VOL.3

 俺は書状をひっくり返し、そこに書かれている『左近』の文字と、さっきおっさんが目の前で記した文字を見比べてみる。

 ポケットに手を突っ込み、小型のルーペを出す。

 両方を拡大して、何度も何度も確認した。


 俺は決して筆跡鑑定の達人ではないが、探偵で飯を喰っているんだ。多少の芸当は心得ている。


 5分ほどかかって、やっと結果を出した。

 どうやらこの書状を書いた人物と、目の前のおっさんは同じ人物だと見て間違いはないだろう。

 現実主義者の俺だが、これだけは信じざるをえまい。


『確かにこの書状を書いた人物と貴方は同一人物ってことに間違いはないようだな。』

『じゃあ、この人は・・・・』マスミが言う。

『本物、つまりは吉良上野介義央公だ』

『あたし、何が何だか分からないわ。説明してよ

』マスミは俺とおっさんの顔を見比べてから唾を呑み込んだ。

『それはこっちが聞きたいよ。で?この件の依頼人は誰なんだね。俺はこう見えてもプロだ。依頼を受けるためには金が要る。分かっているだろうな?』

『勿論私よ。私も探偵さん同様、困ってる人をみすみす捨てて置くわけにはゆかないわ』

『よし、いいだろう。探偵料ギャラは一日六万円と必要経費。もし荒事が起きて拳銃が必要になったら、危険手当として四万円の割増料金を頂戴する。それでいいかな?』

彼女は『ええ』といい、ハンドバッグを取ってくると口金を開けて中から財布を出し、一万円札を7枚数えて俺の前に置いた。

『今手元にあるのはこれだけよ。残りは後払いってことにしてくれない?』

 俺は黙ってその札を受取り、懐にしまうと、吉良のおっさんの方に向き直った。

『さあ、今度はおっさん、貴方です。事情の説明をこっちがして、あんたが本当のところ何をして欲しいか聞こうじゃないですか?』


 ここから先のことは、本当に無駄に骨が折れた。

 何しろおっさん(吉良上野介義央公)に、今が一体何年で、あんたはもう三百年近く前に魂だけの存在になっていることなどをかみ砕いて話さなくちゃならなかったんだからな。

 彼は最初の内、

”う~む”とか、

”にわかには信じがたい”などとうなっていたものの、結局最終的には俺の説明を理解したようだ。

 俺のつたない歴史的知識を総動員しても、確かに吉良公という人物は当時一流の知識人であり、文化人だったことが分かっている。

歌舞伎や講談、チャンバラ映画やテレビ時代劇で描かれた彼の姿は、仇を討つ側・・・・つまりは城代家老だった大石内蔵助良雄以下四十七人を悲劇のヒーローに仕立て上げるために、後の世に創作された虚像だと言ってもいいだろう。

 それは今、目の前にいるこのおっさんの姿を見て、俺にもやっと合点がいった。


『で、これからの事ですが・・・・・』俺は言った。

『吉良義央公・・・・いや、堅苦しいな。吉良のおっさん、とでも呼ばせてくれますか?』

『それでも構わぬが・・・・出来れば左近殿と呼んで頂けぬか?』

 後で聴いたところ、彼は通称『左近』といい、元の時代でも普通はそう呼ばれていたことを知った。

 なるほど、幾らなんでも”吉良のおっさん”では、あまりにも気の毒だ。

『分かりました。ではそう呼ばせて頂きます。左近殿・・・・これからどうされたいのですか?』


『乾殿・・・・』

『いや、私の事は”宗十郎”とでも呼んでください』

『私はマスミで~す』

 横からマスミが鼻にかかったような声を出す。

 おっさん・・・・もとい、左近殿は一つ咳ばらいをして、

『そこもと達の話によれば、随分拙者は後の世で悪く言われているそうな。全ては浅野殿との経緯いきさつが知られていないことが理由なのであろう。この書付には、その辺りのことを詳しく記してある。そこでこれを我が菩提寺に納めて、後世の人々に事実を知ってもらいたいのじゃ。』

『中を拝見しても構いませんか?』

 俺が訊ねると、左近殿は黙って頷いた。

 封じ目を破らないように慎重に外し、中を見る。

 見事な達筆で、巻紙に凡そ二メートル近くはあったろう。

 だが・・・・正直なところ、俺にも完全には判読できなかった。

 ただ、彼が言いたいことは、浅野内匠頭とは例の事件まで、三度しか顔を合わせていないこと。賄賂まいないの要求など、一度もしていないこと。

 従ってあの廊下における事件の時も、本当に自分が何故襲われたか理解できないことなどは読み取れた。

 俺はこう見えても探偵だ。

 これまで悪党という悪党は、うんざりするほど見てきた。

 だから大体に於いてそういう人間の面は見分けがつく。

 この左近殿はそうした悪党のカテゴリーとは無縁の人間だというのは理解が出来た。

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