第6章 閻魔の審議 その2

「しかし……」

「しかし何ですか?!」

「あの、えっと……流石に全てを渡すとなるとこちらとしてもその……不利になるのは明白でしたので、解約条件の記載書はどうしても譲れないと、それだけは保持致しました」

「解約条件のですか!? それは今?」


 絶望からの一筋の光明をノアは手にするのに必死だったため、自然と前のめりになった。


「関係書類のファイルにその……入れてます」

「それ、見せてもらってもいいですか!?」

「み……見せないと引かないんでしょう?」

「当たり前です!!」

「わ……分かりましたから、少々お待ちを……」


 ノアの気迫に押されて、オーグルは一旦席を外し、そしてファイルを持って再び戻ってくると、そのファイルを机の上に広げた。


「そ……そうですね……あっ、ありました!」

「拝見致します」


 オーグルが開いたページには確かに解約条件が記された書類が添付されており、そこには解約条件の他に、途中解約による代行費用の返金についての項目もしっかり記載されていた。


「解約には互いの役員会の決定が一致または担当者の同意が成され、解約同意書の完成により解約を完了とする……ですか。この解約同意書というのはどこに?」

「あ……ああ、それならこちらにあります」


 そう言ってオーグルは一旦ファイルを閉じ、裏側の表紙を捲る。するとそこにはポケットがあり、解約同意書はそのポケットに収まっていた。


「この同意書……オーグルさんまだサインされてないんですね?」


 解約同意書には二つのサイン欄があり、一つにはワーナーのサインがされていたが、もう一つは空欄のままになっていた。


「いやその……一応社長の同意を得てサインをしようと思いまして。でもまだこのことを社長には言えてないというか……」

「はあ、なるほど……すいませんなんかわたし、思いの外オーグルさんを追いつめちゃったようですね」


 先程社長から話を訊くとノアが切り出した時、異常なまでに真っ青な顔をオーグルがしたのはそういうことだったのかと、そこまで狙ったわけではなかったが、オーグルにとって鬼畜のような所業を行なっていたことにノアは気がつき、流石に後ろめたさを感じ謝罪した。


「いえ……よくよく考えたら解約がもう決まってしまったのに、社長に問い詰められるのが怖くて報告できない私が悪いので。もう誤魔化しようもないし……今日にでも報告します」

「……いえ、ちょっと待ってください!」

「えっ?」


 諦めムードでオーグルが解約同意書にボールペンでサインをしようとした瞬間、その腕を力強くノアは握って制止させた。


「社長っ?!」

「な……何なんですか急に!?」


 腕を握られたオーグルも、それを見ていたグロードも、誰もがノアの咄嗟な行動に声をあげる。しかしノアにとってこれは、その腕を握ったと同時に、ノアに訪れた最大のチャンスを握ったのも同然だったのだ。


「解約の条件には、解約同意書の完成により解約を完了するとありますよね。一方でこの同意書は、まだオーグルさんのサインがされていない未完成品」

「な……なるほど! つまりまだ解約は完全にされていないということですね!!」

「その通りよグロードさん!」


 そうと分かったグロードは、ノアがオーグルを制している間に解約同意書を横から取り上げた。


「ちょっとあなた達何をっ……!」

「オーグルさん、今回の解約はワーナーの完全な独断であり、ルートボエニアとしては今後とも御社との契約継続を望んでおります」

「えっ……? そ……そうなのですか?!」


 オーグルの力が抜けたのが分かると、ノアは握っていた彼の腕を放した。


「まずは弊社の意思統合が成されないままこのような事態となり、御社に多大なる迷惑をお掛けしたことを謝罪いたします。すみませんでした」


 ノアは背中から曲げて頭を下げ、その体勢を30秒くらい維持してから上げ、そして続ける。


「その上で是非とも、弊社の荷役業務の代行を続行していただけないでしょうか? 今回の契約は従来通りとさせていただきますが、わたしが見た限りこの契約には少々問題となる点が幾つかございますので、両社で話し合い、来季の契約内容を練っていきたいと思っているのですが……?」


 一通り伝えることを伝えた後、ノアはオーグルの様子を窺う。するとオーグルは肩を震わせ、大きな溜息を一つ吐いてみせた。


「契約の改善までお約束いただけるとは……こ……こちらこそ契約の続行は願ったり叶ったりです! ディストピア社長、本当にありがとうございます! よかった……よかったぁ……」


 頭を下げたオーグルはその後、極限の緊張から解放され安堵したのか、片目から一筋の涙を流していた。

 その姿を見たノアは、ここまで懸命にウチとの契約のことを思ってくれている人がいるのに、それを無下にするようなことをしたワーナーを許さんと、ワーナーを断罪することを心に決めたのだが、しかし今のノアの手持ちの情報だけでは決め手に欠けていた。


 するとそこでオーグルは実はと、自らの中で燻ぶらせていたものをノアに打ち明けることとした。


「解約書の件とは別に、ワーナーさんから伝えられて不信に思っていたことがもう一つありまして……」

「というのは?」

「その……解約後の代行費用の返金をいつもの口座ではなく、別の銀行に作った新しい口座に入れて欲しいと言われまして」

「別の銀行口座に?……まさか!」


 その瞬間、今まで個々だった情報がノアの中で全て繋がり、それは確信となった。

 今回の騒動におけるワーナーの本当の狙いが、ノアには分かったのだ。


「オーグルさんその話詳しく訊かせてもらえますか? それとワーナーが伝えた銀行口座についても」

「ええ、分かりました」


 それからオーグルはワーナーから言われたこと、別の銀行口座の情報などを詳細にノアと、そしてその隣に居たグロードに明かした。


「社長これって……」


 話を一通り聞いたグロードも流石に事の重大さと、ワーナーの目的に気づき、不安げな表情をしながらノアと顔を見合わせた。


「ええ……これは大問題よ。帰って経理部に確かめましょう」

「はい……」

「それとオーグルさん、一つお願いしてもいいですか?」


 ノアはオーグルの方に向き直る。


「は……はい、何でしょう?」

「解約条件についての書類のコピーと、こちらの解約同意書の原本をお借りしてもよろしいですか?」

「は……はあ、いいですけど。でも何に使うおつもりで?」

「決まってるじゃないですか」

「き……決まって……いる?」

「罰するためですよ……あのいけ好かない男を」


 今まで散々ノアに脅されてビクビクしていたオーグルだったが、その時のノアの表情と彼女の内から溢れ出てくる憎悪により、それまでより遥か上の、血が凍るような恐ろしさを感じたのだった。

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