VOL.2

 白状しよう。俺は歴史についてはごく基礎的な知識しか知らない。

 せいぜい、信長と秀吉がいつぐらいの人間で、徳川幕府の将軍の名前が十五人一通り言える程度だ。

『吉良・・・・とおっしゃいましたか?』

『官位で申すならば、従四位下侍従兼上野介じゅしいのげじじゅうけんこうずけのすけ

『すると貴方は、吉良上野介殿ですか?』

『左様』

 男は控えめな口調でそう答えた。

 俺は最初、頭のネジでも外れているのかと思ったが、そうでもなさそうである。

 吉良上野介義央・・・・俺のような歴史音痴でも、このくらいの名前なら知っている。

 元禄十五年(1703)十二月十四日、現代の暦に直すと一月三十日に、播州(現在の兵庫県)にあった赤穂藩の旧藩士四十七人(四十六人という説もある)に、『主君である浅野内匠頭長矩の仇を討つ』という理由で殺害された人物。

 吝嗇で冷酷で、権力欲と金銭欲の塊のような男・・・・と、まあ、稗史では伝えられている、その男の事である。

 

 しかし、今の光景を到底鵜呑みにするほど俺は馬鹿じゃない。

 考えても見たまえ。

 今からざっと三百年は前の歴史上の人物が目の前にいるなどという馬鹿げた話を、信じろという方が無理だろう。

『で?俺に何をしてくれというんだね?』

 俺はマスミの方を見て訊ねた。

『この人・・・・元の世界に帰りたいっていうのよ。だからお願い。探偵さんの力で何とかしてあげて欲しいの』

 彼女は拝むような視線を俺の方に向けた。

『バカを言っちゃいけない。俺は科学者でも、歴史学者でもない。一介の私立探偵に過ぎん。そんな俺に何が出来るっていうんだね』

 俺はまたシナモンスティックをかじる。

 いつの間にかケースの中は空っぽになっていた。

『だって、他に頼む人がいないんだもの。お願い。何とかしてあげて頂戴。』

 彼女は両手を合わせ、拝むような仕草をする。

 

 情に溺れぬことを良しとしてきた俺だが、この”他に頼む人がいない”というセリフにはどうにも弱い。

 いつもこれで煙に巻かれてしまうのだ。

 俺はもう一度白い絹の単衣姿の男を見る。

 

 彼も極めて真面目な顔付で、

『貴殿にとってご迷惑なのは良く承知しておる。だが、拙者は何としても元の世界に戻らねばならぬのじゃ。お願い致す』

 そう言って少し後ろに下がり、品の良い仕草で頭を下げる。

 

 俺は黙って立ち上がると、吉良のおっさん(今はとりあえずこう呼んでおくとしよう)が出てきた洋服ダンスを調べてみる。

 どこにも穴などない。

 何か仕掛けがあるわけでもない。

 ごくありふれた、どこにでもある、合板で出来た安物の洋服ダンスだ。

 おっさんは何故こんなものから外へ出てきたのだろう。

 もう一度丹念に調べてみた。

 すると、一番奥に、何やら落ちているのが見えた。


 手に取ってそれを調べてみる。油紙で丹念に包まれた長方形の何か、試しにその油紙を取ってみると、中からは奉書紙で包まれた書付が姿を現した。

 奉書紙の上には、

『書付之事』とあり、

 裏側には、

『左近』という名前と、『元禄拾四年・・・・(後はかすれて読めない)』と記されてあった。

 俺は戻ってきておっさんにそれを見せたところ、おっさんは、

『おお、これじゃ』と、少し感激したような声を上げ、

『間違いない。これは拙者が記したものである』と言った。

 彼によれば、寝所でこれを書いていた時、急に目の前が暗くなり、気が付くとあの箪笥の中にいたのだという。

 何でも『左近』というのは彼の通り名で、普段はこの名で人から呼ばれていたし、自分でもそう名乗っていたのだそうだ。

『疑うわけじゃないが・・・・』俺はそう言って、マスミに何か書くものを持ってこさせる。

 彼女は便箋とボールペンを持ってきて、おっさんの前に置く。

『済まないがここにあんたの名前を書いてくれないかね?』

 おっさんは何故だとも訊ねる事もなく、言われた通りに便箋に、

『左近』と書いて見せた。

 ボールペンなど使ったことがなかったので、少し戸惑った風を見せたものの、

 なかなか達筆な筆遣いである。

 

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