第18番 シンプル・イズ・ビューティフル

 僕が働いているCDショップでは、閉店後にレジ閉めや書類の整理をしているとき、店内に小さく音楽を流しながら仕事をしている。

 本当は、閉店したら無駄な電気を使わないようにと言われているけれど、このささやかな楽しみは僕が働く以前から黙認されていたようだった。

 閉店後のBGMの選曲は、今流行りのさわやかなポップスだったりゴリゴリのハードロックだったり、スタッフによってまちまちだ。

 毎週水曜日、クラシック担当の僕がラストまでいるシフトの日には、落ち着いた気分のクラシックをかけることにしていた。


 十二月のある水曜日、その日は僕とクラシック担当のアルバイトの女の子のふたりで閉店後の作業をしていた。

 BGMにはチャイコフスキーの曲を集めたピアノのアルバムを選んだ。

 ゆったりとした『ノクターン』が静かに流れる中、僕はアルバイトの女の子と他愛のない話をしながら、お客様の注文書を整理していた。


「私はシンプルな暮らしがしたいんですけど、彼はそれが嫌みたいなんです」

 彼女は数ヶ月前から、大学時代に付き合い始めた同い年の恋人と同棲している。

 ふたりが住んでいる部屋は彼女が借りていることもあって、基本的に部屋のレイアウトの決定権は彼女にある。

 そのシンプルさは彼にしてみるとちょっと物足りなく質素に感じられるようで、色々と口出ししてくるらしい。

「一番長い時間を過ごす場所のことだから、お互いに妥協できないんですよね」

 この先うまくやっていけるのかなぁ、と彼女は大げさにため息をついた。

 そんな彼女の身の上話を聞きながら、僕は書類を棚に戻すついでにBGMの曲を『アンダンテ・マエストーソ』に変えて、ちょっとボリュームを上げた。


「ねぇ、この曲聴いたことある?」

 これはチャイコフスキーの有名なバレエ『くるみ割り人形』の中の『パ・ド・ドゥ』という曲を、ロシアのピアニスト、ミハイル・プレトニョフがピアノ独奏用に編曲したものだ。

 バレエの中では後半の見せ場に当たる重要な曲でありながら、チャイコフスキー自身が抜粋したオーケストラ用の組曲には入っていないので、一般的にはそれほど有名ではない。

「『くるみ割り人形』はオーケストラのCDを持ってるけど、この曲は初めて聴くかも。こんな綺麗な曲があるんですね」

「ふふ、いいでしょ。お気に入りなんだよね。ねえ、この曲のメロディ、どうなってるか分かる?」

「え、どういうことですか?」

「メロディーをドレミで歌ってみてごらん」

 彼女はBGMの演奏に耳を傾けて、メインのメロディーが登場するのを待った。

「ええと、ドーシラソファーミレドー。え、これってただの音階ってことですか? こんなに綺麗な曲なのに。すごーい!」

 彼女は両手を広げて、ちょっとおどけた風に驚いてみせた。


 『パ・ド・ドゥ』は、ドシラソファミレドと音階がただ下がっていくだけの、シンプルなメロディーがひたすらくり返される曲だ。

 そこにロマンティックなハーモニーがつき、キラキラとした音で周りが彩られると、シンプルな音の連なりだったものの奥に魅惑的な世界が広がっていく。

 少し変化のある中間部を経て、再び音階のメロディが盛り上がりクライマックスを迎える頃には、僕らは作業の手を止めて曲に聴き入っていた。


「ただのシンプルな音階が、こんなにロマンティックでドラマティックな音楽になるって凄いと思わない? シンプルと質素って違うと思うんだよね。お互いが納得できるポイントはきっとあるんじゃないかな」

 僕は注文書の束をトントンと整えながらそう言った。

 曲はクライマックスを過ぎ、静かにエンディングに向かっていた。

 何かを考えるようにじっと黙っていた彼女は、ふいにぱっと顔を上げて僕の方を向いた。

「私、今度このCD買いますから、置いといてくださいね」

 屈託のない彼女の笑顔に向かって、僕は微笑みながらうなずいた。

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