世界の隅で死んでいたい
マイマイ
第一行 雨の匂い
「殺しちゃった。」
そう言って彼は、眉を下げて笑った。
悲しい笑顔だった。
今にも涙がこぼれそうな顔をして、唇は真っ青だった。
深夜の闇の中、彼の輪郭だけが光って見えた。
私は動けなかった。玄関の扉を開けた格好のまま、微動だにできなかった。
どれくらいそうしていただろうか。
気づいたら、私も彼も、冷たい雨に濡れていた。
目が開けられないほど荒く強い雨だった。
殴りつける雨粒と地に響く雷鳴が、彼の心の中を表しているようで悲しくなった。
轟々とやまない雨と涙のこぼれない彼の顔。
冬の空気を残した北風が、二人の間を通り過ぎていく。
遅すぎる再会に、想像していたような明るさはなかった。
かつて笑顔にあふれていた彼の表情も、面影だけを残して暗く染まっている。
桜の花が散る、三月二日の出来事であった。
* * *
雨上がりの冬の朝。ひんやりと冷たい風が頬を撫ぜる。
週始めの教室に、まだ登校している人は少ない。戸をガラリと開けるが中には誰もいなかった。私は自分の席に鞄と弁当を置いて、廊下の窓から運動場を眺める。
運動場脇のアスファルトを制服姿がまばらに歩いてくるのが見えた。朝礼は八時半からだ。もうしばらくすれば、騒がしくなってくるだろう。教室に誰もいないこの時間が、私は案外嫌いじゃない。いつもより早起きした日にだけ味わえる優越感が楽しい。
窓のサッシに頬杖をつく。冷えた金属の感触にはっとするが、まだまだ頭は眠い。赤くなった指先を擦り合わせてみるが、気持ちだけで暖まりはしない。はーっと吹きかけた息は白く曇った。ついこの間高校生になったばかりのような気がするのに、もう一年が終わりかけている。つくづく思うが、時間が流れるのは速い。うとうとしていては何もしないまま卒業式を迎えてしまいそうだ。
半ば目を閉じていたのだろうか、急に背中に衝撃を感じて飛び上がる。
振り返った私の目の前にいた
「急に何すんだよ。びっくりするだろ」
ニコちゃんマークのように上がった口角のまま、弥生は強引に私と肩を組む。
「いつもより早くきてるね。ミケ君」
「だからなんなんだよそのあだ名。猫かよ」
「ミケはミケだよ」
弥生は私のことをミケと呼ぶ。ミケ君だとかミケちゃんだとか、本名にかすりもしないそのあだ名で初めて呼ばれたときには驚いた。そもそも、初対面の時からミケなのだ私は。彼が私の本名を知っているかどうかも怪しい。
彼に押しつぶされるように引きずられ、席に着席させられる。向かいの席にどさりと鞄を置いた彼は、向かいに座って頬杖をついた。視線は、どこか遠くに向けられている。
人を引っ張っておいてそっぽを向く。そんな彼の自分勝手な気性に、どうしようもなく心が揺れるのは
嗚呼。美しいなあ。
細く繊細な頬の線が綺麗だ。窓から差し込んだ高めの朝日に照らされ、生毛が薄らと輝いている。生きているのか疑うほどに白い肌に、寒さからかほんのり朱が染まっている。輪郭に沿うよう整えられた丸い頭髪は、触れればきっとふわりとするのだろう。
思わず伸ばしそうになった手を叱責して、思い出したように机から教科書を取り出した。黙々と机に仕舞いながらも、目がそちらを向いてしまうのは致し方なかった。
「ねえ、そういえば」と弥生は切り出した。「永井先生はまだ怒ってるの?」
永井先生とは一年担当の国語の先生だ。隣のクラスの担任で、この間彼があまりにも提出物を出さないと言って、彼を呼び出していた。確か、先週の火曜のことだ。水曜から金曜まで弥生は学校に来なかった。
「よく知らんが怒ってるだろうな。お前あれからプリント出してないだろ」
「いや、出してないけどさあ。ちょっとぐらいいいでしょ。ちょっとぐらい」
何がちょっとぐらいだ。弥生はあまりにも学校に来ない上に今まで一度も提出物を出しているところを見たことがない。一時期は、私のいないときに出しているのかと期待していたが、よく考えてみれば彼が学校にいる間常に私の隣にいるのだから、ありえない話だ。
「なんで学校に来てるんだろうね。僕たち」
いや知らねえよ。
と、私は心の中でつっこんだ。いやに美しかろうが、弥生の言動には付き合いきれないものがある。しょうがない。
「ねえミケ。どうして学校なんてものが存在してるんだと思う?だってね、めんどくさいばっかりでしょ。ミケがいるから来てるけどね、ミケがいなかったら来ないんだよ」
私はやっぱり返事をしなかった。返事がなくても弥生は気にしない。現に、一人で話を続けている。彼と常に一緒にいると言っても、特に話を交わすわけでもない。私が返事をする以外には、弥生が一人で話しているばかりなのだ。だから私は、時折めんどくさくなって弥生の顔を眺めている。彼は声も綺麗だから、聞いている分には飽きることはないのだ。少し高めの声は滑らかで、言葉を紡ぐ様は耳に心地よい。
彼に対する私の心に名前はない。
なんて洒落た言い回しをしてみれば漱石のようだが、実際にはそれほど美しいものではない。恋慕というには甘さが足りず、友愛と言うには色が濃い。私は別に弥生と好き合いたいわけではないし、このまま、なんともつかぬ関係が続けばいいと思っている。奔放な彼に振り回され、時折抱きしめるような関係。甘やかすでも甘やかされるでもなく、薄布越しに話をするような。
片恋ではない。そもそも、恋ではない。しかし、友人でもない。友人と言うには相手を知りすぎている。恋人なんてもってのほかだ。彼と触れ合いたいわけではない。これは、全く肉欲の伴わない想いなのだ。
弥生のそばにいたいことだけは確かだ。何があろうと離れたくはない。親や周りの人間が知ったら、きっと恐ろしく変な顔をされることだろう。多様性だなんだと声高な世間は、実はそれほど寛容ではないことを、彼も私も身に染みて知っている。
世界の隅で死んでいたい マイマイ @yukimizu_mizore
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