第4話
鬱蒼とした森の中を、木の枝を跳びはねるようにして走る。梢が小さく音を鳴らし、その分だけ進んだという証明を残す。
インヘルトが走る速度は、いつもより少しだけ遅かった。それは体の不備からくるものではなく、もっと単純に、服に汚れをつけたくなかったからだ。
普段、わざわざ服のことなど気にはしないし、そもそも服を気にして戦う馬鹿もいないのだが。さすがに新品の(それもお高く汚れやすい)服で森の中を走るならば、それなりに気を遣いはする。まあそもそも、それだけ余裕があるのが根本だと言えるか。
と、ふとインヘルトは、そこで足を止めた。さして太くもない木の枝。自分の本来の体であれば、その重量を支えるには不足だっただろう。しかし、今は十分なそれ。身長は頭一つ半ほども近く小さく、体重に至っては半分ほどでしかない。歩幅は相応に狭くなっているはずなのに、なぜだか違和感も覚えない。新しい体。新しい、自分の体。
気づいたのは、足音が自分の分しかないという事だった。もう一つ、リルエの分がない。
数十秒待っていると、少女が遅れて到着した。体に遅れて、音もいくらかが届く。
リルエは肩を怒らせるように上下させ、眉をつり上げていた。
「早いわよ! 追いつかない、じゃない!」
荒い呼吸を間に挟んでいるため、ややつっかえながら言う。
「悪い。ちょっとぼんやりしていた」
「しっかりしてよ、全く。あたしがいないと敵がどこにいるかも分からないでしょうに」
「悪い」
ジェスチャーも交えて再度、謝る。
リルエは、なんとか枝の上でバランスを取って、片手を幹に、もう片手を膝に当てて、休憩した。息は当たり前に乱れており、それが整うまで、まだいくらかの時間が必要そうだった。
(この差は何だろうな)
ぼんやりとインヘルトは考えた。
視線はリルエから、進行方向へと向けている。
浅い林などとは違い、ここは正真正銘、人の手が入らない未踏の森だ。土地こそ富んでいるものの、山の麓という訳でもないのに、地面は荒く上下している。彼女らがわざわざ木の上を走っていたのはそれが原因だった。同時に、ここが開発地区に指定されなかったのも。大きく均す必要がある土地は、開発に向かない。
彼女はここまで、およそ戦闘に必要な速度で走ってきた。つまりは、いつでも敵に遭遇し、そのまま戦っても問題ない程度に。
体には驚くほど不調はなかった。実際、絶好調だと言っていい。肉体が入れ替わった異常を別にしてすらだ。
インヘルト・グノーツという、過去の器。物心ついた頃には、すでに訓練と殺し合いを繰り返していた。器に許されぬほどの修練を課し、おそらく極まっていたであろう。それと、どれほども鍛えず、それどころか、ろくに運動もしなかった体が同等という事実。
いや、と否定する。いくら身体が魂に適合していても、体にしみこませた技術まで覚えられるわけではない。肉体が鈍らな事を考えれば、むしろ今の方が身体能力が高いと言える。技術の拙さを、身体能力で補っているだけで。
「なあ」
「なに?」
リルエは、一応息は整ったようだったが。まだ体の疲れまでは取れていないのか、体は木に預けていた。
「極光族って身体能力の高い種族であるのは知ってるけどさ」
「うーん……」
彼女のうめきは、半ばインヘルトの言葉を遮るようにして漏れていた。
「よくそういう勘違いしてる人がいるけど、あたしらの平均的な身体能力って、いろんな種族を見ても下位の方よ」
「そうなの?」
初耳だ、という風に、インヘルト。
リルエは折っていた体を伸ばし、なんとか直立しながら言った。
「あたしらの素の身体能力は、自然種族に劣るわ。それでも総合的に高くなるのは、単に魂啼術適正が高いからなの」
今度は腰に手をやり、体を反らす。背筋でも突っ張っていたのだろうか。
「あんたにエーテルがどうのとか複数次元存在の同位原則なんて言っても分からないでしょうけど……分からないわよね?」
「ああ、全然」
本当に全く分からないので、それははっきりと言っておく。説明されても困る、というのもあったし。
「ざっくり言うと、魂啼術の適性が高いほど、そして位が高いほど、体もまた強くなるの。魂啼術は魂の力。魂が強ければ、強くなった魂を受け止められるだけの器が求められる。つまり肉体ね。物理的な改変まで行うわけじゃないから、元の力に上乗せされる形で強くなる」
言っているうちに、講義でもするつもりになったのだろうか。片手は木に当てて体を支えたまま、もう片手で指を振る。
「極光族は大七族――自然種族も含めれば大八族だけど――も含めて、一、二を争う魂啼術適正の高さがある。だから、その分だけ身体能力も高くなる訳だけど……」
ふと、リルエは言葉をとめて、インヘルトを見た。
今の彼女をというよりは、かつて彼だった頃の姿を見ているようだ。視線はインヘルトを通過して、どこか遠い。
「あたしとしては、なんで元のあんたがあたしより身体能力が高かったのかが不思議よ。まあこれはあんたに限らず、シバリアやら、うちの幹部連中全員に言える事だけど」
「俺の身体能力はさほど高くなかったぞ。それこそシバリアたちの方が高かったくらいだ」
「それはそれで不思議なんだけどねぇ……。ただの技術だけで、あたしらが手も足も出ないような存在になれるもんなの?」
「なっちゃったんだから仕方ないだろ」
言うと、彼女は理不尽だとかどうとか、ぶつぶつ独りごちていたが。
(むしろそう言いたいのはこっちだよなあ)
そう思わずにはいられなかった。
リルエは魂啼術特化の戦士だ。武術を修めていない訳ではない。そちらもまあ、それなりにはやると知っている。しかし、やはりそれなりでしかない。
ただの術士が、身体能力で通常戦闘特化の人間にわずか劣る程度。武術を極めていったインヘルトからしたら、そちらの方が理不尽だと言わざるを得なかった。生まれ持った物の、圧倒的な差を痛感させられる。
今だ納得いかない様子の彼女だったが、とりあえず頭は上げて、言ってくる。
「まああんたたちだって、恩恵がない訳じゃないから、全く理解不能って訳でもないんだけど。……納得できるかはさておき」
「そうなのか? 実感はないがなあ」
「エーテル同期の恩恵は、物理現象に優先されるわ。だからあたしたちが音より早く走っても、周囲への影響は、本来あるべきものより遙かに少ないわけ。あんたも覚えない? ぶん投げた石は風の影響を強く受けるのに、自分が同じ速度で走っても風がまとわりつかないって」
「ああ……」
そう言われると、確かに記憶にひっかかるものはあった。
前領主、つまり奴隷の支配者は、奴隷に反乱させない手管だけはとてつもなくうまかった。最後の一度、つまり奴隷の一斉処分さえ行わなければ、皆は未だに奴隷のままだっただろう。
奴隷の状態で楽しめる遊びというのは少ない。下手に娯楽を広めれば奴隷に余計な知識を与えるとして、そういう類いのものはほとんど入ってこなかった。なので、そもそも遊ばないか、遊ぼうと思っても、どこでも手に入るものしかなかったのだが。
石をまっすぐ投げる遊びは、昔にはやっていた記憶がある。形状がまばらなそれは、どう投げたって軌道が変化する。当時は意識していなかったが、あれもつまり風に影響されての事だ。
つまり理屈の上で言えば、この世の誰もが恩恵を得ている形になるのだろう。恩恵が目に見えるレベルになるかは別の話として。それ自体はまあ、驚くべき事でもない気はした。
「
リルエが唱えた。術の発動自体は感知できても、その内容までは分からない。相手の魂啼術が拙ければ、内約まで分かるものなのだが。
術の内容は予想できた。回復と身体強化だ。ほっそりした体から、痙攣が抜けたのが、傍目からでも分かる。
「よし、じゃあ行きましょうか」
言いながら、少女は体を伸ばした。木から手を離し、腰を捻っている。
インヘルトが走り出そうとして、その前に服を捕まれた。
「待った! あんたどっちに相手がいるか分からないでしょ? あたしが先導するから」
言って、彼女はもう一度、術を唱えた。敵の方向を探したのだろう。
少女が進む方向に、インヘルトもついて行く。進行方向は、今までの方向とやや逸れていた。敵が移動したのか、それとも最初からずれていたのか、どちらかは分からない。
進む速度は緩やかだった。自分より遅い相手に合わせる以上、ペースに違和感を覚えるのは仕方ない。暇ができた、とも言える。
そのまましばらく、リルエからしたらかなう限り最高の速度だが、インヘルトにしてみれば散歩みたいな速度で。これもまたおかしな話だ。肉体面で言えば、リルエの方が体力があるだろうに。とにかく緩やかに感じられる速度だ。
いくらかすると、インヘルトもただ走るのに飽きて、口を開いた。
「しかし、舐められてるよなあ」
「何が?」
話すためか、彼女の速度も少し緩む。それを否定するつもりもなく、インヘルトもまた、歩幅を狭くした。
「なんのつもりだか知らないが、国境をほいほい侵してくる事だよ。いくらこっちを独立してるって認めてないにしても、やられりゃこっちも許せないって分かってるだろうに」
「そんなもんでしょ」
気軽に、それこそ諦めたように、リルエが言う。立ち止まっていたら肩でもすくめていたのではないかと思える気軽さだ。
「あんたがいなけりゃ、独立なんて夢見ることもできなかった土地なんだから」
「お前らもいるじゃないか」
指摘したが、リルエから目立った反応はなかった。それは、考慮するに値しないとでも言いたげだ。
「あたしらだって弱いとは思わないわよ。でも、その強さは所詮、相手が本気になってかかってくれば終わる程度のものでしかないよ。それは自分たちが一番よくわかってる」
あんた以外ね――言外にそう告げられる。
リルエの走る速度が弱まった。いや、実際にはそんな気がしただけだろう。しかし、力が抜けた、つまらない実感だけはある。
「うちがシナウッセル側で本当の意味で脅威に思ってるのはアルベルト・ノーツだけ。それと同じ。相手が恐れるのは……」
そこで、彼女は言葉を止め、かぶりを振った。言っているうちに、馬鹿馬鹿しくなったのだろう。同じ事の繰り返しに。
「はっきりしてるのは、あんたたち――この場合、元奴隷戦士だけど――は、裏切られたって事でしょ。故もなく、ただ生まれだけで奴隷にされた。その裏切りは許さない。セナウすら許せないんだから当然よね。ナメてる相手は叩き潰さなきゃ」
「……そうか。そうかもな」
裏切り。そして、許せないこと。
インヘルトにとって、奴隷時代はそう酷い物ではなかった。彼女にとって本当に必要なもの――つまり戦いだけは、十分にあった。ただ、それ以外の人間にとっては、何もかも足りなかった。
裏切り。
シナウッセルはそれを見逃していた。まさか、大々的に行っていた奴隷の殺し合いを知らなかったとは言うまい。分かってて見逃した。利用した。嘘をついた。
許せないこと。
この世で誰が、誰かが満足したのだろうか。少なくともインヘルトは、そういった人間を一人として知らない。仲間内で唯一権力の座に座ったセナウですら、ただの疲れ切った男だ。現実と、そして裏切りの代償にいつも怯えている。
「満足するまで進むなんて、できやしないのかもな」
「なにそれ? 哲学?」
リルエが呆れたように言った。インヘルトは、それに答えはしなかった。
つまらない話をしているうちに、リルエは足を止めた。太い枝の上で、やや体をしゃがませて構える。
インヘルトは同じ木の反対側、彼女が降りた枝よりはやや細いそれに、似たような姿勢で降りた。
知覚範囲ぎりぎりに、数名ほどの気配を感じる。当たり前に視線は通っておらず、仮に通っていたとしても、見えるかどうか微妙なほどの遠方。まあ仮に見える距離だったとして、わざわざ視線に入る位置取りをするほど間抜けでもないだろうが。
気配を消すのが下手くそな人間を捉えているだけで、実際の人数は、もっと多いだろう。大体十数名というところか。気配は散らず、一カ所にまとまっている。
「少なくないか?」
気づいた人数を、確認するようにリルエに言う。
「そうね。なんでこんだけなのかしら」
彼女も同じ事を思ったようで、首を捻っていた。
「部隊を小分けにしたとか?」
「他にレーダーに引っかかる人間っていうのもないのよねぇ。ジャミングしてるとして、それがあんたを挑発して引っ張り出すのにどう意味があるかって言われると、どうだかなとしか言えないし」
疑問は残ったが。まあいいかという風に、彼女は言った。
「まあ、あたしの仕事はここまでね」
「おう。案内ありがと」
言って、インヘルトは担いだままの剣を抜く。
今まさに、死に神の鎌が敵を捕らえんとしていた。
▲▽▲▽▲▽
森の中を隠れながら進むというのは、それなりに労力のいる事だった。四方を警戒し、それらから射線を外し、物音も可能な限り立てない。森の中、無音でいるというのは、ただ立っているだけでも難しいことだ。風のそよぎ一つあれば、森はそれを機敏に察知し、騒ぎを起こす。ましてや進みながらとなれば、不可能と言っていい。
難しくはあるが、苦難というほどの事でもない。そういうスタッフを集めたのだから。ぼんやりと、当たり前の事を思う。
生い茂る草木を手でかき分け、足で踏み潰し、時にはナイフで切り落とす。十二人もの行軍となれば、そういった後続に対する気配りも必要になった。
(いっそ魂啼術でも使えてしまえばな)
その考えははっきり弱音だと自覚しながらも、クラー・フットは考えざるをえなかった。
魂啼術。発祥がいつだかは知らないが。大昔の物語の魔法のようにこの世に現れて、魔法のように便利に使われている秘術。それこそ当初は、物語の中にあるそれのように便利に使われたという。
人の手に余る、などとはよく聞くが。使いたいと思ったときに使えないような、不便なものでしかない。
結局、この世の真理には逆らえないのだ。元持った力の差をひっくり返せるようなものではない。身に余る何かに挑もうとすれば、便利を捨てて、温存するしかない。その程度のもの。
クラー率いる行軍は、むやみやたらに進んだ――そう、目的などないと言えるし、すでに目標は達成しているとも言える。後はこれを、いつまで続けるかだけが問題なのだが。
弱小国――といえば語弊があるか。なにしろシナウッセルはカイゼリン領国を国として認めていない。バンスト・イアーゼ同盟反逆区域だ――の国境侵犯を行うのは、実のところさしたる問題ではない。なにしろ両者の力関係は、はっきりしているのだから。それでも、恐怖はあった。確かな、物理的な、避けようのない恐怖。
「ひぃ……」
誰かが悲鳴を上げたのが、クラーの耳に届いた。
彼は一瞬声の主を探そうとしたが、すぐに諦めた。誰だって関係がない。どうせ誰もが、心の中では同じように悲鳴を上げているのだから。
「隊長……」
消え入りそうな、誰かのつぶやき。声か察するに、先ほどの悲鳴の主と同じらしい。
クラーは返事はしなかった。黙々と、同じ速度で隠れ進む。疲れているのだ――精神が。だから、余計なことはするな。心の中でだけ罵る。
「もう、いいんじゃないでしょうか。かなりの時間、我々は挑発を続けています。ですが――その――現れません。奴は。もう撤退してもいいのでは……」
(俺が何度もそう逡巡しなかったと、本気で思ってるのか)
呆れを含んだ言葉は、内心だけにとどめた。口に出してしまえば、士気に関わる。
隊員はその名を、はっきりと口にはしなかった。口に出すのも恐ろしいと言いたげだ。クラーも、気持ちは分からないでもない。自分も同じなのだから。違いがあるとすれば、それを押し殺すことができるかどうかでしかない。
彼は手の甲で汗を拭った――この程度で発汗するほど疲れはしない。これは冷や汗だ――。そして、足を止めて振り返る。
目の前には、迷彩服を着た十一人の部下が並んでいた。遠出をする訳でもなかったのと、境界線近くまでは転移で来たので、装備は軽量である。装備の種類は二分されていた。半分は
戦争をするならば、それなりの大装備だと言えた。たかだか十二人が持つ装備ではない。しかし、これから行われるであろう事を考えれば、全く足りない。
実際、相手がその気になれば、瞬きの間もなく殺されるだろう。
クラーはため息を隠しながら、自分の部下を睥睨した。
「我々の目的は、インヘルト・グノーツが健在かを確認かを確認することだ。目標を達成するためには、相手のリアクションを見る必要がある。だから少なくとも、何も確認できない間は撤退することはできない。これは作戦でも言ったと思うのだが」
言っていて、気分が陰鬱になるのは隠せなかった。特に、その名を出した時は。
「しかし、その……我々もかなりの長時間、挑発を行っています。しかし、反乱者たちからの反応は未だありません」
これは、前者とは別の隊員の言葉だが。
声は震えていた。当たり前に、この隊員も逃げたがっている。
当然だろう、とクラーは思った。こんな指令は、一言で言って、死んで確かめてこいと言っているのと何ら変わらないのだから。
それを隠して、兵士に任務を遂行しろと言わなければいけないのだから、部隊長など損な役回りだ――苦みを吐き捨てる事もできず、なんとか飲み込みながら、うめいた。
「すぐ反応があるとは誰も思っていない。本国もだ。相手が適度に隠れている我々を見つける時間もあるし、そこから命令を出すのはさらに先だ。任務を完遂するならば、このままあと半日は同様の行動を続けることになる」
「半日……!」
誰かが、悲鳴のように繰り返した。
全員が疲れていた。クラーですらも。
クラー含め、隊員たちは誰もが歴戦の戦士たちだ。森の中を数日歩いた程度で根を上げるような者は、一人としていない。だが、事実は、全員が汗を吹き出すようにかいていた。疲れからくるものではない。精神的な圧迫感がそうさせる、脂汗だ。誰も彼も、戦う覚悟はできている。しかし、無駄に死ぬ覚悟などはないし、あっていいものでもない。
「休憩にする」
丁度いい機会だからと、クラーは命令を発した。
言われて、倒れ込むような無様を晒す者はいない。全員が近場の木に背を預けて、草をかぶり、風景と一体になるように座る。
疲れを忘れることはできない。しかし、そのまま倒れてしまえば、それはそのまま敵に発見される危険を増やすことになる。敵に発見させる事が目的なのだから、矛盾しているが。しかし、彼らは皆、何事もなければいいと思っている。
「ちっ!」
誰かが舌打ちをした。
「他人事だと思って、無茶な任務押しつけやがって……!」
「化け物をつついて起こせだと? 冗談じゃねえ!」
「未確認の情報で、あっさり人を捨て駒にしやがって」
それらの声は、かなり潜まったものだったが。しかし、仲間内に聞こえる程度には大きなものだった。あるいはただの独り言ではなかったのかもしれない。誰かと共有したかったか。
クラーは言葉を注意しようかと、一瞬迷ったが、やめた。士気云々で言うなら、すでに作戦を続行できるぎりぎりだ。この上愚痴も言うなと言うのは酷だろう。
今この瞬間にも、襲撃があるかもしれない。そんな恐怖の中では、休まる精神など無い。それでも肉体は多少楽になる。
「隊長」
気分だけは重いままでいると、急に声をかけられた。はっとして顔を上げる。
「よくこんな任務受けましたね」
「拒否権のある任務というのもどうだかな。あまり思い浮かばないよ」
あるいは、除隊申請でも叩きつけていれば、思い直してくれたかもしれないが。いや、その前に懲罰やら処刑やらがあるか。なんにしろ、おいそれと拒否できるものでもない。任務を受けようが受けまいが、結果は大差ないと知っていても。
受けておけば、プライドは守れるかも知れない。
死にゆく者にプライドは必要あるのか? 一瞬考える。答えはでなかった。ただ、現状が選択の結果であるだけだ。
(五人)
胸懐でだけ、カウントする。
(リルエ、シバリア、ポポル、ブフー、スィリエ)
顔までは、さすがに思い浮かばないが。名前だけは知っている。簡単に言ってしまえば、厄介者。もう少し言うならば、敵の中でもとりわけ強力な力を持った者たち。
(この五人であれば、まだいい。類い希な戦闘技能者たちではあるが、我々でなんとか逃げ切れない事は無い。同格の存在も、我が国にいないわけではないし)
もっとも、それでもかなり難しいには違いなかったが。それでも希望はある。
胸中深く闇の中に、一つの姿が浮かんだ。全体的にひょろっとした、小汚い男。頭はぼさぼさで、手足がやたらに長い。目つきが妙に粘着質だ、とはクラーが思っている事だが。こんな、スラムにでもいけば、どこにでもいそうな男が、大敵であると誰が信じるだろうか。
六年前の戦争には、クラーも参加していた。そして鎧袖一触、ただの一人に、千々に散らされた。悪夢の名。
(インヘルト。奴だけは駄目だ。どうしようもなく)
未だ思い出すだけで、背筋が凍る。
唯一の救いと言えば、この部隊を殲滅することは相手にとってよろしくないという点だろう。いくら化け物じみた一個人がいたとして、シナウッセルという大国を敵に回すには、不足があるのは否めない。
と言ったところで、一個人は一個人だ。癇癪ひとつ起こしただけで、自分たちはたやすく殲滅される。その事実は変わらない。
(いっそ、本当に死んでいてくれれば)
思わずにはいられなかった。
インヘルトが何かの目的で、ウラル山脈にまで向かったことまでは確認できている。その後、彼の姿が確認できないとも。
ここまでが事実だ。そこから先、つまり彼に不都合があり、未だウラル山脈近辺から脱出できない。もしくは――何かの間違いで――死亡している。この死亡説が、インヘルト以外であったなら信憑性もあったのだが。
きっぱりと希望的観測だが、インヘルトの存在が確認できないのも事実だ。
「先に山の方の調査を終えてからしろと言うんだ」
「はい?」
「いや、何でもない」
思わず漏れた言葉に、隊員が反応するが。それには短く否定しておく。
とにかく、そう、山脈の方だ。
山脈の一角が崩れ去った、というのは写真で見せられた。いくらそれが広域で、調査に時間がかかるとはいえ、先だってこんな無謀な作戦を実行するとは。文句の一つも言いたくなる。
「そろそろ休憩を終わりにするか」
言って、彼が立ったところで、唐突に。
ひゅっと、音がした。
いや、それは気のせいだ。実際は無音だった。ただ、もし音がしたのならば、そんなものだっただろうと、脳が勝手に解釈しただけで。
地面に、断裂が現れた。クラーとその他とを、まるで分断するように。気配も何もなく。前兆すら感じられない。
彼は咄嗟に、断絶がやってきたであろう方向を見た。樹木が生い茂っている上に、そこは窪地だ。ぱっと見で何が観測できるわけでもない。が、少なくとも、その方向には、断裂の跡と言える物が何もない事だけは分かった。
「敵襲――!」
飛翔した刃の後に視線が取られそうなのを必死に自制し、クラーは叫んだ。
隊員の反応は迅速だった。通常であれば、混乱に何もできないであろう空隙にも、訓練通りに体を動かす。先に
「
鍵句が一斉に、同時に告げられる。魂啼術の術式を先行付与された盾は、たった一言で、定められた高度術式を展開できる。
前面に、薄い光の膜が現れた。並大抵のことでは――というか、およそ物理的には突破不可能な、防御皮膜。対抗手段がないわけではないが、これを突破するならば、迂回するなり何なりを考えた方がいい、と言われるものだが。
(本当に?)
クラーは部下と同じく盾を構えながら、顔を引きつらせた。
(攻撃の跡は残っていなかった。まるで斬撃だけを召喚したように、攻撃が飛び越えてきた。その技能を持ってすれば、防御などどれほどの役にも立たないのではないか……?)
口には出さなかった。出してしまえば、今度こそパニックは現実のものとなる。
「一番、姿確認できません!」
「二番、同じく!」
「三番、同じく!」
ライフルのスコープを覗いていた部下が、次々に声を上げる。
スコープには透視の術が付与されている。そのため、障害物があろうが、関係なしに観測できるはずだが。相手がスコープの性能以上に強力な魂啼術で姿を隠しているのか、それとも単純に、それほど遠方から攻撃を行っているのか。どちらかは判断がつかないが、どちらであったとして、尋常ではない事に変わりはない。
クラーは歯がみをして、認めるしかなかった。現れたのだ、こちらの望み通りに、望まぬ事が。しかし、どちらの思惑にも沿って。
インヘルト・グノーツが現れた。
「全員、衝撃に備え!」
クラーは絶叫した。持ち場にいる全員が、体を緊張させ、盾を保持した。その姿は、戦闘というより、恐慌に寄り集まっている者たちに見えた。
彼自身も、強く歯を食いしばる。防ぐ――防げるはずだ。たとえ相手が、こちらを瞬きもしないうちに、皆殺しにできる力の持ち主だとしても。その先にある展開を臨まぬ限り、実行はしないだろうという希望を持って。まるで子供が、親にそう願うように。
次いで来た衝撃は、痛烈だったとも言えるし、そうでなかったとも言える。
二度目の飛翔する刃は、今度は横薙ぎだった。閃光が走り、不可視の刃と光の帯とがぶつかり合う。盾と矛とが衝突し、火花のような光を噴出させた。展開する防御膜はあっさりと食らい尽くされ、、切り裂かれる。
刃の勢いは防御術だけでは止まらず、盾の半ばまで寸断していた。強固な金属と、魂啼術の二重に強度を確保されているそれが、あっさり破壊された。まるで冗談のように。
そこかしこで悲鳴が上がる。壊れた盾に、もう自分たちを守る物はなにもないのだと思い知らされて。
(こちらと……そして向こう側の事情を汲んでいる? それともただ単になぶっているのか?)
判断はつかないが。
クラーは盾を捨てて、腰のナイフを抜いた。特に強固な術が付与されたわけでもない、ただの量産ナイフ。この状況では何の役にもたたないもの。それでもなお抜いたのは、単純にそれが訓練された動きだったからだ。
(分かっていることは、次の攻撃はもう防げない。イニシアチブは完全に相手にある)
殺すも殺さないも、相手の意思一つ。そんな状況におかれて、寒気がないわけがない。背筋に冷たい釘を打ち付けられるような心地になりながら、クラーは相手の動きを待った。それが無駄だというのは、あえて分からない振りをして。
構えて、どれほどの時間がたっただろうか。感覚は完全に麻痺している。まだ数秒かもしれないし、一時間たっているかもしれない。
大した音は聞こえなかった。つまりは、敵の攻撃音や、部下の悲鳴なども。
叫ばなかった点に関してだけは、褒めてやりたい心地だった。クラー自身、可能ならば、今すぐ絶叫して走り出したい。
愚にもつかない考えだ。彼はそれを認めてひっそり苦笑し、噛みしめる。もしかしたら、人生最後の笑いかも知れないのだから。
『あー、あー、テステス』
急に、女の声が響いた。大きな声ではないのに確認できたのは、発信源が恐ろしく近くだったからだ。魂啼術により、声だけを遠方に飛ばす。簡単な術であり、その辺の子供でも使おうと思えば可能だろう。スコープでも確認できないであろう長距離から、正確に一点まで送り込むことを加味しなければだが。
『こちらグノーツ傭兵団、リルエ・シニアです。諸君らは触れざるべき領域を侵しています。ただちに撤退しない場合、諸君らの殲滅を実行します。と、団長は仰せです』
気が抜けるほど、明るく、軽快な声だった。
リルエ・シニア。グノーツ傭兵団随一の魂啼術の使い手。その腕前は、シナウッセルの特務術士部隊と比較してなお勝ると言うが。
「こちらとしても、はいそうですかと帰る訳にはいかない。子供の使いじゃないんだからな」
声を届けているのに、声を拾わないという事も無いだろう。そんなことを思い、クラーは半ば反抗するように言った。部下から悲鳴が上がるが、それは無視する。
帰ってきたのは、先ほどと同じく、世間話でもするような様子の声だった。
『好きにすれば?』
感情の色を見ることのできない、ひたすらどうでも良さそうな声。
『そっちの都合なんて知ったことじゃないし。あんたらが死なない程度に手足を落として突っ返すって手段も、無いわけじゃないしね』
「隊長!」
今度こそ、部下から悲鳴が上がった。
恐怖を突きつけて、妥協点を与え、余地は見せない。交渉としてはよくある手段ではあった。上の立場からそれをされれば、抵抗のしようがない。
(ここまでか……)
認めるしかない事ではある。
これ以上ごねれば、今度は部下の支持を失う。味方に背中を刺されて任務失敗というのは、考え得る限りもっとも馬鹿馬鹿しい事だ。
あと一手、つまりインヘルトの姿を確認できれば任務の完全達成なのだが。逡巡はあった。とっとと撤退させたいなら、姿でも何でも見せればいい。それをしないという事は、姿を見せるのに何か不都合があるのだろう。
考えているうちに、再度攻撃があった。また誰も傷つかない。しかし、その一撃で、ライフルだけを的確に破壊される。
これでもう、己の身一つ以外に、抵抗の手段はなくなった。
「っ……撤退する!」
決断をしてしまえば、動きは速かった。
不必要な、つまりは破壊された装備は放棄し、全員が我先にと駆け出す。その様は、どう控えめに言っても、敗残兵の群れだった。
クラーもは知りながら、悔しげに背後を見た。ただの森、その先に、相手はいるはずだ。それを改めて見るように。
(次こそは……)
その考えが、ただの負け惜しみだと分かっていた。彼自身も、無事帰れる事に安堵を覚えているのだから。
▲▽▲▽▲▽
「撤退した?」
木の上で蹲踞し、両手に剣を持ちながら、インヘルトは問いかけた。鞘は邪魔だったので、地面に落としてしまっている。
もう一段ほど上の枝に乗っているリルエが、小さく頷いた。手で遠見などをする仕草をしながら。どうせ魂啼術で見ているのだから、仕草など全く関係ないはずだが。
「帰ってる帰ってる。結構わちゃわちゃしちゃってるわねえ」
這々の体で散る彼らを、そんな風に表する。インヘルトからは、気配が微細に動いているという程度しか分からないが。
そりゃそうだろうな、とインヘルトは思った。
遠方から一方的に、自分を必殺せしめる攻撃が迫る。あらゆる攻撃手段でも究極の一つだ。実力差というのは、時にそんな残酷な夢想を現実にする。
「しかし、何がしたかったんだか」
「うん?」
ほとんど独り言の彼の言葉に、リルエが疑問符を浮かべた。
聞かせるつもりの言葉ではなかったが、聞かれて困る事でもない。インヘルトは答えた。
「あの程度の奴を派遣して、一体何がしたかったんだかなって。シナウッセルなら、もうちょっとマシな奴だっていたろうに」
「あんまりいないんじゃないかなぁ」
彼女も、ほぼうめくようなつぶやきではあったが。
「まあいたとして、誰も彼もをこっちに差し向けるのは無理じゃないかしら? うちの目下の敵はシナウッセルとベルモパンだけだけど、あんだけ大きな国からしたら、うちなんて小物もいいところだろうし。あんたがいる事を考えたら、何をするにしたって全く割に合わない相手なんじゃない?」
「そんなもんかね」
納得できたよな、できないような。微妙な気持ちではあった。
「ともあれ、これであたしたちの仕事もおしまいね。帰りましょ」
「そうだな」
その意見には、特に反対する余地もなく。
二人して、来た道を戻っていった。
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