第11番 楽譜に刻印された感情の記憶

 ステージに立って客席の拍手にお辞儀で応え、それから俺はピアノと向き合う。

 俺が弾き始めるまで続く、この静寂の時間がたまらなく好きだ。

 今日のコンサートは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『月光』から始まる。

 『月光』は、いま俺が一番自信を持って演奏できる曲だ。

 一言で言えば相性がいいのだろう。

 自分の感情とぴったりシンクロしていると感じる。

 もっとも、それはベートーヴェンの真髄を理解しているというレベルの話ではなく、俺の個人的な感情がたまたま、この曲のテンションにハマっているだけだ。

 でも俺は、表現者はそれでも構わないと思っている。

 例えば、俳優が涙を流すシーンを演じるとき、ストーリーと全く関係ないことを思い浮かべて泣いていたとしても、見ている俺たちには関係ない。

 聴衆は目の前で起こっていることを、各々が思い描くシチュエーションに流し込んで心を動かしているのだから。


 指先に体の重みを伝え、第一楽章をそっと弾き出す。

 湖面に揺れる月のイメージが目の前に広がっていく。

 このホールのピアノの音色は好きだな。

 今日はきっといいコンサートになるだろう。


 俺は曲を暗譜するとき、楽譜を画像としてインプットする。

 紙の質感、自分で書き込んだ文字、ページの折れや汚れ、それらを含めて全て画像のように脳内に映し出して弾くのだ。

 『月光』の第二楽章を弾くときには、いつも楽譜についたシミを思い出す。

 昔ピアノを習いに来ていた女の子が、小学二年生ぐらいのときに俺の楽譜にオレンジジュースをこぼしたことがあった。

 第二楽章のページに、そのときの汚れが残されている。

 そのシミから思い起こされる感情は、怒りではなくて優しさだ。

 彼女は何をするにも仕草がいちいちキュートで、その姿を見ると大抵のことは許せてしまうのだった。

 あの子と一緒にいた時間を思い出すと、ピアノの響きが自然と温かみを増す。

 ああ、この曲は今日も俺の感情の起伏を全て受け止めてくれる。


 『月光』は、ゆったりした第一楽章、少し動きのある第二楽章、急速で激しい第三楽章と、楽章が進むごとにテンポが速くなる。

 第二楽章を弾き終えると、すぐにイメージを切り替えなければならない。

 俺の脳内に、第三楽章のページに残された小さくて荒々しいシミがフラッシュバックする。

 学生時代に恋人と大喧嘩したとき、彼女が振りかざしたカッターナイフを避けきれず右腕を切られて飛んだ血痕が。

 さあ、激情を解き放とうか。

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