった。


「言っておくが」


 インヘルトは態勢を戻しながら、振った方の剣を一回転する。柄を指に引っかけて、普段の構え――つまりだらんと下ろす様にしながら。


「俺に切れないものがあると思わない方がいい。それが実体のあるなしに関わらずだ。この世の全てを、俺は切れる」

「大言壮語……である……」


 猿はぼそりと言って、突き出していた拳を引いた。また、ぎりぎりと音がする。角が高速で生えて、再び拳を元のサイズにするのが分かった。


「汝には……この世の理……までは切れぬ……。とはいえ……我が体……容易く……切り刻む……であろう……事も……事実……」


 躯染めが、ぐっと体を反らした。天を仰ぐようにして、目まで細める。

 変化はあからさまだった。全体的に恐ろしく太かった体が、みるみるうちに萎んでいく。というよりも、引き締まっているのだろうか。見るからに筋骨隆々だった体が、アスリートのようになっていく。異様なほどの長身も相まって、体が恐ろしい速度で不健康になっていくようにも思えた。

 変化を終えた猿の体は、例えるならば、棒人間のようだった。全身が引き絞られている。人間であれば骨があるだろう部分までくぼんでいるため、恐ろしく不気味だ。立っていた毛も寝かされている。拳にまとわりついていた角はなくなっており、代わりに、両手に五本ずつ、鋼を無理矢理ねじ曲げたような爪を生やした。


「的は……小さく……動きは……早く……。汝への……対処法……」

「いいねえ、そういうの。頑張って考えまくって、楽しい戦いしようぜ」


 インヘルトは、目つきを狂暴に絞らせてそう言った。

 軽く脱力したような姿勢のまま、一気にトップスピードに加速し、距離を詰める。彼女の得意技だった。

 が。

 躯染めも同じ事をしていた。問題は、予想より何段も素早い事だった。


(まずっ)


 うかつな自分を、思わず罵る。

 振り下ろされる二本の手。そして、合十本の刃。体を無理矢理右にし、両方の剣を一番外側の刃に当てた。

 恐らく肌が、純粋なパワーでは全く及ばない。仮に届いたとして、武器が持たない。それは確信して、外側に滑り込んだ。

 が、逃げたその先に、レイピアの如き針が迫る。躯染めの尻尾だった。逃走先を読まれていたのか、それとも動いた後から対処できるほど、身体能力に差があるのか。おそらくは後者だろう。純粋なスペックで、躯染めに対抗できるわけがない事は、以前の戦いで嫌というほど思い知っている。

 インヘルトはさらに体を沈めて、その分作れた余裕で、右手の剣を引き抜いた。威力に圧されるが、それは織り込み済みだ。剣を払い、突いてくる尻尾に当てる。

 両側から挟まれた形になった。何もしなければ、そのまま押しつぶされるだろう。それだけの余裕が、この怪物にはある。そうなる前に、彼女は地面を蹴った。わずかな隙間を縫って、躯染めの背面へと飛び去る。


「ついでだ、もらっとけ!」


 飛び込み様、上下が反転した状態で。インヘルトは刃を飛翔させて、躯染めの背中に当てた。

 躯染めは避けもしない。無防備に、刃に当たり、その圧はぱちんとはじけて消える。背中には傷一つない。


「無為……」

「だろうよ!」


 回避の必要もないとばかりの躯染めに、彼女もまた、同意して返した。

 飛翔剣。あるいは刃飛ばしなどとも言われる技。正直なところ、類似技が多数あり、そもそも技と言えるほどのものでもないため、正式な名称などない。

 斬撃から直接圧力を生み出せるというのは、中級者の登竜門のようなものだ。つまりは、一撃にそれだけ力を込められているという証左になるわけだが。なぜこれに技名などがないかと言うと、単純に力不足だからだ。刃を飛ばす――飛んでしまうという事は、それだけ一撃に込めるべき力が散っているという事でもある。力を一点集中し、剣のサイズそのままに押さえ込めるようになって、初めて上級者と言える。

 世間ではなぜか、派手な飛翔剣の方がありがたがられるが。上級者――つまりグノーツ傭兵団員くらいの人間になれば、そうのは未熟者の証明に他ならなかった。

 インヘルトも飛ぶ斬撃を使う時は、わざと技の型を崩して放つのだが。それが躯染めに通用するとは思っていない。ただの牽制だ。

 飛翔剣で遅滞させられた行動は、ほんの瞬き程度の時間だったろうが。インヘルトが反転し、地面に立つには十分な時間だった。その頃には、躯染めも彼女の死角に潜り込もうと、冗談みたいな速度で走っていたが。

 技術で劣る相手に、フィジカルの差を生かして力押し勝負を強要する。実に理にかなった戦法だ。


「させないけどな」


 躯染めを追いかけるような真似はしない。どうせ追いつかない事が分かっている。ただ、立ち止まりもしない。それは相手の思うつぼだ。

 敵は気配だけで追って走り、背後にだけは回られないよう立ち回る。

 途中、ばらばらと弾丸が飛んできた。おそらくは魂啼術も込めた、体毛の弾丸。発動されれば何が起きるかも分からないので、全て切り落とす。

 弾丸は大量だった。まるで数十人が、一斉射撃をするような物量。しかしそれを、インヘルトは余裕を持って全て術式ごと破壊した。


(遠距離戦は互いに無為……分かるだろう?)


 半ば唱えるように念じる。

 実のところ、射撃戦は一番避けたいものの一つだった。

 飛翔剣――でもなんでもいいが。とにかくそれで、躯染めをも切れる威力まで高める自信はある。今度は腕だけではなく、ちゃんと腰まで入れれば(わざわざ技術を崩した攻撃をそう言うのも妙な気分だったが)削る事ができるし、いずれそれで死にもするだろう。

 が、その場合どうなるか。

 まず遠距離攻撃を全て捌く余裕はなくなる。自分だけならそれでもいいが、今は仲間が近くにいた。厄介な敵を相手にする上、格上の攻撃にさらされて大丈夫だと思えるほど、傭兵団は強くないし、信頼もしていない。なんとかできそうなのは、せいぜい幹部くらいだ。


接近戦インファイト……乗ってくれよ)


 その感覚も、久しく感じることのなかったものだ。足手まといを背負い、守り、それでもなお戦う。戦争時代以来だろうか。一つ違うのは、当時は相手も味方に損害を与えないという考えは同じだったが、こいつは違う。仲間とも言えない彼の創造物は、所詮は消耗品だ。

 が。

 猿は爪をひときわ鋭くすると、腕を両脇に構えた。


「手足……切り取る……。殺さず……捉える……」

(乗った!)


 彼女は顔には出さず、内心だけで歓声を上げた。

 猿の周囲に、漆黒の槍が生まれる。躯染めお得意の、鍵句もなしに発動される魂啼術だ。それでどれだけ高度な事ができるかは知らないが、少なくとも無詠唱でリルエ以上の出力を発揮できるのは分かっている。

 三つの槍が、同時に放たれる。それらは、まるで生きているかのように独自の軌道を描き、襲ってきた。猿は角度を変えて、襲ってくる。

 インヘルトは双剣を腰だめに構えて、跳ねた。飛ぶ方向はどちらでもいい。躯染めと三本の槍の進行方向を限定できれば。

 先に襲ってきた槍は、右手の半月に振るい、その全てを迎撃した。が、どういった絡繰りか、剣が腐食している。仕方なしに剣を手放し、予備に手をつけようとして。

 躯染めは入れ替えるより早く襲ってきた。勢いを作り、猛然と――来たかと思ったが、その寸前で立ち止まり、体を大きく開く。

 猿の体毛全てが、唐突に、急激に伸びた。全てが穂先となって、インヘルトの体を包み込むほどの大きさで猛然と襲いかかってくる。剣が健在であれば、全て切り払ってしまえばいい話だったが。


「ッ!」


 吐き出しかけた呼吸を止めながら、彼女は中に飛んだ。上方に生える毛だけを斜めに切り飛ばし、抜けようとして。

 恐らくその行動は、躯染めの予想通りだったのだろう。飛んだインヘルトを追うようにして、鉤爪が猛然と襲いかかってくる。


(多少の無茶は!)


 胸中で絶叫し、空を思い切り蹴る。逃げるためではない。反転し、襲いかかってくるその鉤爪に向かって。

 あいていた右手が、逆手で剣の柄に触れる。それを抜き放ちざま、長い腕に体ごと潜り込み、腕を切り飛ばした。

 完全な姿勢とは言えなかったため、右手に重い感触が残る。多少のしびれすらあった。が、それが逆に、賭けの成功も伝えていた。

 一瞬遅れて、どさりと躯染めの腕が落ちる。

 ほぼ同時に、背中に小さく熱さを感じた。どうやら回避は間に合わず、背中をひっかかれていたらしい。異常な防御力を誇るドレスをあっさりと切り裂くのだから、爪の切れ味も、そして躯染めそのものの能力も、尋常ではない。分かっていた事ではあるが。


「止血を!」

「後にしてくれ」


 怪我を見慣れていないのだろう、フューリアが青い顔をして言う。が、それはとりあえず止めた。先ほど魂啼術を使われた時は、とくに違和感はなかったが。次もまたそうであるという補償はない。傷を癒やすのも何もかも、全て戦い終えた後だ。

 躯染めは、切り裂かれた左手から、どろりと紫色の体液を流していた。しかしそれも、肉が盛り上がり、体毛がその上を覆って、すぐに止血する。


「分かった……」


 崩れたバランスを調整しながら、それが言った。


「お前……弱っている……。この程度……で……ティラノに……勝てる……はずが……ない……」

「まー……。その通りだな」


 背中の熱は、じりじりとした痛みに変わってきた。深さはそれほどでもないはずだが、痛みになれていない体だからか、妙に気になる。

 身体能力という点だけで言えば、元の体と遜色ない。身長差についても、元から違和感はなかった。しかし、体にしみこませた経験だけは如何ともしがたい。今までは追いついていた理想に、今は間に合わなかった。とりわけ技術面の低下は著しい。

 下がった能力を補うため、今は勘を総動員している。それでも一手遅れるのが現状だった。背中に負った傷は小さなものだが。その差がそのまま、今だ埋め切れない元の体との差異でもある。


「それで?」


 言いながら、インヘルトは左手の剣を納めた。右手に対応した、別の剣を抜く。これでバランスは整った。まあ、元々出来がいい武器でもないため、さほどの違いはないが。変えられるならば変えるに越したことはない。

 右手は逆手に抜いてしまったため、本来左手で抜くはずだった剣を持っている。持ち手を直し、ついでに用済みになった鞘の留め金を外す。二種類の乾いた音が、地面に響く。音の違いは、納刀されているかどうかの差なのだろう。


「まさかそれで、俺に勝てるとでも言うつもりか? 俺は背中に小さな傷、お前は腕一本。弱体化しようが何だろうが、これが結果だよ」

「油断した……などと……言うつもりは……ない……。我は……全力……であった……。それでも……器が……《鍵》が……弱っている……。これは……重要な……意味を持つ……のだよ……。例え……元の持ち主より……厄介だった……としても……」

「ほーほー。さいですか」


 余裕があるように見せかけて言う。が、実際は、言葉ほどの違いがあるわけでもなかった。一歩間違えれば、結果は逆になっていた……とまでは言わずとも、相打ちくらいは覚悟しなければいけなかった。


(せめて一週間……いや三日、余裕があればな)


 それだけあれば、体をこなれさせる事くらいはできただろうに。少なくとも技術の衰退に折り合いをつけて、でっちあげる事くらいはできた。

 今更言っても、泣き言以外の何物でもないが。自嘲気味に、それは認める。

 ひりつく背中を、感覚だけで確認する。ぬらりとした血が垂れる感触こそあるが、量はさほどではない。本当に、皮膚一枚をかすった程度のものだろう。


(痛みは無視できる。筋肉に傷がなければ、戦闘に支障はない)


 確認し、優位を薄れさせないうちに挑もうとして。

 躯染めの周囲に、再び黒い渦が巻いた。今度は八本。先ほどとは違い、真っ直ぐに飛来してくる。


「それはもう見た!」


 黒槍の中に突っ込んで、インヘルトは剣を滑らせる。両手の剣で、八本全てに切れ込みを入れる。槍は簡単に霧散した。そして、剣も腐食されるような事はない。


「なんと……!」

「二度通じる大道芸だと思うなよ!」


 猿は左腕を失ったからか、構えを変えていた。左半身を引いて、右手が前に来るようにしている。

 腕が振りかぶられ、五本の爪が襲ってくる。が、その硬さにも慣れた。体を頭一つ分だけ縮めて、無造作に左の剣で払った。多少の抵抗はあったものの、爪の半数を断ち切り、内側に潜り込む。

 と、違和感に、インヘルトは急停止した。いくらなんでも簡単に潜り込めすぎる。

 反射的に、ノーマークだった左半身に視線を向ける。腕は、ほとんど根元から断ったはずだ。しかし、そこにはなぜだか、腕がある。


「ちっ!」


 舌打ちして、左腕から逃げるように飛び退いた。

 新しく生え、肥大化した左腕。それが、一瞬前までインヘルトがいた空間を、思い切り引き裂く。

 距離を開けて、改めて観察する。腕だと思っていたものは、腕ではなかった。背中の太く角質な体毛を、束ねて無理矢理伸ばしたものだった。形も手というほど精巧ではなく、どちらかと言えば鞭の先端に刃をつけたものに近い。


「まだ……ま……だ……終われぬ……」


 躯染めの、血を吐くような言葉。

 鞭は体の動きとは関係なしに、ひとりでに激しく動き出した。狙いはめちゃくちゃだが、とにかく早く、射程も長い。

 が、


「斬れば関係ない!」


 脅威を感じるほどの速度でもない。ましてや狙いが定まったものでないなら。

 体を薄くスライスするような軌道で狙ってきた鞭。刃の根元に狙いを定めて、あっさりと寸断した。やはりというか、柔軟性を確保するためか、爪ほどの強度はない。斬るのに苦労はなかった。

 先端の剣は明後日の方向に飛んでいき、鞭は相変わらずむちゃくちゃに振り回されている。これで機能停止しない所を見ると、魂啼術で動かしている訳でもないようだが。いくらか試してみて、術は無為だと悟ったのかも知れない。

 左の剣で、飛びつきざまに斬りかかる。が、これは角度が悪かった。斬撃は右の爪に防がれて、強烈な異音と、大量の火花を散らす。

 右手の剣で追撃をしようとして、しかしそれは中断させられた。背後から鞭が迫っている。前に振るはずだった剣を、背面に走らせる。と、こちらでも金属板を引きちぎるような音が聞こえた。


「!?」


 思わず背後を見やる。そこには、生えかけの刃と、それを半ば寸断している剣が映った。


「もう生えるのかよ!」


 また舌打ちして、体をその場で思い切り捻る。回転の勢いで、爪と刃、両方を弾いた。

 視界が一周し、元の位置に戻る。その時には、すでに躯染めが、背後に向かって跳ねている所だった。


(距離は取りたくねえ)


 腕一本もらったのだから、近距離ならこちらが有利だ。加えて、相手は術に鞭にと、遠距離攻撃手段が豊富である。それらにやられるつもりなどさらさらない。が、今のこの体が、どこで燃料切れを起こすかは分からない。長期戦には不安があった。


(多少の無茶は……)


 思う。が、自分のその思考に、思わず笑ってしまった。


(無茶だって? んなもん、昔にさんざんやったじゃないか)


 幼少期、まだ自分が弱かった頃。そして、まだ二刀流に目覚めず、勝つより負ける方が遙かに多かった頃の話だ。

 死にかける事と試行錯誤の繰り返し。あの頃も戦いは楽しかったが、同時に余裕もなかった。弱い自分が、いつ死んでもおかしくなかったのだから。それこそ、コロシアム支配人の気まぐれ一つで死んでいた可能性だってあった。


(あの頃に比べりゃ、こんなの無茶でもなんでもない!)


 断言し、同時に言葉は叱咤に変えて。

 鞭が足をそぐように低空で飛んでくる。これは飛んで躱す。鞭はすぐさま方向転換し、体のいずこかを狙ってきたが。これは勘だけで避けた。背面のどこかが裂かれたが、それは無視する。

 躯染めが右手を引き絞り、爪を束ね、槍のように突き出してくる。

 ここだ。覚悟を決めて、インヘルトもまた、体を弓なりに縮めた。

 爪の先端と、剣が接触する。拮抗は一瞬だけだった。ぱきり、小さな音が鳴ったと思うと、次の瞬間には、剣が腕の中を滑っていた。

 中指根元から、肘裏にかけて。斜めに滑るようにして、剣が閃く。

 右腕の機能を破壊し、そのまま相手の懐に潜り込み。あいていた左の剣で、斜めに突き上げるように、細い胴を切り裂いた。

 躯染めの体が、一瞬ぶれる。それは、上半身と下半身が分かれた証明だった。

 不気味な色の体液を吹き出し、胸から上だけが地面に倒れ込んだ。下半身は、今だ寸断された事を悟っていないように、構える姿勢のまま直立している。


「ふー……」


 深く……深く息を吐く。

 一度体を休めると、全身が痙攣し始めた。どうやら思っていた以上に疲弊していたらしい。勝負を急いだのは正解だった。

 体を半分にされても、まだ躯染めは生きていた。ただしそれは、本当にまだというだけで、すでに虫の息である。口から、呼吸音だか、それとも何かをしゃべろうとしているんだかも分からない音が漏れている。

 インヘルトは体に活を入れいて、なんとか痙攣を止めた。まだ、全てが終わったけではない。

 彼女は腕をまたいで、躯染めの頭元に立った。躯染めの生命力ならば、まだ悪あがきくらいはできそうなものだが。どうやらそれをする気はないらしい。


「俺の勝ちだな」


 両手はだらんと垂らしたまま――戦闘姿勢なのではない。もう腕を上げるのも億劫なのだ――死にかけのそれに向かって言った。

 躯染めは、こひゅっと息を詰まらせた。そして一度血を吹き出し、再度呼吸をして、口を開く。


「分かっては……いた……」


 声は、かすれた空気の音に混ざり、ひたすら聞き取りづらかったが。なんとか聞こえては来た。


「ティラノ……彼の者が……かなわぬ相手……我如きが……かなうはずも……ない……」

「それでも挑んできたのか、お前は」

「盟約は……無視できぬ……」


 盟約。

 インヘルトには理解のできぬ言葉だったが、彼にとってそれは、とてつもなく重要な事だったのだろう。口の中で転がすように、その単語だけが残っている。


「《鍵》の……存在証明は……果たした……後は……任せる……。我らが……同胞に……」

「同胞、ね。躯染めが派閥を作るなんて初めて聞いたよ」

「派閥……ではない……。これは……意思である……我らの……総意……。いずれ……訪れる……盟約の……時……」


 躯染めは、血だらけの顔で、にっと笑った。そういえば、この化け物が明確に笑う姿を、初めて見た気がする。


「同志には……伝えた……《鍵》……ここにある……と……。我が……役割は……終えた……。戦いは……余分……」

「ならとっとと退けばよかったじゃねえか。わざわざ死ににこなくてもよ」

「そうは……いかぬ……。これが……我である……故に……。人の……言うところの……個性……という……やつか……?」


 言葉は、躯染めなりのジョークだったのかもしれない。

 躯染めは咳き込んだ。いや、もしかしたら笑ったのかも知れない。口の中から、飛沫がいくらか飛んで、顔にぽつぽつと張り付いた。

 それを皮切りに、躯染めの体は急速に衰えゆくように感じた。顔色が、うっすらと白くなっていく。


「あるぞ……《鍵》は……ここに……あるのだ……」


 言葉は、もう独り言のように思えた。目の焦点も合っていない。ただ、薄ぼんやりと、遠くを見ている。遙か彼方、ここではないどこかを。


「ティラノ……は……成功した……。《鍵》は……ここにある……あるのだ……あるのだ……」


 ごほりと、咳をして。それが最後だった。躯染めが動かなくなる。

 生命活動を停止したそれを前に、インヘルトはやっと剣を納めた。

 手を躯染めの顔に持って行き、そっと瞳を閉じさせる。ただの気まぐれだ。それくらいの慈悲はあってもいい気がした、それだけ。


「終わったな」

「はい」


 状況を終えたからか、体に強烈な疲れがやってきた。腕も足も、どこもかしこもが鉛のように鈍く感じる。


「今、体を治しますね」

「頼む。……てか、本当になんてことのないようにとんでもない事するな、お前」

「それほど簡単な事でもないんですよ」


 困ったように、フューリアは微苦笑を浮かべていたが。

 インヘルトは、治癒の、どこかほんのり暖かい感覚に包まれながら考えた。

 《鍵》。そして同胞とやら。問題はまだ山積みだ。猿の躯染めの言葉を信じるならば、また襲撃はあるのだろう。もしかしたら、ティラノとやらより強い躯染めまで襲ってくるかも知れない。

 それに、《鍵》だ。効く限りでは、この体とフューリアの魂でワンセットらしいが。それが揃ったから何なのか、それもまだ分かっていない。

 結局、大半は謎のままだが。


(まあいいか)


 インヘルトは思考を放棄して、そう思った。

 どうでもいいことだ。敵が来るなら戦えばいい。もっと強いなら、自分がさらに強くなればいい。それだけだ。


「あぁー」

「きゃっ」


 いきなり倒れ込み、地面で伸びをするインヘルトに、フューリアが驚きの声を上げる。

 とりあえずは、いいのだ。これでやっと、長い一日が終わったのだから。




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