第9話 蛾タフライ効果

 ⚠注) この物語は創作であり実在の人物、団体、国家および事件、事故、災害、疫病とは一切関係ございません。


 ****



(儂は……我は……何……?)


 それは存在が希薄となりすでにしょうを失いかけていた。

 何かと戦っていたような記憶がある。

 その薄っすらとした意識の前に現れた異形のものがあった。


(……敵……なのか?)



 ****



(シュレーディンガーの猫以下じゃないか)


 知識稔は報道番組の解説に呼ばれた専門家の意見に苦笑した。

 野分はすでにメルトダウンは始まっていると言った。今現在はメルトスルーまで進行している可能性が高いのに専門家は言を左右にする説明を繰り返すばかりだ。

 要するに圧力容器の中を確認するまでは状態は確定しないと言っているようなものだ。しかもメルトダウンの可能性には触れない気の使いようだ。


(もっとも原子炉建屋が水素爆発で吹っ飛んでも爆破弁で圧を抜いたなどという専門家ぞろいだからなぁ)

「前の車、進んだわよ」

「お、おう」


 慌ててワゴン車のエンジンをかける。

 ガソリンは貴重品となっていてアイドリング状態で待機などできなかった。


「あれって毛柱三時前けばしらさんじまえじゃないか?」


 知識稔はお笑い芸人の名前を口にした。

 給油待ちをする車列の中、知識のワゴン車の後につけた2トントラックの運転席にテレビで見知ったハゲ頭に髭モジャの顔があった。


「え? 毛柱って日本の恥、国辱芸人の?」

「そうHしたくない芸能人第一位の」


 由美が振り返って確認すると毛柱もそれに気づいたらしく髭をしごく決めポーズを見せつけてきた。


「うえっ、目が合った!」

「フロントに緊急車輌の通行許可証があるから毛柱も支援に行くのかも」

「ふん、どうせ売名行為でしょ」

「そうかもしれないけど……」


 あらゆる生活必需品が商品棚から姿を消したこの非常時に支援物資を災害地に運ぶ困難さに知識は思いをめぐらせた。

 おまけにこの先には避難区域が待っていた。

 知識稔は以前ハイヤーセルフと夢の中でかわした問答を思い出していた。

 それは知恵と知識の違いについての問いかけだった。

 考える力と記憶と答えた知識稔に対してハイヤーセルフは、


「どちらも頭の中にあるうちは同じものだ」


 そうさとした。

 目覚めたあと知識稔は深く考えた。


(どんなにすばらしい思いつきも次の瞬間にはただの知識と化す。であれば真の知恵者とは実行力をともなった者、思いを実現する能力のある者のことではないか?)


 あらためてバックミラーで毛柱を見やる。

 下卑た顔つきに男性ホルモンが強烈なのか全身剛毛のくせにハゲ上がった頭部が光っていた。


(いや、やっぱりないだろ)

「あーおぞましい。破魔矢を射ちこんでやろうかしら」


 由美は過激な拒否反応を示していた。


「そんな毛虫みたいに嫌わなくとも」

「毛虫がダメなら蛾よ、蛾!」

「うんうん、よかった。毛虫から成長したんだね」


 知識はてきとうな相づちを打った。


蟷螂とうろうの斧ってことわざがあるけど、この大震災の前には個人のできることなんて蛾の羽ばたき程度の力しかないのよね」


 うまいことまとめたつもりの由美だが知識は猛烈に連想が止まらなくなっていた。

 まず蟷螂の斧のことわざだが使われている意味は由美の言葉どおり、強者に無謀な戦いを挑む弱者のことだが、元となった昔話では少し違う。

 王の車を打とうとするカマキリに対して、


「これが人間だったら必ず天下を取る勇武の持ち主だろう」


 そう言って王は車を廻してカマキリを避けたとある。

 次に蛾だが実は蝶々との明確な違いはなく同じ鱗翅目の昆虫だったりする。

 だから蛾の羽ばたきは蝶々の羽ばたきとも言い換えられる。

 そうバタフライ効果だ。

 毛柱のそよ風にさえ劣るささやかな行動がこのあと暴風となって……。

 知識は再度バックミラーを一瞥する。

 毛柱は鼻毛を抜いていた。


(やっぱないわー)




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