第6話

 カイゼリン領国、アンティグア。領土の中では、丁度中央あたりに位置する最新の街だ。つまり、首都でもあるわけだが。

 新しく作られた街だけあって、政庁である元砦のパラシオ殿以外は、全て新しい。さすがに建築様式まで最新の、とはいかないが。まあ大体は、流行を取り入れたものと言える。そういった意味では、この世のどの都市よりも、都会らしいと言えた。

 その商業区の喫茶店にあるオープンテラス。そこで、インヘルトはコーヒーなど飲んでいた。

 彼女はぼんやりとティーカップを持って、周囲を見回す。

 特に何も考えず入った店なので、名前は分からない。まあ、誰にも特定されないようにしようと考えれば、自然とそうなるものなのだろうが。

 この手の店には珍しく、屋上がテラスになっていた。駐車場はない。これは、近くに大型の共有駐車場があるためだろう。そのせいもあるだろうが、景観はあまりよくなかった。

 周囲を背の高い建物が囲んでいるものだから、空がことさら遠く感じる。さらに、空を飛んでいる車も多い。天を仰いだところで、しょっちゅう車に遮られるようでは、せっかくのブレイクタイムも片手落ちというものだろう。

 外観の悪さの割には、来客はそれなりにあった。立地だけは悪くないらしい。

 コーヒーを一口飲んで、ソーサーに戻す。その様子を確認してだろう、正面に座っていたセナウが口を開いた。


「にいさ……いや、ねえさ……いや……。うーん」


 どうも収まりが悪げに、セナウ。呼び名の方法で悩んでいる様子だが。口の中でもごもごと兄さんだか姉さんだか繰り返し、そのたびに破棄している。

 領国の王がいるのだが、周囲から反応はない。店内はほぼ女性客で、男がいるならば、それだけで目立っても良さそうなものだが。

 元々目立つ容姿はしていないというのもあるだろう。加えて今のセナウは、物々しい王としての格好はしていない。白いシャツに黒いスラックスという、極めてカジュアルで、流行とは無縁な格好だ。髪型もやや変えている。特徴と言えば眼鏡と、上位者として振る舞ううちに自然とそうなったという目つきの悪さくらいか。

 ひいき目を抜けば、ひょろっと背が高い事くらいしか特色が無いのだ。インヘルトと同じく。

 呼び名など考えるような事でもなかろう、と思いながら、インヘルトは言った。


「普通に名前でいいんじゃないか?」

「その顔、インヘルトって名前じゃないだろ。思いっきり男性名だし」

「元の顔もインヘルトらしい、勇ましい顔かって問われれば、はっきりと違うとは思うが」


 ぼんやりと思った。

 昔から揶揄はされていた。名前の割にはなんか目つきが卑しいよな、と。生まれ持ったものだから、どうしようもない事だ。


「別に今まで通り、兄さんでいいんじゃないか?」

「人の目がないならともかく、さすがに人前でだと、ねえ。気にしてないとうっかり事情を知らない人の前でも言っちゃいそうだし」


 言って、今度はセナウが周囲を見回した。

 見るまでもなく、こちらに意識を裂いている気配がある客はいない。店員は、変な組み合わせの客だと思っているのか、多少気にしてはいる様子だが。それも、取り立てて注視すべき事ではない。ビルに囲まれたオープンテラスとう立地のため、他から視線が通ってくることはない。まさかビルの窓から、喫茶店の客をのぞき見しているなどという事もあるまいし。

 総じて、いちいち格式張らず、密談をするには都合がいい場所だと言えた。


「まあ、じゃあインヘルトさん」

「『さん』いるか?」

「ないと違和感が大きいよ……」


 半ばぼやくように、セナウが言った。


「まあとりあえず、報告から聞きたいんだけど」


 こんな場所で会っているのは、つい先ほど、シナウッセルからの斥候を追っ払った件についてだ。

 なぜカフェでなど話しているかというと、何度も執務室に呼ぶのは不都合だからだ。見ず知らずの極光族が、おいそれとアポを取れない領王と、何度も面会している。まあ誰だって違和感を持つだろう。いっそ下世話な話だとでも思ってくれれば楽なのだが。まあ、情報を仕入れたスパイまでもがそう思ってくれることはあるまい。

 セナウは、職員の機密意識について、さほど信用をおいていない。

 人が多ければ、意識もまばらになる。こういったことは平均値で見てはいけない。一番下を意識しなければいけなかった。数が多ければ、絶対に口を滑らせる者がいる。そうでなくとも、スパイなどいくらでも入り込んでいるだろう。防諜に力を入れられるほど、シナウッセルに地力はないし、そもそも人材もいない。


「まあ、ほぼ完璧と言っていいんじゃないか? 相手は多分、俺が健在だろうって事くらいしか判断しようがないよ」


 執務室でないというのは利点があり、それがそのまま欠点にもなる。つまり、密談には向かない。

 内容をぼかして言うのは、それなりに面倒な事ではあった。


「といっても、こっちだってあっちがどう思ってるか確認しようがないしな。総じて見れば、ほどほどってところか?」

「そんなものだろうね」


 当たり前だろうなと、セナウが言う。つぶやきには感嘆も落胆もない。つまり、予想通りなのだろう。

 彼が飲んでいるのはアイスティーだった。潰れたストローの紙袋に、水滴など垂らして、伸ばしている。その何気ない仕草は癖なのか、それとも周囲に話を悟られぬようわざとやっているのか、微妙なところだ。


「ちなみに誰が来たとか分かる?」

「三下」


 カップの縁など撫でながら、インヘルトはきっぱりと言った。


「三下て」

「仕方ないだろ? それ以外に言いようがないんだから」

「シナウッセルの正規軍人を指して三下呼ばわりもどうだかって思うんだけどなあ……」


 どこか悩ましげなセナウに、インヘルトは肩をすくめた。


「まあ、本当に雑魚だよ。なんでこいつを使ったんだかなってレベルの。装備だけはそこそこのもんだったみたいだが」

「傭兵団幹部を抜いてにいさ……インヘルトさんを呼び込もうとしたら、そうなるだろうね」


 最低限の話だけど、とセナウが続ける。


「他に気になった部分とかある?」

「いや……」


 問われ、少し考え込んだ。

 いきなり聞かれたところで、答えるのに難しい。だいたい、そういった話はインヘルトの担当ではない。彼女の役割は、とりあえず突っ込んでぶっ飛ばせである。自分でも脳筋極まりないと思うが、それが一番有効なのだから仕方がない。


「そうだなあ。相手が十二人って少数だった事くらいか?」

「十二人? たったの?」


 多少驚きながら、セナウが返す。

 彼は髭の跡も見えない顎を撫でながら考え込む。インヘルトには無精髭が生えていたし、その跡というのも、かなりしつこく残っていたのだが。兄弟でこの差は何なのだろうな、と思わなくもない。


「よっぽどの攻撃装備とか持ってた?」

「ライフル程度だったと思うぞ。なんにしろ、さほど強力なもんはなかった。と思う。とっとと壊したから分からんが」

「やる気が感じられないなあ」


 その意見には、彼女も同意するところだが。


「先遣隊はただのポーズ? というか、来るかどうかも分からないインヘルトさんを相手するよりか、ウラル山脈崩落の方を優先したとか?」

「それこそ相手側に聞いてみなきゃ分からんな」


 言いながら、手持ち無沙汰になった手が、取っ手を軽く指で弾いた。半ば残って冷めたコーヒーが、波紋を生み出して揺れる。


「そこんとこどう思う?」


 問いかける。

 その先にいたのは、先ほどからずっと無言だったリルエだ。

 テーブルの上で、彼女は前のめりの姿勢で肘を突いて固定されている。半眼になって、ずっと二人を睨んでいた。行儀悪く口に咥えているのは、格子模様のパンケーキ――ワッフルと言うらしい――だ。

 最初こそ好奇に目を輝かせていたが、やがてなぜだか機嫌を損ねた。

 正直なところ、あまり触れたい状態でもなかったが。無視し続けるとそれはそれで後が怖いため、仕方なく問いかける。


「ない」


 問われた彼女は、ぼそりとそれだけをつぶやいた。

 しばし、沈黙。

 言葉は待ったが、彼女から言うつもりはないらしい。仕方なしに、インヘルトは聞き返した。


「……何が?」

「ロマンスが、ない」


 ぽかんとしたのはセナウだが。インヘルトは眉をひそめた。


「何の話だよ」

「あんたたち二人の間に、ロマンスがない」

「意味が分からない」


 きっぱりと言って、ついでにかぶりも振る。

 彼女は半眼のまま、体を持ち上げた。

 小洒落たカフェに入るのに、薄汚れた格好もないと思ったのか、着替えはしていた。流行がどうのとか、インヘルトには分からないが。少なくとも彼女は、この場にいて浮かない程度には着飾っている。場にそぐわないというならば、それこそインヘルトのドレスの方がよほどだ。


「そこんとこどうなのよ。えー?」

「いや、ええと……」


 なぜだかセナウに絡みつく。下から絡みつくように、体と視線を持ち上げながら、リルエ。


「あんたのさあ。兄がさあ。可憐な美少女になったのよ? ええ?」

「ええと、そう……だね?」


 全く訳が分からないという風だったが、とりあえず彼は頷いた。それ以外に反応のしようもないとう風に。


「じゃあさ、何かあるでしょ」

「まあ……初めて見たときは驚いたけど」

「じゃなくて!」


 急に怒りだし、彼女はテーブルを叩いた。

 その音と剣幕に、周囲の視線が集まる――店員が、どこか迷惑そうに注目していた。もう少し騒いだら追い出されるかも知れないな、と思わせる。

 作用に気がついたのか、彼女は威勢を潜めたが。しかしそれは収まったという意味ではなく、身の内に包み込んだという程度の話でしかない。


「ロマンス!」


 また繰り返して叫ぶ。器用な事に、声を潜めながら。


「兄弟が突然女になったのよ? 昔から兄を想ってたけど、同性で兄弟だから身を引いてた。でも今は別人の体で女だから、募った思いが……とかあるでしょ?」

「ど、どうした? 大丈夫か?」


 セナウがかなり本気で心配して、声をかける。

 彼女は全く気にした様子はなく。その勢いは、今度はインヘルトに向かったらしい。ぐりんと首を動かし、鋭い視線が今度はインヘルトに突き刺さる。


「あんたも! ちょっとはセナウを誘惑したりとか……いえ、もうしたのね? 密室に二人だけだったんだから、それくらいしたのよね?」

「頭ぁ腐ってんのかお前」


 インヘルトが、くしゃりと顔を歪めた。かなり本気で相手したくなかったが、何やら面倒くさいことになっている彼女を無視もできそうにない。


「俺は普通に女が好きだよ。いやまあそれほど性欲豊かだったわけじゃないが。てかそれはお前も知ってるだろ。ヤった事あるんだから」

「バイでもいいじゃない! ホモでもいいじゃない!」

「俺が嫌だっつってんだよ!」


 つられるようにして、インヘルトの声のトーンまで上がる。

 はっとして、周囲を見回す。周りの客は、ほとんどがこちらに注目していた。


「あはは……」


 雑に愛想笑いを振りまいて、頭を下げておく。それで幾ばくかの客はそれぞれの話に戻ったが。まだこちらを気にしている者はいた。


「ま、まあまあそのくらいで」


 セナウが、周囲から刺さる視線を気にしながら、両者を落ち着けようとする。それは、また彼に矛先が向かう以上の意味にはならなかったが。


「じゃあ、インヘルトに手を出す?」

「じゃあってなにが!?」


 反論しようとして、ふと彼は言葉を止めた。

 いくらか沈黙を――つまり周囲の意識がおしゃべりに戻る程度の――挟んで、口を開く。


「ちなみに、本当に手を出したらどうなの?」

「そんなのぶっ飛ばすに決まってるじゃない。姫様の体なのよ」

「さすがに理不尽すぎやしないか」


 思い切り呆れ、ため息などもつきながら、セナウがつぶやく。言い聞かせるというよりは、どちらかと言えば独り言のようだった。

 その心地はインヘルトも同じで、ぼやくように言った。


「お前、少しは自重しろよ。真面目な話してんだから」

「何言ってんのよ」


 と、彼女は当たり前のように返してくる。


「こんなところで重要な話するわけないじゃない」

「まあ……うん、まあ……」


 言葉には、特に反論するべきところもなく。思わず納得して、インヘルトはうめきを漏らした。


「だいたい、セナウの何が不満なのよ」

「不満も何も兄弟だろうが。お前が言ったとおり、思いっきり」

「だからいいんじゃない。インモラルは蜜の味よ」

「お前の感想は知らんけども」


 大概めちゃくちゃを言うリルエに、もうどう答えていいかも分からない。

 が、彼女は何やら納得顔で、うんうんと頷く。


「分かったわ。筋肉がいいのね。シバリアとかあたしの好みじゃないけど、まあ悪くないわ」


 そこで、いくらか気を取り直して、彼女は前のめり気味だった体を持ち上げた。


「なお悪くなってるじゃねーか」


 思わず言わずにはいられなかった。まあ、そもそもこんな話題がどう転がろうと、悪い方向に行かない訳もなかろうが。


「なんで誰彼かまわずホモにしようとする……」

「あたしの好み」

「お前を抱いた事があるとも言ったはずだが」

「あんたはもう抱かれる側なのよ。自覚なさい」

「じゃあ抱かれたら?」

「ぶっ殺す」

「おお……もう……」


 もはや何を問いかけていいかも分からず、インヘルトはうめいた。本当にきっぱりと、もうそれくらいしかできることがなかった。


「あー、そういうことは、せめて一人の時でだけにしてくれないかね?」

「分かったわ。あんたらを頭の中でねっちょんねっちょんのぐっちょんぐっちょんにする」

「…………」


 セナウの顔が、はっきりと曇った。表情全体が苦渋に満ちて、それ以外の何も入れられないほどに苦みが差す。王座に君臨して――というか、戦争時代から支援に徹するようになって以降、努めて表情を殺す訓練を行っており、今なお誰にもそれを暴かれていない男がだ。

 セナウは、倒れかけていた体をなんとか保持し、持ち上げる。インヘルトはそんな気にならず、肘をついてうなだれたが。


「そういえば」


 彼がぽつりと言う。


「この立場になっていろんな人を相手した自覚はあるが、そういえばこの手の手合いはいなかったなあ……」


 しみじみとつぶやきながら。


「とりあえず、ウラル山脈の方は僕も気をつけておくよ。多分、傭兵団そっちに仕事がいくと思うから、準備はしておいて」

「おう」


 言いながら、インヘルトはセナウの目を見た。

 兄弟の感覚というか、視線だけでも分かることはある。まあ、この場合誰でも同じだっただろうが。つまりは、疲れた。

 その様子を見て、リルエがずいっと体を寄せてくる。


「ロマンス?」


 気づけば、インヘルトは彼女の頭をひっぱたいていた。




 セナウとは喫茶店で分かれ、インヘルトはリルエと二人、街中を歩いていた。と言っても、彼女に目的があったわけではない。半ばリルエに連れられる形だ。


「どこに行くんだ?」


 街中は、中央を離れてもそれなりに喧噪がある。その音に負けないよう、いくらか声を強めて問いかけた。


「あたしが借りてる宿よ。街のすみっこにある」


 立てた指を振って見せながら、答えた。

 実のところ、街に拠点を持つ者は少ない。

 理由はいくらかあるが、一番多いのが、それを無駄だと思っている者が多いという事だろう。傭兵団員は、その気になれば領土の端から端まで一日で駆け抜けられる者の集まりだ。その上、当たり前に、拠点など持てば維持費がかかる。荒野に掘っ立て小屋を放置しているのではないのだから。さらに言えば、隔意もあるだろう。息を吸うように人を殺せる存在が、それを許さない土地で安穏と過ごすには適さない。

 なので、この手の方法をとっているのは、主に戦争が始まってから合流した者だった。


「なんでお前の宿?」

「最初は医者でも探して、と思ったんだけどね」


 言う彼女の背中は、少しばかり肩が落ちた気がした。

 インヘルトはそれで、体の調査だと気がついた。いや、もっと端的に、姫様とやらが、どうなっているかの調査かも知れない。

 なんであれ、そのまま放っておける話でもなかった。今この体が、いったいどういうバランスで成り立っているのかも分からないのだ。それこそ一眠りしたら死んでいたとしても、驚くほどの事ではない。


「本来ならまあ、そっちが専門でしょ? でも、ここじゃねえ……」

「まあ、まともな医者なんて見つけるのも難しいが」


 これは医者に限った話でもないのだが。戦争があって、インテリ層や資産家はほとんど、カイゼリン領内から脱出していた。

 元々戦争が、貧民層の上級市民に対する反逆である。そのため、上級市民はたとえ戦争に加担していなくとも標的になった時期があった。これには情報のリークを恐れたという側面もあるが。ただ単純に報復の矛先を求めてという意図がなかったと言うのは、少々卑劣だろう。

 当時の情勢や感情がどうであれ、真実は変わらない。着の身着のままで逃げた者は見逃され、資産を持って逃げようとした者は、追われ殺され、財産を没収されている。その一部が、アンティグア設立のために使われていた。


「当時の狂乱が、まさかこんな形でしっぺ返しを食らうとはねえ」

「世の中、どこでどう巡り帰ってくるか分からんもんだな」


 二人してしみじみと、当時など思い出しながらつぶやいた。

 どうしたところで、まともな医者はいない。

 実体ある情報としては残っていても、実体のない相続されるべき技術は壊滅していた。そもそも教育ができる、高度技能拾得者が残っていないのだ。

 ノウハウが壊滅したので、今の教育は完全に手探りとなっている。時には過去の情報を参照して、時には他国の技法を真似て。が、それらの芽が出るのは、まだまだ先の話だ。たった六年で全てを取り戻せるはずもない。

 つまり、今医者を名乗っているのはモグリしかいないのだ。前提として、そもそも医療免許自体がまともに制定されていなくもある。

 それでも目立った問題が無いのは、偏に魂啼術があるからだろう。これのおかげで、大抵の怪我や病気は自分で治せる。


「医者を名乗る人間に心当たりがないわけじゃないけど……」


 リルエが、困ったように眉をひそめた――顔は見えていないので、そういう気配があったというだけだが。


「能力が信頼できないのもそうだけど、まあゲスなのよねえ」

「傭兵団みたいなのが世話になる相手って言ったら、まあそうなるだろうなあ」


 思い出す医者といえば、やはり奴隷戦士時代の事だが。

 奴隷戦士は、特に魂啼術の教育をされている訳ではない。邪魔までされないので、大体は年長の者から教えられ、最低限は使えるようになるのだが。

 幼少期は自分の怪我も直せる能力はなく、コロシアム専属の医者に頼ることになる。これがまた、酷いクズでサディストだった。そのせいもあって、医者イコールクズだと思い込んでいた時期があったほどである。


「元のあんたを見てもらう分には、それでもいいんだけど」

「そこをよしとはしてほしくないんだが……」

「いいんだけど」


 インヘルトの反論に、しかし彼女は強弁して上書きしながら。


「体が姫様のってなると、そうも行かないのよね。相手が変態だったら、何されるかわかったもんじゃないし」

「さすがにそこまで間抜けじゃないって、俺を信じてほしいもんだがな」

「今の状況を見てもらうには、それなりに技術がある相手じゃないといけないじゃない」


 呆れたように、彼女は言った。


「専門的で何の術だか分からないもんを、無防備に受けなきゃいけないのよ? あんた、その仕込みが害ある物かどうか判断できる?」

「あー、そりゃ無理だ」


 インヘルトは参ったと言うように、両手を挙げた。


「ここで無理なら、正規の医者――つまり、他の国にまで出向かなきゃいけないんだけど」

「それはセナウが許さないだろうな」

「あたしもわざわざセナウの苦労を増やす真似はしないわ」


 他国の医者にかかると言うことは、情報を全て明け渡すという事だ。目幅の利く者が一人でもいれば、それだけでおしまいになる。情報を売るなり、それこそ何かを仕込むなり、相手の思うがままだ。

 敵だけははっきりしているのに、味方も分からない状況でしていい事ではない。


「じゃあなんでお前のホームに行くんだ?」

「誰にも任せられないならあたしがやるしかないじゃない」


 何を当たり前の事を、というように、リルエ。

 それに対し、インヘルトもやはり当たり前の事を問いかけた。


「できるのか?」

「やるしかない、としか言えないわね。できなかったら、まあ、そのとき考えるしかないでしょ」


 そもそも、と彼女は続けた。


「こんなの、医者の領分かも分からないしね。怪我や病気ってのとは違うんだし。案外、思想家にでも話を通した方が手っ取り早いかもしれないわ」


 言って、彼女は少しだけ歩調を緩めながら苦笑した。

 アンティグアは、歩いた距離がさほどでなくとも、街の端にまでたどり着きそうだった。

 大通りから、路地裏へと入っていく。通りに面した大きなアパートなりを、恒常的に借りるつもりはなかったのだろう。単純に値段が違う。

 狭い路地を進んでいくと、前方から気配が現れた。

 人通りが少なくなれば、感覚も元の鋭敏さを取り戻すが。気配が多ければ、それだけより分けるのが難しくなる。だから、前方に三つの気配があるのは分かっていた。

 どうやら待ち構えていたようであり、飛び出てきた気配が、二人の道を塞いだ。

 現れたのは、三人の男だった。


「へっへっへっ」


 くちゃくちゃと、口に何かを噛みながら、出てきた男の一人がつぶやく。

 男たち――というか少年たちは、いかにもチンピラじみた格好だった。傭兵団員のそれを大分薄めれば、こんな感じになるのか、とインヘルトは思った。体に対しかなり大きな服を着ており、どこか薄汚れている。

 道を塞がれた瞬間は、どこかの工作員か何かだと思ったのだが。姿勢も安定していない様子を見るに、どうやらそうでもないらしい。本当に、ただの街のチンピラだ。


(首都でもこんな、あー、不良? がいるもんなんだなあ)


 それは、極まった不良の集まりの頭領が言える事でもなかったかもしれないが。

 なんにしろ、急速に拡張した街だ。誰もが勝者と思えるような都市の中にあっても、やはり勝者と敗者はいる。彼らはわかりやすく敗者であり、わかりやすくグレた。ただそれだけの話なのだろう。


「あんたたち、何の用?」


 と、リルエが強気に言う。まあ、弱気になる理由はかけらもないが。


「お前たち、いい服着てんじゃん」

「さぞや金持ちなんだろうなぁ。俺たちにも分け前くれよぉ」

「ついでにこっちの相手もしてもらおうか」


 言いながら、一人の男が自分の股間を指した。示し合わせたように、三人同時にげらげらと笑い出す。

 リルエも、そして今のインヘルトも、身長はだいたい150センチ前後であり、顔立ちも美形ではあるが、まあ身長相応なものだ。彼女は一瞬、彼らが少女趣味なのかと思ったが。そもそも彼らの身長が頭半分から一つ高いという程度だ。外見年齢で言えば、同程度だろう。


(まあそもそも少女趣味とか、リルエを抱いた俺が言える事でも無いよなあ)


 ぽつりと思う。彼女が彼であった頃の場合、えり好みしなかったというだけの話だが。

 リルエは相手の言葉に、微動だにしなかった。ただし、不機嫌にはなったのだろう。苛立った気配に、インヘルトは一歩引いた。

 彼女の動きを、怯えと取ったのだろう。少年たちはさらに威勢をよくした。


(気づいてないのか?)


 放っておけば舌打ちでもしそうなリルエの様子。彼らが気づいてないとも思えないのだが。あるいは、その程度なんともないと思っているのか。

 なんにしろ、今彼らが踏んでいるのは虎の尾である。


「びびっちゃって、か~わい~」

「安心しろよ、ちゃんと二人ともかわいがってやるからよぉ。ぶっ壊れるまでな!」

「いいクスリがあんだよ。そいつにかかりゃ、何も考えられなくなるぜ」


 にたにたと、あくまでイニシアチブを取っているつもりの言葉。

 これからやることもあるのに、怒らせたままとうのは怖い。そうインヘルトは思って、とっとと終わらせようとした。特に気負いもせず一歩を踏み出して。

 その行動に、ぎょっとしたのはリルエだった。驚きに顔を引きつらせ、振り返っている。

 彼女は体を横に動かした。つまり、インヘルトと少年たちの線上に。

 割り込まれ、インヘルトは思わず足をつんのめらせた。急に現れた体にぶつからないよう、たたらを踏んで、歩数を調整する。

 インヘルトの動きを確認する前に、リルエはまたも動き出した。少年たちの方へと踏み込んで、一番近かった一人の顔面に、拳をめり込ませる。

 少年は、もんどり打って倒れた。近場の壁にぶつかり、さらに地面へと倒れ込む。鼻が折れたのか、鼻血も盛大に吹き出していた。


「てめぇ――」

「もう容赦しねえぞクソアマ!」


 一瞬、何が起きたのか理解できない様子の少年たちだったが。荒事自体には慣れているのか、すぐに再起動して、怒気をあらわにした。

 一人は拳を振り上げて、もう一人は掴みかかってくるように両手を広げた。

 片方はリルエに任せて、もう片方を処理しようとインヘルトは踏み出したが。これもやはり、邪魔するように割り込まれる。

 リルエの二つの拳が、それぞれの少年に突き刺さった。彼らはやはり一人目と同じように吹き飛ばされる。地面に、鼻血の華が三つ咲いた。


「ぐっぞ……」


 一人目が、鼻を押さえ、涙目になりながら膝をつく。

 立ち上がるより早く、リルエの足が、少年の肩を蹴飛ばしていた。威力は拳のそれより強めたらしく、少年は地面を二、三転した後、やっと止まった。

 それ以上、彼女が何をすることはなかた。ただただ、冷たいとも思える眼差しで、彼らを見下ろしていただけだ。

 少年たちは地面に尻をついたまま後ずさり、やがて集まって、互いに肩を貸し合う。ダメージがのこっているのか、動きはふらふらとぎこちなかった。全員が涙目になっており、中には明確に涙を流している者もいる。

 全員が立ち上がり。これ以上絡むつもりはないのか、後ずさりした。


「でめえら、おぼえでろよ!」

「づら、おぼえだがから!」

「ぜっだいにゆるざねえ! がならずわがらぜでやる!」


 鼻声で、ひたすら聞きづらい言葉ではあったが。それが捨て台詞だという事だけは分かった。

 言って、元いた路地の向こうに消えていく少年たちを確認して。インヘルトはきょとんとしながらつぶやいた。


「え? これで終わんの?」

「あんた、何しようとした?」


 半眼になって、リルエが言うが。それが自分に向けられたものだと気がつくのに、インヘルトは少しばかり時間が必要だった。


「何って、あいつらを叩きのめしてやろうかと」

「その内約が何か、よ」


 やはりジト目のまま、問い詰めるように、リルエ。


「何かって、こう、こきょっと。首のあたりを」


 ぎゅっと、インヘルトは手で何かを捻るようなジェスチャーをしてみせた。肩に手を置いて、顔を掴み、それを後ろに回すように。


「死ぬじゃない、馬鹿!」


 インヘルトのやりように、なぜだか彼女は憤慨したが。


「だってなあ……」


 なぜだか怒られて、彼女はぼやいた。


「何はともあれ敵だろ? じゃあまあ、それくらいせんと」

「そこまでしなくてもちょっと撫でてやれば逃げるわよ、あんな連中!」

「みたいだなあ。びっくりだ」


 根性無いなあ、とでも言うように。

 リルエは腰に片手を当てて、もう片手は目元をもみほぐすようにしながら。


「殺したら、あー、えーと、死んじゃう訳よ。当たり前だけど。傭兵団の連中を基準にしないで、お願いだから」

「まあ、それは今思い知ったが」


 傭兵団の連中なら、鼻を折られたくらいで引かない。というか基本的に、死ぬまで引かない。場合によっては、一度死んだくらいでは引かない。

 魂啼術を習得していると、ある壁を乗り越える。つまりは死だ。肉体が機能を停止しても、ある程度魂の状態を保持できるのである。これは、肉体を放置し、魂だけで行動するほど高度な術ではない。そのため、奴隷戦士は基本的にこのレベルまでは魂啼術を習得していた。インヘルトも、苦労してそこまで技術を高めている。

 だからというか、ただ程度で引くというのは、彼女にとっては未知の行動だった。


「そんなに殺しちゃ駄目か……」

「あのね、街のチンピラ程度じゃろくに魂啼術を高めてないんだから。殺したら本気でそれまでなの」

「不良なら死んだってよかないか?」


 それは純粋な疑問だったが。リルエは聞いて、愕然と顎を落とした。


「あんた倫理観死んでんの?」

「まあ、その、生きてるとは言いがたい」

「街の中じゃ孤児だろうが殺人なんて大事件よ。うちらなんてただでさえ実態があれなのに、その上悪評まで広まったら大変じゃない」


 あきれかえって言われる。さすがに反論のしようもなかった。


「それはそれとして、逃げた奴ら放っといていいのか? なんか報復するみたいなこと言ってたが」

「きやしないわよ、あんな連中。一度力関係が分かっちゃえば、自分のメンツを保持する方便さえあれば、無理して手出しするほど向こう見ずじゃないんだから」


 断言されたところで、いまいちピンとこなかったが。この手のことに関しては彼女の方が詳しいだろうと無理矢理納得し、それ以上は口に出さなかった。

 そこから、彼女のセーフハウスまではすぐだった。

 もとより都市の外縁部近くだ。あまり距離を置けば都市から出てしまうし、それ以上に便利性を欠く。

 新しいはずだが、どこか年期を感じさせる建物に入る。彼女が取ったらしい部屋は、ビルの三階にあった。

 部屋は狭く、簡素なものだった。扉を開けてすぐに廊下があり、簡単なキッチンが備え付けられている。扉は二つで、廊下の脇にある方は、トイレと風呂らしかった。廊下の奥は部屋になっている。中には小さなテーブルセットが一つと、ベッドだけが置いてあり、中にはクローゼットもない。荷物らしい荷物は見当たらなかった。まあ、生活の拠点はルインにあると思えば、そんなものだろう。


「とりあえず、服脱いで」


 言われたので、上着を脱いで、ベッドにおいた。


「じゃなくて、術に干渉するから、そのドレスも。やたらめったら強大な防御術が敷かれてるんだから。……って、そういえば脱ぎ方分からないんだっけ?」

「ああ。やっぱり無理矢理広げて脱ぐしかないのか?」

「んな馬鹿な服あるわけないでしょ」


 すげなく言われる。

 彼女はドレスを確認しようとして、ふとその手を止めた。伸ばしかけた手をじっと見ている。どうやら、先ほどチンピラを殴った時についた汚れが気になるらしい。

 いったんやめて、リルエは部屋を出た。すぐ後に水音が聞こえてくるあたり、手を洗っているらしい。

 戻ってきて、改めてドレスを確認する。レオタード質を引っ張ってみたり、スカートを持ち上げてみたり。背後に回って似たような事をし、ついでに魂啼術で捜索などもしていた。


「ふむ……」


 顎を指で撫でながら、どこか訳知り顔に吐息を漏らす。


「ねえ、両肘を上げて「脱ぐぞー」とか「脱げろー」とか思ってみて」

「こうか?」


 言われたとおり、肘を肩の高さほどまで上げて、念じてみる。

 すると、ドレスはすとんと落ちた。本当に前触れもなく、まるで生地が透明になったかのように、するりと。

 地面に落ちた服は、さっとよけられるように動いた。服が一時的に物理的干渉を無効にし、その後再度有効になったことで、干渉しあわない程度まで避けたせいだろう。


「おお、やっと脱げた」


 全裸になって、開放感から、思わず言葉が漏れる。

 普段来ている服と違って、体に張り付くような形質のものだ。その上、着たいと思って着ていた服でもない。特別嫌っていたわけでもなかったが、やはり自由に脱げると知れたのは大きい。

 自分の体を、改めて見下ろしてみる。

 少年とも少女ともつかない体つきだと思っていたが、いざ脱いでみれば、あらためて女の体だと思い知る。骨格もそうだが、全体的に肉の付き方が丸い。幼さがないというのとも違う。この身長で、女となりつつある。そんな体だった。

 改めて見せられた事実に、失意を感じたわけではないが。ただその体は、雄弁に語っていた。今までひたすら平和に暮らしていて、鍛える事などかけらも考えていなかったと。


(こりゃ体を作るにゃ思ったより時間がかかりそうだな)


 適した筋肉をつけるだけでも、かなり時間を必要としそうだった。


(まあ、それだけ伸びしろがあると思って諦めるっきゃないか)


 それはさておき。

 上げたままの腕を、胸元に持って行く。


「驚くほど胸ねえな、はは。お前も大きいほうじゃないが、それよりねえよ」

「やめなさいよ人の体で。てかあたしにケンカ売ってる? サイズなんて気にしちゃいないけど馬鹿にされれば怒るわよ?」


 歯をむき出しにしてリルエが言う。この怒り方はポーズだと知っているので、インヘルトも気にしなかった。

 と、リルエがはたと気がついたように、視線を向けてきた。顔の位置ではない。それよりもう少し、低い場所だ。


「ねえ、あんたそれ……」

「え、どれ?」


 彼女が指さした場所を見ようとする。位置から、それなりに高い場所に何かあるのだろうが。

 インヘルトはきょろきょろと、体を見回した。特に何がある訳でもない、普通の体だ。極光族は瞳以外、自然種族と外的な違いはない。なので、みればすぐ分かるはずだが。


「あんたの位置からじゃ見えないのかしら……。前胸部の上の方」

「前胸部……」


 言われて、どこだったかと考える。たしか、鎖骨の合流地点あたりの名称だったか。

 なんにしろ、見える位置ではない。諦めて、彼女は頭を上げた。


「何があるんだ?」

「何かしら……クリスタル? 王族がそんなものを埋め込んでるなんて話は聞いたことないけど……」


 それは、聞かせると言うよりは、独り言のようだったが。

 クリスタルに吸い寄せられるように、彼女の指が、インヘルトの胸元に伸びた。動きに呼応したわけではないが、インヘルトは腕を下ろす。

 指は触れたのだろう。小さな振動が伝わる。だが、触覚はなかった。それが、確かにそこに、異物があることを伝えていた。


「宝石……じゃないわ。それどころか、物質でもない。でも、存在しないわけじゃない……。霊的なもの? 魂啼術の作用?」


 全く分からないという風に、ぶつぶつと続けながら。彼女の指が、幾度か結晶の周囲を滑る。指の端がたまに肌に触れて、こそばゆい。むずがゆさを感じながら、しかしインヘルトは抵抗しなかった。


「これ、いつからあるの? ……なんて聞いても分からないわよね」


 言葉は、質問というよりは確認だった。


「ああ。この体になって服は脱げなかったし、そもそも体に何か埋まってるのだって今知ったからな」

「そうよね」


 言って、彼女はクリスタルから指を離した。そして、今度は両手を掲げる。


「動かないでね」


 警告に反応するより早く、彼女は瞳を薄くした。


我が声に従えセンテンフィア


 鍵句が告げられる。

 それでどんな変化があったわけではない。しかし、インヘルト程度の能力でも感じられるほど、術の圧は強かった。

 そのまま、時が十秒、二十秒と過ぎていく。細まっていた彼女の瞳は、ついに強く閉じられ、負荷からか汗まで垂らしている。

 やがて目を開いて。集中に、呼吸まで止めていたのだろう。肺から空気を絞り出し、次いで大きく吸い込んだ。


「やっぱり……これ、魂の器だわ」

「魂の器?」


 聞いたことのない単語に、インヘルトは言葉を繰り返す。

 リルエはぱたぱたと手を振った。


「造語というか例えというか、つまりそんなものなんだけど。これは魂の結晶なんだわ。極限まで情報を圧縮して、たったこれだけの小さな器に収めてる。人間本来の情報は、そもそもこの程度の器には収まらないはずだけど……」

「そんなことってあるのか?」


 疑念をそのまま口に出す。リルエはかぶりを振った。


「聞くなら、そんなことをする必要があるのかって聞くべきね。普通は、というか普通じゃなくても、こんなことに意味なんてないわ」


 講義でもするように――実際、魂啼術に聡くない者に聞かせるなら、講義とさほど変わらなかっただろう。


「魂の情報は、概ねその本人が持ってる肉体のサイズとイコールよ。だから熟達した魂啼術士が魂魄だけで行動しても、元のそれと変わらない姿形なんだけど。これにはそのサイズが、行動するのにもっとも快適だって意味もあるわ。だから、サイズを小さくすればするほど、不便だし不都合もある。他人を圧縮して封印なんていうのもリアリティのない話だし、だとすれば本人がこの形に収まったと考えるのが一番自然だけど……」

「その本人が姫様?」

「まだ、かもしれないって程度の話だけどね。今いったけど、どうしたって現実的な選択肢じゃないのよ。蓋を開けたら中身がからっぽだったとしても、あたしは驚かないわ」


 ふっと呼吸をして――これは気合いを入れ直すためのものだったようだが。


「蓋を開けなきゃ分からない。んだから、まずは開いてみないとね。中身を漏らさないように覗けっていうんだから大仕事だわ」

「俺はどうするべきだ?」

「何もしないで。……挑発とかじゃないわよ? 本当に、私が術を使っても下手に身動きや抵抗しないでほしいの。少しのずれで何が起こるか分からないんだから」


 言って、彼女はばたばたと椅子を引き出してきた。備え付けなのだろうそれは、いかにも安普請備え付けのものだった。鉄パイプでできた量産品。足の高さがあっていないのか、まっすぐ立たず、少しだけかたかたと音を立てていた。

 椅子をベッドの前に持ってくると、リルエは座った。


「あんたはベッド」


 言われたとおり、インヘルトも彼女の正面に腰を落とす。ベッドのスプリングが、いかにも安っぽい軋みを上げた。

 リルエは何度か深く息を吸って、呼吸を整える。そして、先ほどと同じように――しかし先ほどより何段も集中して、手を上げた。


我が声に従えセンテンフィア!」


 気合いを言葉に宿らせるようにして。両手をぴんと伸ばす。声も何段か大きかった。


「我が意に応える声よ、その狭間よ。流れる時に人は歌い、ひたすらに削られゆく。あの歌はもう届かない。界なる主上の……」


 鍵句に続き展唱てんしょうが歌うように告げられる。

 鍵句と同じものにして、対なす言葉。鍵句は文字通り鍵だ。展唱は、鍵のあいた扉を大きく開くために必要な詠唱と言われている。不思議なことに、これらは全く共通しない。というか、同じ人間でも状況によって、別の展唱が唱えられる。一説では、世界が歌う音を、人が理解できる形に落とし込んでいるらしいが。

 彼女が展唱まで唱えるのは、珍しいことだった。一つに、リルエは類い希なる上級魂啼術士だ。展唱まで唱えずとも、大抵の事はやってのける。二つに、そもそも戦闘中、展唱まで唱える余裕があることなどほとんどない。戦闘で扱うならば、背後から大規模術をたたき込む時くらいだろうか。それとて、防ぐ方が簡単なのだ。確実な手段ではなく、多少士気を挫く程度の意味しかない。

 リルエがそこまでしなければならないという事は、つまりよほどの事なのだろう。

 展唱は続く。今度は視覚的な現象としても現れた。

 内側に幾何学模様が描かれた円環がいくつも生み出される。結晶体を中心に、それは三つ、四つ、五つ……と数を増していった。しかし、円環はいくら増えようとも、クリスタルにだけは触れようとしない。


「……遡上の内、獣の声。そして流れるは天なるも地なるも無き人……」


 ぶわりと、リルエの額に汗が浮かんだ。

 今度は少しばかりではない。脂汗が窓から差す光に反射し、まとわりつくよな輝きを放っていた。


「……イーガ、アル・ギエ。エクソリエシアタアァカタ、クッィエル、エエアックァ……」


 ついに意味ある言葉までなくしていた。術は傍目から見るより消耗するのか、呼吸まで荒くなっている。

 円環の数は増え、そして肥大化し続け、ついに大きな円はインヘルトまでもを包むほどになっていた。触れる感触はない。嫌悪感もない。しかし、実際に包まれている。その違和感に身をよじりそうになるが、なんとか耐える。


「……シータ!」


 最後の一語が大きく叫ばれる。それと同時に、術も完成した。

 無数の円環が一気に縮まる。寄り集まった円は球形になり、すっぽりと結晶体を包んだ。そして、光もまた、強く輝く。

 発生したそれは、太陽がその場に生まれたのかと思うほどだった。光に目がくらむ。光膜の向こう側に、リルエの姿が消える。いや、彼女だけではない。安っぽい壁紙も、どこから持ってきたのか分からない、ぼろい机も、もしかしたら音でさえ、煌めきの中に吸い込まれた。

 もしかしたらこれは実際の光ではなく、術がそう見せているだ結果も知れないとも思う。それくらいの光量だった。魂啼術の作用だと言う点だけは変わらないが。

 発光は強くなる。瞳を差すそれに、涙すら出そうになった。

 しかし。

 その中に、確かに人影のようなものが映った。




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