第8話

 深い闇の中。光の空隙の中。それは観察するように潜んでいた。

 光明に限度などないように、深淵にもまた、限りはない。どこまでも深く潜むことができ、そして、追うことはできない。だが、何かに触れようとするならば、浮上するしかない。

 浮き上がり、闇の瀬から顔を覗かせる。そこからは出ず、視線だけを飛ばし、影とは決して交わらぬ光芒を見やる。

 敗北。

 そして、失敗。

 それだけを確認した。

 先達の作戦は、概ね成功していたのだろう、そう思う。対象を確保し、封印し、そして《鍵》とした。

 極光族の精鋭は、驚くほど呆気なかった。それはまあ、仕方のない事だと思う。千年以上も生きた、人間種族が躯染めと呼ぶ種族と対峙して、対抗できる事の方がおかしいのだ。せいぜい人間種族の部隊程度を想定した護衛が、かなうはずがない。

 が、そこからがまずかった。

 人間種族に古代エルダー級の躯染めと互して戦える存在がいた。それが、わざわざ戦いを挑んできた。

 これを偶然と処理していいものなのだろうか。分からない。どこか、誰かの意図を感じる。それほどの奇跡的な交錯だ。が、疑念を持ったところで、今が変わるわけではない。《鍵》は奪われた。

 計画は頓挫したのか?

 否だ。それは答えた。

 まだ終わってはいない。《鍵》は手の内から零れた。しかし、《鍵》はまだ失われたわけではない。奪った者たちも、それと気づいてはいない。

 再び奪い返せばいい。そして、計画を再開する。ここまで計画を進めた先達に報いる。例え誰かが別の絵を描いていたとして、それに屈する事はできない。

 勝負はついたか?

 否だ。

 このまま負けるか?

 否だ。

 好機を見逃し、計画そのものまで放棄するのか?

 断じて否だ!

 《鍵》を手にする。世界を染める。そして、あるがままに戻す。

 闇の中で決断したそれは。

 闇から這い出て、光を犯す事に決めた。




   ▲▽▲▽▲▽



 【ウラル山脈にて およそ二時間ほど前】




「おもっくそ出遅れとんなあ」


 ブフーは周囲を見回しながら、そんなことをつぶやいた。

 ウラル山脈――というか、かつてウラル山脈の一角だった場所。標高2000メートル級の山々が連なり、景観だけはよかった。季節が季節であれば、その連山に降った雪は、このあたりでも有数の名所ではあったのだ。何より、周囲に目立った危険などもないのが、人気の秘訣でもあった。もっとも、今では危険はなかったと過去形にして語るしかない。もうここを目的とした(物好きな)登山客というのも来ないだろう。

 山の一部は、まるで地震で部屋が崩れたかのように、盛大に倒れている。崩されたのは中腹よりやや下あたりだろうか。腹を割き臓物を飛び散らかせるようにして、長年堅められていた土や岩が吹き出ている。奇跡的に山頂は面影を残しているが、それも土砂に流され、麓あたりで斜めにつんと立っている。高さはどれも2000メートルくらいだったのだから、その山もだいたい同じくらいだったのだろうが。今では700~800メートルほどまで潰されてしまっていた。

 当たり前に、土砂は恐ろしく広域に流れている。最大直径数十キロ――もしかしたら百キロを越えているかも知れない。そんな場所に、しかしぽつぽつと人影はあった。

 人影は、どれも重装備の一般人といった風ではあったが。しかし、その足取りから、現役軍人、ないしは元軍人であることが知れた。

 格好は様々だ。誰も彼も好き勝手に動いているように見えて、観察すれば、いくらかの集団が一つの意思で動いていることも窺える。


「どんくらいおるんやろ?」

「七百人はいるじゃねーか」


 ブフーの言葉に答えたのは、隣に並んでいるポポルだった。


「シナウッセルにベルモパンに……後はどこの調査員やろ。分からへんわ」

「どこから来ててもおかしくないからなあ。久しく見なかった、躯染め様の大狂乱だ」


 ポポルはどうでも良さそうに答えた。

 それより気になる事があったのだろう。彼は呆れるように息を吐きながら言った。


「しかしまあ、わざわざ一般人に擬態なんてするかね」

「ははは、ウチら傭兵団丸出しやからなあ」


 言って、ブフーはけたけたと笑った。

 言葉の通りに、彼らはいつも通りの格好だった。さすがに普段着ではない。着古した、どこかの払い下げの軍服。統一性は、はっきりとない。申し訳程度につけている腕章だけが、彼らを同じ組織だと知らしめていた。それぞれ武器まで持っており、ブフーの相方であるポポルも、剣を腰帯に差している。

 他の集団も、戦闘装備を全く持っていないという訳ではないだろうが。しかし、彼らほどあからさまに持っている者も、そもそも組織を知らしめる何かを持っている事もない。

 ポポルは土砂に足を踏み入れながら、つぶやいた。


「擬態するならするで、徹底してくれりゃいいのによ」

「おもっくそ観察されとるなあ。うまく盗み見てる奴もおるけど、下手くそもぎょーさんおるわ」

「あーっ、うざってぇ」


 うんざりとしながら、ポポルはこきこきと肩を鳴らしていた。

 注目――というよりは監視――を、努めて無視しながら、一行は進んでいった。

 土砂の隅の方にいる人間は少ない。それでもいないわけではないのは、そこに何かがあるかも知れないと思うと、人を置かないわけにはいかないからだろうか。とはいえ、重要度は当然低いので、自然と隅っこにいる人間の練度は低い。

 中央付近に行くにつれて、探索者たちの練度は増していった。足使い、気配の消し方、その他諸々……全てレベルが違う。それはつまり、擬態が不完全だという事でもあるのだが(スパイでもないのだから仕方ないだろうが)。中には軍人然とした態度を隠そうとしない者までいる。


「こいつら隠す気あるんかいな」

「どうだろうな。案外、ばれてもいいと思ってるんじゃないか? うわべだけ取り繕えれば、言い訳になる。連中の考えそうなこった」

「そういや、ここら、国境も曖昧やったっけか」


 ぼんやりと思い出す。

 ウラル山脈は、カイゼリン北西から北方にある山脈だ。この山は、そのままシナウッセル、ベルモパンとの北方を遮る国境になっているのだが。しかし、ウラル山脈そのものは、どの国に所属しているかはっきりしていない。

 まあ、前提が間違いと言えば間違いなのだろう。そもそも相手は、カイゼリン領国を国として認めていない。ただ山脈が境目にちょうどよかったからそうしているというだけだ。

 そんなわけで、ウラル山脈はどの国所属でもあり、どの国所属でもないという微妙な立ち位置なのだが。そのため、あらゆる国の人員が比較的問題なく入り込めてもいる。


「にしたって、一般人のふりもないと思うんがなあ」


 わざわざ躯染めがいるかもしれない場所に群がる一般人。それは、端的に言って自殺志願者の群れだった。

 彼らこそ躯染めはもう死んだと確信している。が、それはあくまで、インヘルトという人間を知っているからだ。

 戦闘狂。強さを求める求道者。頭のネジが何本か外れている。得にならない戦いを買ってでも行う極めつけのアホ。そしてなにより――戦えば必ず勝つ。

 それを知っているからこそ、ブフーらは暢気に散策でもするような気持ちで、ここに来ているのだが。


「あからさまに軍属だと、もっと問題になるんじゃないか? うちだって、調査のためと言われたところで、わかりやすく軍が来てたら準備しない訳にはいかないし」

「どーでもええ事で戦端開かれるかぁ。まーそら確かに面倒やな。名目一般人やからって素通しも問題な気ぃするが」


 一般人の振りをして、軍属の者を潜り込ませるのは、国際協定で禁じられている。

 が、そんなものは、あくまでばれなければいいという程度の話だ。どこもお行儀よく守ってなどいない。まあそもそも、カイゼリンを国家として認めている国は極めて限られているので、協定もクソもないと言ってしまえばそれまでだ。


「なあ。シナウッセルからの人員、どれくらいやと思う?」


 ブフーは、わざとらしく周囲を見回した。

 見られても気にせず目の端に彼らを捉える者、あからさまに目を背ける者。いろいろいる。が、さすがにそれで、どこの所属かまでは分からない。


「さあな」


 ポポルは、ぷっとつばを吐きながら(乾いた風が運ぶ砂を、吸いでもしてしまったのだろうか)言った。


「セナウの話じゃ、こっちに数百人動員してるって予想だが」

「そういや、団長の方に送った人数、十人ちょいって話やったっけ?」

「馬鹿だよなあ」


 くくっ、と彼は笑った。


「ボスをたった十二人で計ろうなんて。しかも、俺らでも片手間に壊滅できる程度の奴だったらしいぜ?」

「やらん方がマシなレベルだったんとちゃうんか」


 何がおかしいのか、笑うポポルと違い、ブフーは呆れて声を漏らした。

 ブフーは自分がそれを任命されたと考えて――背筋が凍り付くのを感じた。もし彼――今は彼女だが――の気分が乗らなければ、死んだと気づくこともなく殺されている。そんな内容の命令だ。

 自分なら、どうしただろうか。考える。多分、命令を下した上官を殺して、軍を出奔していただろう。後のことは……まあ考えても仕方ない。どこかに亡命するなり、とにかく戦うのだけはごめんだ。

 つまりはそういった類いの命令だった。


「探索に数百人……即座に出す人員としては限界に近いだろうな」

「基地の方はからっぽなんちゃうかな。今攻め込んだら簡単に落とせそうや」

「そこだけ取って価値のある基地でもあるめえ」


 ははは、と。これについては、ブフーも一緒に笑った。まあ、馬鹿馬鹿しい仮定だ。

 崩れた山頂を避けて通り、元山の中腹あたり――つまり、躯染めの根城近くになって、一団は足を止めた。

 一番成果がありそうな場所だけあって、その周囲は、人が多く集まっている場所の一つだった。彼らはインヘルトの証言がないため、正確な位置など分からないはずだが。それでも、土砂崩れの様子から、かなり正確に現場を予測したらしい。

 誰もが魂啼術で穴を掘ったり、埋まった場所を探索したりしている。ここくらいになると、明らかに高度な連携を組んで捜索している者もいる。隠す気はあるが、隠し通せるとは思っていないという事だろう。


「んじゃあ、俺らもはじめや」

「はい二人一組になって散って散ってー」


 二人して手を叩きながら、まるで学校の先生が気軽にそうするかのように言った。

 連れてきた団員は、二人を含めて二十人ほどだ。

 他国の動員数に比べれば明らかに少ない。しかし、それも仕方なかった。急場で大量に人を集められるほどカイゼリンは大きな国ではないし、そもそも団員だって多くない。むしろよくこれだけの早さで、団員の一割を集められたと言ってほしいくらいだった。

 私生活が戦闘訓練と自堕落の繰り返しである団員は、即応できる人間などさほど多くない。そもそも、ポポルとブフーからしてまだ酒が入っていた。

 団員は千々になり、思い思いの場所で作業を始める。周囲の人間は、彼らの様子を恐々とした様子で見ていたが、まあ、今更それを気にする者もいない。どうせいつもの事だ。


「なあ」


 ブフーはポポルに声をかけた。

 彼ら二人だけは例外で、一人一人作業を進める手はずになっていたのだが。なんとなく二人とも、近くで作業を行っていた。

 彼は自分の頬を撫で、その一点を指すようにした。


「どや?」

「…………?」


 意味が分からなかったのか、ポポルは答えてこなかったが。


「この新しい入れ墨や。流行を取り入れてみたんやけど。どう? イケとる?」


 ぴん、と。指など弾いて格好をつけつつ。

 言われたポポルは、横目に見ていた彼から視線を外しながら言った。


「いっつもいっつも言われてると思うけど、お前ズレてるぞ」

「えー? そんなことないやろ?」

「だいたい流行って、お前がそもそも流行りに乗り遅れてるんだよなあ……。僻地の廃墟ですらそれが分かるくらいに」

「嘘やろ! そんなことないやん、な?」


 食い下がる。が、もう反応は返してこなかった。


「はー……」


 落胆にため息をついて、ブフーはその場にしゃがみ込んだ。


(俺がめっけられる訳ないやん)


 内心で、愚痴すら言いながら。手に持ったスコップで、申し訳程度に地面を掘る。

 自分の魂啼術適性はあまり高くない。それは知っていることだった。相方のポポルは、かなり芸達者であり、魂啼術も団員上位クラスに扱えるのだが。

 言ってしまえば適正の問題だ。ブフーはこういった作業に向いてない。もっとも得意なのが真正面からの奇襲やらなのだから、仕方のない事でもある。と自分では思っている。


(やる気出ぇへんわ)


 ぶつぶつと、口には出さず愚痴を吐く。

 この手の行動は、そもそもブフーにはもっとも苦手な事なのだ。山のような土砂をかき分けて、捜し物をしろなど無茶にもほどがある。

 まあ、本気でもないだろうとは思っている。その気であれば、リルエなりを指名するだろうし。

 土砂。いったいどれほど崩れたのだろうか。インヘルトが戦っていた場所から、どれだけの土が積もったか。少なくとも、考えたくはない量ではある。


「ばっか馬鹿しい」


 隠すつもりで、漏れてしまったつぶやきは、多少荒く吹きすさぶ風に乗って、誰に届くこともなかった。

 傭兵団の任務は、他国の調査員と同じよう、躯染めが使っていた拠点の調査――と思わせておいて、実は違う。

 彼らの仕事は、極めて簡単だった。どの諜報員よりも先んじてインヘルトの遺体を捜し、それを完全に消去すること。これだけでだ。

 真正面から戦って、体を抹消しろというならば無茶振り極まるが。すでに死んだ体を消し飛ばせというならば、比べものにならないほど簡単なことではあった。積もる土と岩が、数十メートルだか数百メートルだか積んでいなければ、だが。

 ブフーは、ちらりとポポルの方を見た。少しばかり離れた彼は、真剣に地面を調べている。

 長所であり欠点でもある、と彼は思っていた。ポポルはブフーに比べて、大分義理堅いというか、真面目というか。とにかくあまり手を抜く性質ではない。


(そもそも仕事が仕事やからなあ)


 はあ、とひっそりため息をついた。誰も聞きとがめる者がいないと分かっていても、声を大にする気にはなれない。


(団長の体を焼くっていうのも、なんや気分悪いわぁ)


 ブフーはインヘルトとは一世代上だった。だが、それでも、もう思い出すのも忌まわしい奴隷戦士時代――その栄光を得た者は覚えている。最強の奴隷戦士。それが、ただ単に最強の戦士となるまで、そう時間はかからなかった。

 年下ではあるが、一種の憧れがある。憧れは、戦争以降不動のものとなった。

 最強の男、インヘルト。その座を夢見なかった戦士も、少ないだろう。

 今では、かわいらしいお嬢さんだが。それが何の冗談だと、ブフーは未だに思っている。それで比類ない強さを保っているのは、やはりインヘルトとしか言い様がなかったが。


「ちっ!」


 いらだたしげに、舌打ちをする。

 近くにいたどこだかの調査員が、それに反応して、ぎょっとしていた。それは無視して。


(セナウ……あの裏切りモンめ。兄の体を始末するんに抵抗もないんか?)


 本音は分からない。が、あの冷徹で非道な男が、国のために眉一つ動かさず、インヘルトを闇に葬ったとして、違和感ないように思えた。少なくとも、ブフーの知っているセナウ・グノーツ・カイゼリンとはそういった男だ。


「それでも、必要なモンはある、か……」


 今度は抑えめにつぶやく。と、先ほど驚いていた男は(多少距離をおいてはいたが)気を落ち着かせた様子だった。

 セナウ・グノーツ・カイゼリン。まごう事なき支配者であり、同時に人間の屑。だが、あれの力が領国に必要なことは、誰もが認めていた。非道な決断であろうが、裏切りであろうが、それはしなければいけない事だ。そうしなければ保てない。だから不満はあれど、従うしかない。

 インヘルトの肉体破棄も、当たり前にセナウからの依頼だ。

 彼の命令で動くというのは、本当にひたすら気に入らなかったが。やらざるを得ないことでもあった。インヘルトが躯染めと相打った事。その結果、他国の(リルエが言うところの)姫様の体とやらに入れ替わったこと。現在その力は、全盛期に及ばない事。そのどれ一つをとっても、知られて楽しい結果は出てこない。

 どれだけ嫌ったところで、利害の関係だけは無視できない。傭兵団の最大手取引先が、カイゼリン領国政府なのもまた、否定できない事実だ。

 結局もちつもたれつなのだ。

 もっとも、何がどうどれだけ不可欠なことだと言ったところで、気乗りしないのには変わらないのだが。心情的にも、内容的にも。

 考えているうちに、陰鬱な気持ちになりながら、ブフーはたらたらと作業を続けていた。

 そもそもインヘルトの遺体が見つかる可能性自体が低い。加えて、この作業の本命は、間違いなくポポルである。ぶっちゃけて言ってしまえば、ブフーはただの付き添い、おまけだ。緊急時の対処として、他国より一歩先を行くためだけの、ほとんど置物である。

 作業は遅々としながらも続けられ、そろそろ30分ほど経というかという頃だった。

 ふと、空気が変わった。

 何がどう、とあからさまなものではない。流れる風の勢いだとか、温度や湿度だとかいうものとも違う。言葉にするには難しい。が、とにかく、空気に少しだけ、まざりものができたようになった。

 それは、よく知っていると言えば、そうだし、なじみがあると言っても、またそうだ。


(こりゃあ……)


 ブフーはスコップを動かす手を止めた。そして、辺りを見回す。

 特に何が変わったわけでもない。空に浮かぶ雲の動きは、相変わらず鈍重だ。周囲の発掘員たちは、いい加減傭兵団は見慣れたのか、自分の作業に没頭している。土やら岩やら……これらは別に観察して覚えていたわけでもないが、いくらか前とさほど変わった様子は感じられなかった。

 その中で、一つだけ気になる事があった。どうも団員たちは、多かれ少なかれ落ち着かない様子らしい。


(俺だけの勘違いって訳でもなさそうやな)


 スコップを突き立て、その上に手を乗せて、体重を預ける。このむずむずするような感覚の中で、作業を続ける気にはなれない。


(うちらだけが感じて、他の鈍臭い連中には分からんもん……)


 そんなものは、さほど多くない。それは認める。

 逆なら大量にあるのだろう。なにせ傭兵団は、人生経験という意味において、致命的に欠落した集団だ。経験を先鋭化させた、とも言える。

 ではその尖った部分は何なのか。これは言うまでもない。殺し合い。人の生き死にの経験。


(んなもんがここにあるんかいな)


 疑わしげに自問する。

 調査員――というかもうはっきりと、軍の探索部隊は、はっきり言って敵ではない。それなりに高度な銭湯技能を持っているかもしれないが、ただそれだけだ。装備も足りていないこの状況では、それこそブフー一人で皆殺しするに足りる。広域に散っていることを考慮してもだ。

 つまり、敵意を感じたとして、それを驚異だとは思わない。

 虫の知らせのような、背中を何かが這い上がるような感覚は未だ消えない。雑魚相手にそんな状態が長く続くか――考えて、否だと彼は答えを出した。そこには、多分にプライドが交ざってはいたが。


(じゃあ何や……この……)


 消えぬ悪寒は、ついに彼を苛立ちを覚えるまでになった。


(無視すればええことやけど)


 考えながら。

 しかしブフーは、スコップを持ち上げた。肩に担いで歩き出す。

 その時にはすでに、三々五々に散っていた団員たちが、なんとなく集まり欠けている頃だった。


(この感覚をほっとくんは、よくない。経験がそう言っとる)


 団員の中では、すでにまともに作業をしている者はいなかった。生真面目なポポルですら、予感に逆らえず集まろうとしている。

 歪んだ円状に派遣傭兵団が集まり。空気はいよいよ吐き気すら感じさせるようなものになったところで。

 急に、大気が爆裂した。


「!?」


 ポポルは咄嗟にしゃがみ、スコップを捨てた。あいた両手には、それぞれ仕込んでいたショートダガーを握る。

 土砂まで巻き込んで吹き荒れる風は、腕でなんとか遮りながら。その震源地らしき方向に視線を飛ばした。

 そこにいたのは、怪物だった。体長5メートルほどの人型で、上半身が異様に膨れている。姿はゴリラを連想させるが、体毛があるべき部分は全て角になっていた。前面は針のようで、背面はそれより太く長い。尻尾まであるようで、ひょろ長く伸びていた。

 視界の端で、調査団が衝撃に転がされているのが見えた。さすがに、傭兵団の中にはそんな間抜けはいなかったが。


「か……《鍵》……見つけ……る」


 爆風が収まってきた頃、化け物はつっかつっかえに、そんなことを言った。


「く……」


 誰かが――傭兵団員以外の誰かが――叫ぶ。


「躯染めだ!」


 悲鳴は、一瞬にして伝播した。訓練されているはずの軍人はパニックに陥り、そのまま逃げようとする者から、寄り集まって攻撃しようとする者までいる。

 いくらか遠方にいる躯染めが、腕を一振りした。それだけで、何十メートルかに無数の斬撃が飛び散る。刃は、動くこともできない調査員数名を、あっと間に切り刻んだ。

 傭兵団の反応は早かった。一瞬で後退し、一カ所に集まる。ブフーとポポルを先頭にして、油断なく構えていた。


「戦え――」

「逃げろ――」

「集まれ――」


 躯染めの突発的な襲撃。それは、軍においても急事にすら分類されない。それほど現実味のない事であり、同時にそれだけ絶望的な状況でもあるのだ。

 命令というよりただの怒声は、全てがめちゃくちゃな事を言っている。一貫性がなく、また、事態に対応できるほどでもない。

 二人肩を合わせると、ポポルが声を抑えながら問うてきた。


「どう見る?」

「若い個体やな。団長のとは別や」

「だろうな」

「俺たち二人ならやれると思う?」

「よっぽど相性が悪くなければ。後は勝とうと思わなければ」


 インヘルトが戦った個体と別だと確信した理由は、簡単だった。あの戦闘狂が、勝ち負けを半端な形にして終わらせるわけがない。曲がりなりにも無事に帰ってきたのだから(そう言っていいかは微妙だとしても)、対峙した躯染めは死んでいる。これだけは確実だ。

 だいたい、目の前の躯染めは弱い。あくまでインヘルト基準での話だが。


「集合! まずは集まるのだ! バラバラでは対処できるものもできなくなる――!」


 そう叫んだのは、すでに髪が真っ白に染まった初老の男だ。どこの所属までかは分からないが、おそらく部隊長格なのだろう。


(うっさ……)


 絶叫に、ブフーはどうでもよさそうに吐き捨てながら。

 初めて見る躯染めという存在に、頭を整理させた。

 そもそも、生物と魂の関係とはどういうものか。生物は成長する。それと同時に魂も成長する。そう、。どちらか片方が欠けても成り立たない。だからこそ、術で魂だけ切り離して動いても、その形は肉体のそれと同じなのだ。

 しかし躯染めは違う。彼らは魂でのみし、それが物理的強度に耐えられるまでになると、肉体を持つ。魂と肉体が等価なのではない。を染める。だから躯染めと呼ばれる。

 魂が物理に勝る力を持つことから分かるとおり、躯染めは発生すると当たり前に強靱な肉体と、強力な魂啼術を扱える。魂だけで成り立てるが故に、その成長は限度を知らない。時間経過とともに、勝手に強くなるからくりもこれだ。

 さらに厄介なのが、魂そのものが持つ圧力だ。躯染めはそこにいるだけで、他の魂や精神に対して重圧をかける。これはけして小さなものではなく、それなりの魂啼術士でも、長く近くにいるのは危険だ。人間の魂啼術平均値がさほど高くない事を考えると、存在それ自体が人類、ひいては生命体の仇とも言える。攻撃全てが魂という情報に致命撃を与える。

 躯染めの長所は、それだけではない。魂が主導権を持って肉体を変じているため、その形状には概ね一貫性がない。そして、この世のどんな物質でもなく、また物理法則に作用されない。人類の頂点と言える部分がかろうじて踏み入れられるそこに、彼らは生まれながらに君臨するのだ。

 総じて、そもそも戦うこと自体が馬鹿馬鹿しい相手だ。


「やっとれへん」

「だな」


 情報を上げていくうちに、どんどん馬鹿馬鹿しくなって、うめくブフーに。ポポルは律儀に返事をした。


「ど、どうするんすか?」


 と聞いてきたのは、団員の一人だった。腰は引けているが、手は剣の柄を撫でている。敵対とも逃奔ともつかない、半端な構え。

 本来、このような状態になるほど柔な経験を積んではいないのだが。初の、躯染めと対峙という事態に加え、周囲の狂騒に当てられている。軽くパニックを起こしているのは、見ただけで分かった。

 ブフーは彼を頭を叩いて、きっぱりと言った。


「どうもこうもあるかいボケェ。荷物は放棄や。集まり」


 頭が巡っていなくとも、曲がりなりにも歴戦の戦士の集まりだ。命令があれば、動きは速かった。全員が半端に持っていた荷物をその場に落とし、武器だけを抱える。

 傭兵団の動きは迅速だったが、躯染めの動きはそれ以上だった。誰彼かまわず殺し周り、そして山を下りてくる。一人も生かすつもりがないのか、それとも皆殺しはたまたまなのか、そこまでは分からないが。少なくとも、こんなところでぼんやりしていれば、あと何十秒後かには抗戦せざるをえなくなる。


「おし、それじゃ――」

「いいかね、君たち」


 次の命令を下そうとしたところで、先ほどの、指揮官らしき男が声をかけてくる。

 ブフーは嫌そうにそちらを見た。


「今は緊急事態だから身分を明かす。私はシナウッセルから来た第一次ウラル山脈調査派兵団司令だ。躯染めがいる可能性は考慮していたが、まさ動けるまでとは思わなかった」


 一瞬、何を言っているか分からなかったが。

 この男は、新しい躯染めがでてきたのではなく、インヘルトが撃ち漏らしたと思ったらしい。まあどうでもいい事なので、あえて訂正はしなかったが。


「こうなればもう逃げ切れん。どうか協力して、躯染めの討伐、ないしは足止めに加わってほしい。我々もできるだけの事はする」

「ほか」


 ブフーは短く答えた。そして、部下たちの方へと顔を戻す。


「お前ら、逃げるで! 遅れて食いつかれても知らんからな!」

「なっ!?」


 その命令に驚いたのは、司令官だった。


「逃げ切れると思っているのか?」

な」


 ポポルが、あざ笑うように言った。


「躯染めがこっち来そうならなすりつけたれや!」

「肉の壁はいくらでもいるからな!」


 二人の、あまりにもあまりな言葉に、司令官は言葉を失ったようだった。


「卑劣な!」


 司令官が歯ぎしりとともに言う。

 彼の言葉に、ブフーは思わず笑った。笑うしかなかった。


「六年前、こんなんよりよっぽど卑劣な真似したお前らがどの口で言うとんのや」

「テメェを顧みろ、バァーカ」


 二人同時に、べっと舌を出して。

 それ以上、下らぬ言葉が返ってくる前に、全員が走り出した。

 下らぬ事で時間をとってしまったため、躯染めはすぐ背後まで迫っている。それでも、肉の壁があるので、逃げる猶予くらいはあるだろう。いい仕事をしているとは言える。彼らにはもっとよく、生きがいい壁をしてほしいものだ。

 ほとんど崖のような斜面を駆け下りる。

 ブフーはちらりと背後を見た。躯染めは、周囲の人間を皆殺しにしようとしているわけではなさそうだ。ただし、進行方向にいる人間は始末する。恐らくそんなところだろう。


「しかし、よかったんスか?」


 団員の一人が、ブフーの斜め後ろまでやってきて、聞く。


「どれのことや?」


 心当たりはいくつかあった。まさか、シナウッセル兵に憐憫の情がわいたという訳でもあるまいが。


(まあ、哀れんだとして、気持ちは分からんでもないけどな)


 思い出すのは――忌まわしき奴隷時代。延々仲間と殺し合いをさせられていた頃。そして戦争時代。

 相手より弱ければ死ぬ。察しが悪くても死ぬ。どちらあったとしても、運が悪ければ死ぬ。

 仕方がない。そう思う。そう、仕方がないのだ。今日ここで死ぬ者たちは、ただたんに巡り合わせが悪く、逃げるだけの実力もなかった。だから死ぬ。


「いや、戦わなくていいのかって事ッス。俺ら傭兵団なんだし」

「お前アホだなあ」


 答えたのはポポルだった。


「俺らはもう傭兵なんだぜ? 金で戦うんだよ。躯染めなんてバケモン、それそこ依頼で戦うならいくらになるやら」

「仕事にすればしこたま金もらえるんやで? それをお前、無料でわざわざ倒してやるとか、アホのする事や」


 つまり、稀代の大馬鹿、インヘルトのような。


「そういや……そっスね」


 同じ人間を思い浮かべたわけでもないだろうが。いや、思い浮かべても全くおかしくはないが。


「そ。世の中金とまでは言わんけどな。あればあるだけええもんや」


 ブフーが、わざとらしくにっと笑って告げれば、それ以上は何も言ってこなかった。

 逃げる速度は躯染めの進行より早い。これは足の速さの違いと言うより、躯染めがわざわざ射線上にいる敵を殺して回っているからだが。だがそれも、あまり優位と言えるほどの差ではなかった。


「山降りたらうちの領地内だ。そしたら転移するいから、合図で集まれよ」


 いよいよ明確にカイゼリン内かというところで、ポポルが宣言する。

 言葉に、ブフーは幾度目かの背後確認をした。躯染めとの距離は、それなりに開いている。

 敵の気まぐれと言ってしまえば、それまでかもしれない。が、気になる点はあった。


(なんやあいつ、まるで真っ直ぐカイゼリンうちに向かってきてるようにも見えるわ)


 それはたまたまであるかもしれない。むしろ、たまたまである可能性の方が高いだろう。

 しかし、違和感はあった。

 滅多に見ることができない、躯染めという存在。それが二体。同じ場所に現れた。奇しくもとは言いがたい。それに、躯染めは最初、何かを言っていた。風が吹いていた上に、距離もそれなりにあったため、何を言っていたかまでは分からなかった。だがそれは、ブフーにはなぜだか、聞かせるための言葉のように感じた。

 もちろん、全くの偶然という可能性はある。


(でもなぁ……)


 足は動かしたまま、首を捻る。


(俺の嫌な予感、あまり的中率が高いとは言えんけど、昔っから一等嫌なモンだけはよう当たるんよなあ)


 今がその、一等嫌な予感である事は、全く否定できなかった。

 ため息を吐く。と、それを聞いていたポポルがつぶやいた。


「嘆くな嘆くな。任務失敗と言っても、前金だけは入ってるんだ。それで良しとしようや」

「ああ……まあ、せやな」


 そういえば、インヘルトの遺体消去という仕事も未完に終わっていた。今更思い出す。

 麓まで降りて、ポポルが魂啼術を発動する。20人もの人間の転移は大仕事のはずだが、それでもさして時間をかけずに、術は発動した。

 ブフーが最後に見た躯染めは、やはりカイゼリンに向かって、真っ直ぐ進んでいた。




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