第21話 雷電

 城跡公園は、いやおい駅北側の高台にある。天守閣は現存しないが、三十年ほど前に市民の寄付を募って復元された雄壮な櫓門が、いやおい市民の精神的なシンボルとしての役割を果たしている。

 昭和の初めの頃、東側の深い空堀には線路が通り、小さな電車がガタガタ走っていた。西側の堀は、今ではサッカーグラウンドと陸上競技場として整備されている。

 再建された櫓が、板張りの外壁をスポットライトの白い光にさらしている。青い夜空には夏の星座がうっすらと光を放つ。夕方には遠雷が鳴っていたが、どうやら夕立の心配は無くなったようだ。

 櫓の立つ崖上を見上げる広場に、野外用の能舞台が設けられている。板張りの舞台の四隅には、細い葉を霞のように繁らせた長い笹竹が立ち、幣を下げた注連縄が四辺を囲っていた。照明は舞台を明るい箱として切り取り、周囲の観客席を闇の幕のうちに隠している。その闇の幕の裾を、舞台の下に燃え盛る篝火の炎が風にあおられて時折舐めた。

 地味な紋付袴をまとった男たちが、舞台の片側の縁で、舞台の外の暗がりに背中を浸すようにして座っている。勇壮な舞囃子「田村」がちょうど終わったところだった。

 興奮をそのままに、灰色のTシャツという代わり映えしない姿で立つ鹿島に、私はささやきかけた。

「結構面白いな」

 西野君の誘いに応じて、城跡薪能に足を運んだ我々ではあったが、いかんせん、能のイメージは「ストーリーがわからなくて、変化が少なく退屈」である。そこで失礼にも、自販機で買った缶コーヒーを飲んで公演に臨んだ。

 しかし、その必要はなかったのではないかと私は思い始めていた。公演の演目は、舞囃子と呼ばれる、能のクライマックスだけを切り取ったダイジェスト版から始まった。「海士」、「巴」、「田村」と、どれも五分から十分程度の演目が立て続けに演じられる。

 まだ暮れきらぬ夕雲を茜色に残した空をバックに、面も能装束もつけていない紋付袴姿の演者が、舞台上を滑るように動く。高く張り詰めた鼓と笛の音に合わせて、坂上田村麿に自らを擬した舞い手は、舞台をどん、と力強く踏み鳴らす。山の端から地上に投げかけられた残光に、金の扇が美しく映えた。

 だが、日本古来の舞台芸術は、鹿島の感興を著しく誘いはしなかったようだった。やつは、ひとつあくびをして、

「そう?」

と気のない声で応じた。私は、観劇の供がちっとも感動を共有していないことにがっかりした。とはいえ、私が鹿島を情緒ゼロの人間とこき下ろし、逆に、鹿島が私を共感能力が高すぎて我がない、などとけなし合うのはいつものことである。

 これほど関心が薄いのに、わざわざついてくるというのも酔狂である。「自分で体験したことのないものは叩かない」というポリシーは、鹿島の常々口にするところだった。

 荒神寮の正門前で落ち合って、お城まで歩いてくる間に私は、数日前の寮の夏祭りで暴露された、鹿島の驚くべき正体についての詳しい話を迫った。

「え? そんなに聞きたい? そう言われると話したくなくなるなあ」

 嫌な顔をする私に、やつは小憎らしくにやついた。

 鹿島の所属する伴天連教団というのは、正真正銘、西洋中世の黒魔術に源流を遡るらしい。珍しい南蛮舶来の文物に紛れて、安土桃山時代の日本に渡来した黒魔術師たちがつまずいたのは、同じ時期に極東の島国の地を踏んでいたイエズス会士たちと同様、訳語の問題だった。

 イエズス会宣教師は、最初、彼らの唯一の神を指し示す言葉として、仏教で世界の中心とされる「大日」を使った。外来の新しい概念を理解させるために、もともと日本にある似た概念で置き換えたのである。これは、信者として獲得したい日本の民衆と、既存の仏教の僧侶双方から受けがよかった。天竺宗という仏教の宗派の一つだと思われたのだ。

 しかし、「大日」が、俗語で女性の陰部をも意味すると知ると、宣教師たちは、神を表すために代わって「デウス」を使うようになった。これは、ラテン語そのままの音写である。新しい用語は、仏教的な文脈や俗っぽさという似合わない服を脱ぎ捨てたが、代わりに、人々から無理解を投げつけられることになった。

 数々の秘儀や奇跡をわざとするとして、イエズス宣教師と同一視されていた黒魔術師たちは、術語の通りのよさを選んだ。つまり、前者の手法を一貫して変えなかった。彼らは、自分自身のことを「僧侶」、呪文を「陀羅尼」、「真言」、集まって儀式を行う建物を「寺院」、「伽藍」とした。

 本来の意味の一部を犠牲にした甲斐あってか、黒魔術師たちは密教に近い宗派として受け入れられるに至った。黒魔術は、九州を中心に広がりをもって静かに根を張る。やがて禁教令が出され、日本から外国人が姿を消したあと、黒魔術はひそかに日本人の間で受け継がれていった。だが、黒魔術の本家本元から遠く海を隔て、伝道者も欠く以上、伝承する原液が徐々に薄まり、異質な要素がブレンドされていったのは当然だ。黒魔術の伝承者たちは、失われた要素を、彼らの用語の借用元から補った。黒魔術の使徒である自分自身をより僧侶らしく、詠唱する呪文をより陀羅尼らしく、儀式の場をより寺院らしく仕立てたのである。

 これは、手に入る知識の上からも物品の上からもやむを得ないことだった。朗誦の音階を忘れられた呪文は、耳に慣れたお経で上書きし、劣化した呪具は、仏具で置き換えるしかなかった。彼らの奉じる教えの、より本来に近い姿を知るためには、訳語から想像力を働かせるしか方法がないのだ。

 黒魔術が伝来したばかりの黄金期からすでに、「僧侶」、「陀羅尼」などの近似の概念で言い表した言葉は、一つの言葉の上に二つの異文化における意味をだぶらせざるを得なかった。日本的仏教的文脈と西洋的魔術的文脈。近世の日本人黒魔術師たちの姿は、用語の二義性を鏡のように写していた。

 それは、我々が、欧米にオリジナルのある翻訳文学の中で、キリスト教聖職者を訳した「僧正」や、教会を言い換えた「精舎」といった言葉と出会ったときに起こる現象とほとんど同じことだった。キリスト教の聖職者を指し示すと知っていても、「僧正」の語から呼び起こされるイメージは、どこまでも仏教僧侶の像を引きずっている。粗末だが清潔な「僧服」をまとった「尼僧」たちの祈り暮らす「精舎」には、切り離そうにも切り離せない仏教寺院の風景が重ね合わされているのだ。

 鹿島の伴天連教団の僧侶は、異なる二つのイメージの重なり合いを具現化した姿を取っているのだという。西洋黒魔術と仏教の習合の結果さ、と簡単に口にされても図り難い。

「で、お前がいやおいに来たのは、太夫の言ってたとおり、須賀山の異変を調査するためなのか?」

 鹿島の出身は東京である。やつは、私の問いを鼻で笑った。

「まさか。それはさすがに櫻田さんの考えすぎ。この大学が気に入って進学してきただけに決まってんじゃん」

 いや、と学問に不誠実な学生にして、南蛮より渡来せし黒魔術師の末裔は、思い直したように再度否定した。

「もしかしたら、須賀山のマジックパワーに引き寄せられたのかもだな」

 夜空の天幕の下が、舞台の再会の予感に静まった。私は、ささやくように鹿島に確かめた。

「次が西野君の出番なんだよな」

「多分そう。何だったかな、そうだ、雷電」

「雷電って、江戸時代の相撲取りの?」

「いや、菅原道真とか言ってたような気がするな」

「ああ、天神さま」

 西野君からもらった演目ごとの演者が記されたチラシを、鹿島がなくしてしまったせいで、演目の詳細についてはよくわからないのである。

「あれ、池田じゃん」

 鹿島が、群衆の中に埋もれる荒神寮の先輩をめざとく見つけて、声を上げた。

年だけ成人になった小学生を思わせる小柄な池田さんは、スマホをいじくっていた。先日、寮の食堂で一緒になったときは、行かないと明言していたと記憶しているが、荒神寮には、人に対して興味を持っている人が意外と多い。鹿島もその例に漏れない。人には興味ない、と事あるごとに言いつつも、その憎まれ口を叩く相手を確保しておこうとするところには、かわいげがある。

 今日も短パンにサンダル姿の池田さんが、スマホの画面から顔を上げる。

「お、鹿島と須賀君」

「何やってんの、池田さん。来たんならちゃんと見てあげなきゃだめじゃん。西野の晴れ舞台なんだから」

 鹿島が、自分を棚に上げて池田さんを糾弾する。

「いや、俺背低くて見えないんだわ。もう西野君出ちゃった?」

 西野君の役を、誰も把握していないのである。

「多分次だと思うんですけどね」

 ちょうど、舞台上に謡いをうたう人々が静かに登場するところだった。

 鼓の音と掛け声がしばらく続いて、舞台の袖から、面をつけていないワキが登場する。薄青い衣を白い袴の上に身につけた男子学生は、西野君ではなかった。イカに似た帽子をかぶるその装束が示す役柄くらいなら、私にもわかる。身分の高い僧侶である。

 僧正が何かセリフを述べ、舞台上を横切る。舞台の左と右には、雛人形が座るような高い畳のようなものが敷いてあって、僧正はその上に膝立ちになった。

 続いて舞台の袖の薄暗がりから光の下に出てきた人影に、私は息をのんだ。

 その者は、暗い紫色の布を頭からかぶって、上半身を隠していたのである。

 かづいていた布を勢いよく床に落とすと、その下から現れたのは、長い炎色の髪をぼうぼうと背中に流した怨霊だった。菅原道真である。その面は、学究然とした静かな男のそれを去って、目を釣り上げて凄まじい恨みにねじれた顔つきをしていた。袖から舞台上へと続く欄干の上に片足を踏み下ろし、その恐ろしい面で、自分を鎮めるために静かに待ち構える僧正をにらみつける。

 鹿島が目を細めた。やつは、目が悪いくせに眼鏡を常用しない。

「あいつが道真なのかよ」

「主役じゃん。すごく朗々とした声だなあ」

「あの真っ赤なカツラ、重そうだな」

 背伸びをした池田さんが、きわめて散文的に評する。

 道真が、舞台の向かって左手の台を踏みしめ、僧正が右手の台上に、背筋を伸ばして膝立ちになると、崖の上から吹いてきた夜風が、舞台の四方の白い幣を同じ方向に流した。道真は、朱色の袴の上に、黒に近い紫の地に金色の雲が渦巻く衣を重ねて、雷の紋様の走る腰帯を締めている。篝火が黄金の火の粉を吹いて燃え上がり、能面と能装束に映る陰影を、ドラマチックに揺らめかせる。

 これまでずっと、能とは動きの少ない幽玄な劇だと思っていた。しかし、夜気の中、篝火の炎に揺れ動く陰影や、道真の炎の髪から垂れ下がる、稲妻を模した飾りが夜風に震えるさまは、とても動的なものに見えた。

 ストーリーの中で、登場人物は時として苦難に遭い、痛切な悲しみや苦悩にもだえる。もしくは、思うにまかせぬ運命を恨み、口から吐いた息を炎に変えるほどの怒りに唇を噛み裂く。一見緩慢な舞の動きには、それとは真逆の緊張の糸で注意深く律せられた激情が乗せられているのだ。

 道真は、鼓の音に合わせて、下ろせば舞台の上につきそうな、長い衣の袖を激しく振るった。鼓と掛け声は、道真の感情の起伏に合わせて拍子を変える。

 かろうじて「紫宸殿」、「清涼殿」、「いかづち」といった言葉が聞き取れた。「地鳴らし」と謡われた瞬間、道真が床をどん、と踏み鳴らしたので、思わずびくっとする。

 僧正と道真は、抜き放った剣で切り結ぶように入れ違い、平安朝の雅な宮殿に見立てた左右二つの台を激しく入れ替わる。

 千年の恨みを述べるように、笛がひときわ高く鳴いた。

『これまでなるや、ゆるし給へ』

 僧正が道真を制したのだろう。鎮められた怨霊が舞台の袖へと姿を消すと、観客席に拍手が起こった。

「あれ、もしかしてこれ、花束とか持ってきたほうがよかったんじゃね?」

 しみじみとした感動の中に浸っている私の横で、池田さんが太い声で発言する。鹿島が手を振った。

「別にいいっしょ。どうせこのあとあいつ、談話室来るし」

「だな。談話室入ってきた瞬間、疲れたーとか言って、ソファに倒れこむんだろうな」

「疲れたー」

「え?」

 私と鹿島と池田さんは、一斉に後ろを振り向いた。

 そこには、本日の主役であるはずの西野君が、スーツ姿でにこにこと立っていた。

「え?」

 私たちの凍りついた表情を見て、西野君が逆に首をかしげる。

 舞台の袖から道真が退場して、一分もたっていない。鹿島が、三人の驚愕を代表して尋ねた。

「なんでお前ここにいんの」

「なんでって……、観客席から後輩の動きを確認してたんだけど」

「西野君が主役だったんじゃないの?」

 私が声を高くして問うと、西野君はあっさり否定した。

「いや、違うよ。俺がシテの舞台はもう、去年の冬にあったし。四回生のいまはもう、後輩を指導するだけ」

「なんだ」

 私たちは、一気に拍子抜けした。

「俺が主役だった年は誰も観にこなかったくせに、舞台を引退した途端、ぞろぞろ観にきたりして」

「うるせえなあ。俺らは別にお前を観にきたんじゃねえんだよ。伝統芸能の美を味わいにきたの」

 鹿島が口をとがらせて、憎まれ口をきく。

 知り合いだと思い込んでいたのに、まるっきり別人だと明らかになったときの心臓のアクロバットは、しばらく忘れられそうになかった。

 しかし、記憶とは不思議なもので、私はいつか、道真が西野君ではなかったことを忘れてしまう気がした。もうすでに頭の中に、恐ろしい天神さまの能面をはずしてにっこり笑う西野君という、実際には目にしていないイメージができあがってしまっている。

「結局、さっきの能ってどういう話だったん?」

 池田さんが尋ねると、西野君は、仕方ないなあ、というふうに、目尻に笑みに似た皺を寄せた。

「パンフくらい読みなさいよー。あの僧正はね、もともと菅原道真の学問の師匠だったんですよ。亡霊になった道真は、雷を降らしにいまから朝廷に行くけど、自分を鎮めるために呼び出されても参内しないようにって、僧正に頼みにいく。だけど、怨霊と化した道真が、朝廷の紫宸殿の屋根の上に降り立ってみれば、二度までは断っても三度目の要請は断れなかった僧正が、道真を調伏するために待ち構えていたわけ」

「何それ、エモいじゃん」

 池田さんが、真実そう思っているのか疑わしいほど平板な口調で感心してみせた。

 鹿島が、腕時計に目を落とす。

「さあて、後片付けをする西野は置いて、俺たちは飯でも食って帰るか」

 池田さんが即座に応じる。

「いいね。どこ行く? 『あきこ』?」

「おいおい、ナンセンス! この面子であきこって終わってるっしょ」

「終わってるってなんだよ。いいじゃん。唐揚げうめえし」

「いや、終わってるって。ラーメン屋なのに唐揚げしか評価できないところが、もう駄目じゃん。しかも、あの唐揚げめちゃくちゃ油ギッシュだし、車くらい動かせるレベルじゃね」

「確かに。今度、寮祭企画に出してみる? 『あきこの唐揚げで車を走らせる』」

「散々な言われようだなあ。俺は、あきこ好きだよ」

 あきこを執拗に攻撃する鹿島と擁護する池田さんの言い争いに、私が口を挟むと、鹿島はオーバーに一歩引いた。

「お前もあきこ推しかあ。やっぱお前ら味覚ねえわ。あきこ行くんなら、俺は飯パスな」

「うるさいな。勝手にしろよ」

「いいなー。俺もあきこ行きてー。唐揚げ、談話室に持ち帰ってきてよ」

 西野君が、すねるような口調で頼んできた。

 私たち三人は、食べに行く店についてもめながら、青く透けるような夏の夜風の中を歩き出した。

 私の脳内ではまだ、夕風のなか、薪の火の粉の舞い散る闇夜に、怒り狂う天神と行き違い廻り合い対決していた僧正の姿が再生されていた。僧正は徐々に、天神寮の盆踊りで垣間見た黒魔術師としての鹿島の姿に重なっていった。


第二十二話 蓮池にて につづく

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