第22話 蓮池にて

 私は兄と、池に渡された遊歩道に立っていた。まだ朝靄の煙るような早朝で、私はひどく眠かった。

 目の前の広い池は、皿のような大きな緑の葉で一面に覆われている。重なり合う葉の隙間から、細い茎がすっきりと伸びて、その先には鮮やかなピンクの蓮の花が、朝日を浴びて匂うばかりに咲いていた。大きな蕾は、人が両手を緩く合わせたような形をしており、先端にかけて薄紅色にほんのり染まっている。

 池の向こうに、甍屋根の大きな寺が見えた。この蓮の池は、国分寺の裏手にあるのだ。兄と私は、木を接いで作られた遊歩道に並んで立って、池の蓮が風に揺られるのを眺めている。

 中学生の私は、芥川龍之介『蜘蛛の糸』の中の極楽の池の記述を思い出して、傍らの兄に尋ねた。

「極楽にも蓮の池があるずら?」

「ああ。死んだ人は、極楽の池の蓮の上に生まれ変わるんだそうだ」

 ふうん、とうなずいて、池の上に目を戻した私は、あっと驚いた。大きな葉で隠された蓮の根のほうから、泥だらけの人間の腕や顔が突き出して、もがくように動いていたのだ。

 一人や二人ではない。見渡せば、池中の蓮の根元では、泥をかぶった人々が、何とか蓮の花に上ろうと手を伸ばしていたのだ。しかし、水面下で体を引っ張られているのか、誰一人として成功しない。私は、彼らが亡者なのだと直感した。

 兄の服の裾をつかみながら、蓮華の上に生まれ変わるなんて嘘っぱちじゃないかと私は思った。

「椿姉ちゃんはどこにいるだ?」

 私は、兄を見上げてきいた。兄は、蓮池の亡者たちを見下ろしながら、抑揚のない声で答えた。

「椿姉ちゃんは、ここにはいない」

「じゃあどこにいるだ?」

「椿は、鯨に連れていかれた」


 私は、はっと目を覚ました。口の中がひどく乾いて、頭が重い。生気あふれるピンクが目の端にちらついたが、直前まで見ていた夢はもう思い出せなかった。

 うつ伏せになって寝ていた台所のテーブルには、ノートが開かれ、ビールの空き缶が並んでいる。塾で使う単語テストを作っているうちに、眠り込んでしまったのだ。

 テーブルの中央には、いつのまにやら竜胆が買ってきた、多肉植物の小さな鉢が置かれている。多肉植物は、子供の耳たぶのように、白く柔らかい繊毛の生えた丸っこい葉を生やしていた。

 何度裏切られても、無意識にふにふにした触感を期待してしまうので、手を伸ばして多肉植物の葉をつまむと、硬いと言ってもいいほどの弾力に新鮮に驚く。酔った目でぼうっと多肉植物を眺めていると次第に、蟻地獄に落ち込んでいっているような、奇妙な感覚に吸い込まれる。

 ふっくらした子供の耳たぶのような肉厚の葉が、だんだんと膨らんでくる。妊婦の腹が十ヶ月かけて大きくなるさまを、早回しで見せられているようだ。

 私は、金縛りにあったように多肉植物を凝視する。いまや分厚い葉は、得体の知れない昆虫の卵のようにはちきれそうだ。不意に怖くなった。膨張しきった薄い表皮を突き破って、ぬらぬらした異形の幼虫が、オギャア、と生まれてくるのではないか。

 なすすべもなく背をのけぞらせた私の見つめる先で、紡錘形に膨らんだ葉の表面がめちめちめち、と音を立てて張り裂ける。

 ビシャッ、と緑色の粘液を飛び散らせて、それはこの世に生まれ出た。


 私は、はっと目を覚ました。

 竜胆の買ってきた多肉植物の鉢は、なんら変わったところもなく、夜更けの静かな台所のテーブルに置かれていた。

 盆地とはいえ標高の高いいやおいは、お盆も過ぎれば朝夕はめっきり涼しくなる。窓を網戸にしていると、吹き込んでくる風で、半袖の腕に鳥肌が立つほどだ。

 私は椅子を立って、庭に面した茶の間のガラス戸を閉めて戸締りをした。ひんやりとした夜気の流れる庭には、ささやくような虫の声がした。


 家の東側、隣家の畑に面した細長い庭は、遮る建物がなく日当たり良好なことから、物干し竿を設置する場所に決めている。

 夕立が来る前にと洗濯物を回収して玄関に回ると、紫陽花の茂みに半身を隠して、背の高い僧侶が立っているのが目に入った。編み笠に黒い袈裟をまとい、草鞋を履いた、いかにもといった出で立ちの僧侶は、呼び鈴を押すべきか否か、迷っているようにも見える。

「……こんにちは」

 日の温もりを保った腕の中の洗濯物に顔を埋めて立ち止まっている私を、僧侶が振り向いた。その顔が既知のものであることに、私はすぐに気づいた。

「佐上さん」

「……晶博君」

 記憶にある姿よりも年老いたそのひとは、白い無精髭の生えた痩せた頰を微笑ませた。

「あの、上がってください。すごくおひさしぶりですよね」

 慌ただしく先に立って家に入ると、佐上さんは、私のあとに続いてゆっくりと敷居をまたぎ、何かに蹴つまずいたように立ち止まった。気配を探るように口をつぐんでいる佐上さんに、私は声をかけた。

「どうかしました? 居間にお上がりになっててください。ちょっと洗濯物片付けてきます」

 佐上佑賢は、兄木立の友人である。兄より十歳ほど年長のはずだ。僧侶は、よっこらしょ、と上がり框に腰を下ろし、草履の紐を解く。

 私は、座敷に洗濯物を放り込むと、予期せぬ客人のために冷たい麦茶を用意した。

「これ、うちのおんなしょうに持たされた漬物だに。竜胆ちゃんと一緒にあがってくんな」

「ええー、こんねんまく。ありがとうございます」

 私は、佐上さんの差し出すタッパーを受け取り、早速たくあんを小皿に取り分けた。

「佐上さんのほうのお寺はどうですか」

「おらほんとこはほう、次男に副住職を任せてるに? おんなしょうもよく働いてくれるから、住職はこうふにぶらぶらしてられるだ」

 いやおいから車で一時間ほどの志木市に、日蓮宗の寺を持っている住職は、破顔した。NHKのど自慢で流行歌を熱唱して、鳴り響く鐘の音をほしいままにしたこともある美声は、初老になっても十分往時をしのばせる。

「晶博君は忙しいずら。大学に、バイトに……。バイトは何やってるだっけ」

「塾の講師です。まあ、中高生の夏休みが終われば、一段落つきますよ」

「ほうかい。竜胆ちゃんは、どっか出かけてるだかい?」

「はい。眼科に行ってるんですよ。ものもらいができてしまって」

「そらあ大変だに」

「まあ、帰りに学校の友達のお土産を買ってくるとか、のんきなこと言ってましたけど」

「東京で寮生活か。ゴールデンウィークにもけえってきただかい?」

「いやあ、三月にうちを出てから、帰省してきたのはこれが初めてですね。向こうにいたほうが楽しいんでしょう」

「おめえさんの兄ちゃんも、盆くれえけえってきたらいいになあ。娘ほっぽって、いまごろどこ飛んで歩いてるだか」

 遠慮のない言い草に、私は苦笑するより返すべき反応を持たない。

「今日は、この辺に何か用事でもあったんですか」

「いや、おめとに渡しときたいもんがあっただ」

 そう言うと、佐上さんは墨染の袖から紺色の袱紗を取り出した。

 佐上さんから渡されたその上質な袱紗を開くと、ごく小さなステンレスのボトルが現れた。ジャムを保存するための密閉容器にも似ている。

 佐上さんの垂れ目が促すままにステンレスのボトルの口を開いた。中を覗くと、かさかさに乾いた発泡スチロールの白い破片のようなものが入っていた。

「なんですか? これは」

 無造作にボトルを振りながら尋ねた私は、返ってきた答えにぎょっとして、危うくボトルを取り落とすところだった。

「木立の嫁さんの遺骨さ」

 衝撃的な答えに、私は茫然と僧侶の顔を見つめた。


第二十三話 水神の嫁 につづく

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