第22番 音楽家の2020年

「うわ、またか……」

 僕はメールを見て思わず声を出してしまった。

 今月予定されていた公演の中止が決まった、という主催者からの連絡だった。

 手帳を取り出して十二月のページを開き、予定に大きくバツを入れる。

 今年はコンサートの中止や延期の繰り返しで、手帳にはいくつものバツがつけられ、ぐちゃぐちゃになっていた。


 2020年は、本当に大変な年になってしまった。

 音大を卒業して五年目、フリーランスのヴァイオリン奏者としての生活がようやく何とか形になり始めたところだった僕にとっても、新型コロナウイルスの感染拡大は大打撃だった。

 感染者数が収まってきた夏ぐらいからは、客席の定員を半分にすることでコンサートが再開されるようになってきたのに、冬に向かってまた感染者数が増えてきた状況を受けて、中止や延期を決めたコンサートが増えてきた。

 現時点では、来年になったら状況がよくなっているはずと断言できる材料がほとんどないのが辛い。

 来年の手帳には、消せるボールペンで予定を書くことにしている。


 僕を含めたクラシックの音楽家にとって、2020年ほど価値観の変化を迫られた年はなかったのではないだろうか。

 緊急事態宣言が出された時期、全ての舞台の予定がなくなり、外出もままならなくなった音楽家は、表現活動の場をインターネットに求めた。

 コロナ以降にユーチューブで個人のチャンネルを開設した人数は、知り合いの音楽仲間だけでもおそらく百人は超えると思う。

 僕もその中のひとりだ。

 音楽家個人の動きだけでなく、コンサートのあり方にも変化があった。

 これまでは、演奏会場に足を運んで楽しむというというのが前提だったクラシックのコンサートに、インターネットを活用して生配信をするという選択肢が加わってきた。

 現在では配信用にワイファイを使えるようにした会場や、ビデオカメラや配信機材を備えた会場などが増えてきており、今後もこの流れは加速するように思う。


 個人的にコロナ以降の変化で一番興味深かったのは、リモート演奏という文化が生まれたことだ。

 誰とも会うことができなかった自粛期間中、何とかしてアンサンブルをしたいという音楽家の熱意によって、会わずに合奏をするという新しい表現方法が開拓された。

 ただし残念ながら、現在の一般的な家庭の通信環境では、ビデオ通話サービズを使って同時に演奏をしようとしても、修正が不可能なぐらい大きな時間差が生まれてしまうため、技術的にはまだ難しい。

 そこで現状のリモート演奏では、演奏者がそれぞれ各自で撮った動画を集めて、それを後から重ね合わせて編集するという工程を経て作られる。

 たとえばヴァイオリンとピアノのふたりで演奏をしようとするなら、まず最初にピアノだけで演奏した動画を撮り、ヴァイオリン奏者はそのピアノの動画を見ながら演奏するという順番になる。

 要するに、カラオケの伴奏に合わせて演奏するようなものだ。

 ただしこの方法は、クラシックのように曲のテンポが一定ではなく、常に相手の微妙な感情の揺れを感じながら演奏するスタイルとは、相性がいいとはいい難い。

 それでも音楽家たちは、演奏をしたいという衝動を押さえることができなかった。


 コロナ以降、僕もいくつかのリモート演奏を経験した。

 大学時代の先輩に誘われて参加したオーケストラ、友人と演奏したチェロやピアノとのデュオなど。

 個人的には、ピアノとのデュオが一番楽しかった。

 クラシックの演奏家が集まって練習をするときには、一斉にせーので音を出す。

 だからヴァイオリンとピアノのふたりで練習するときにも、ヴァイオリン抜きのピアノだけの演奏を聴くことはない。

 ところがリモート演奏の場合、まずピアニストが演奏したピアノだけの動画が届けられ、それを聴くことからスタートする。

 今までヴァイオリンの裏に隠れていて気がつかなかったピアノの動きを発見することは、何度も弾いてきた曲であるほど新鮮な体験だった。


 リモート演奏は、音楽の主導権が逆転しているという点も、僕には新鮮だった。

 ヴァイオリンとピアノのデュオであれば、通常はソロの役割を持つヴァイオリンが主導権を握って音楽を作っていく。

 それに対してリモート演奏では、テンポや強弱がつけられたピアノに、ヴァイオリンが後から合わせることになる。

 お互いの呼吸を合わせることができないため、決められた型に自分の演奏を無理やり押し込むような感覚を嫌う人が多いけれど、僕はそれを嫌だとは感じなかった。

 もしも自分とは違うテンポ感や解釈だったとしても、それは自分にはない世界を広げてくれるチャンスだと捉えている。

 何人かのピアニストとリモート演奏をやったけれど、素晴らしいピアニストであるほど、ピアノの演奏を聴いただけでヴァイオリンがどう弾けばいいのかがよくわかり、そこにうっすらとメロディーが聴こえてくる感覚すらあった。

 それをヴァイオリンでなぞっていくのは、僕にとっては心地のいい体験だった。


 実は昨日も、ヴァイオリンとピアノのリモート演奏を完成させたところだ。

 ピアニストは全く面識がないドイツ人。

 ドイツ名の後ろにNaomiとあったので、日本人とのハーフかもしれない。

 動画はピアニストを背中から撮っていたので、顔を見ることはできなかった。

 コロナ以降、自宅で自粛している期間にも演奏できるようにと、有名なクラシック曲などのピアノ伴奏だけを演奏した動画をアップするピアニストが、世界中でたくさん現れた。

 そうした動画を探して、自分がやってみたい曲が見つかれば、場所や時間に関係なく、世界中の誰とでも一緒に音を合わせることができるのだ。

 コロナは現在進行系で世界中を混乱させているけれど、だからこそ生まれた新しい文化もある。

 コロナの感染拡大が収まって元通りの生活が戻ったとしても、それはただの元通りではなく、そこに新しい文化が加わり少しだけパワーアップした世界になるだろう、と僕は期待している。


 Naomiの伴奏シリーズの中から、僕はクライスラーの『愛の喜び』を選んだ。

 『愛の喜び』は、ヴァイオリンの名手でもあったクライスラーが作った、ヴァイオリンの魅力を存分に楽しめる、文字通り喜びに満ちた明るくて洒落た小品だ。

 ヴァイオリンが音楽の主導権を握っている典型的な曲で、メロディーを溜めたり煽ったり、演奏者の感性によって自由にテンポを動かすことが多い。

 本来であれば、自由に動くヴァイオリンに合わせてピアニストがピッタリと付けないといけないので、どう考えてもリモート演奏向きではない。

 彼女が何を企んでこの曲をシリーズに加えたのかはわからないけれど、僕はこの挑戦を受けてみようと思った。

 一度演奏を聴いただけで、彼女が素晴らしいピアニストだというのがわかった。

 中間部でふわっと力が抜け、甘い表情になる雰囲気も僕の好みだった。


 大体の感覚を掴んだところで一緒に演奏してみたものの、最初は全然ピアノと合わせられなかった。

 合わなかった部分を抜き出し、その解釈が完全に消化できるまで何度も弾いてみるという作業を繰り返し、演奏の精度を高めていった。

 その動画が昨日ようやく完成したので、自分のユーチューブにアップした。

 それからNaomiの伴奏動画のコメント欄に、演奏を使わせてもらったから聴いてほしいという内容の、翻訳ソフトで訳したドイツ語をコピーして、その下に自分の動画のURLを貼り付けた。

 音大を出て五年目の無名のヴァイオリン弾きの動画が、何万回も再生されるなんていうことはないだろうけれど、再生回数に関わらず、新しいことにチャレンジできたという充実感があった。


 ピコン。

 スマホがメールを受信した。

 またコンサートのキャンセルのお知らせだろうか。

 最近はメールを開くのが怖くなっていた。

 恐る恐るメールを開くと、なんとNaomiからだった。

 僕のユーチューブに乗せていたメールアドレスを見つけて、わざわざ連絡してくれたらしい。

「こんにちは。動画を使っていただきありがとうございます。ぴったり合わせてくれていてびっくりしました」

 まずメールが日本語で書かれていたことに驚いたけれど、続きを読んでもっとびっくりした。

「私のことを覚えていますか? ○○高校で一緒だった津田直美です」

 Naomiの正体は、高校の時に僕よりひとつ上の学年にいた津田先輩だった。

 あの頃からピアノが上手かった先輩は、音大に進学した後ドイツに留学して、そこで出会ったドイツ人と結婚して、今はドイツで暮らしているのだという。

 あの素敵なピアノは津田先輩だったんだ!

 その事実を知って、充実感はさらに大きなものになっていった。

 すぐに返事をしなくちゃ。

 僕の好きな曲をリストアップして、この中からぜひまたリモート演奏してくださいって伝えてみよう。


 コロナのせいで嫌な思いもたくさんしたけれど、それがなければ見られなかったかもしれない世界も見ることができた。

 そんな風に思うのは、ポジティブに捉えすぎだろうか?

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