第12番 拾ったメモリーカードにピアノの演奏が入っていた

 駅からアパートに帰る途中の道端で、僕は小さなメモリーカードを拾った。

 カメラやビデオなどに差し込んで使う、黒くて薄いプラスチックの記憶装置。

 誰かが落としたものだろうか?

 今日落とされたものなのか、もっと前からそこにあったのか、さっぱり見当がつかない。

 通勤で毎日通る道ではあるけれど、朝は時間を気にして早歩きになっていることが多いし、帰る頃には辺りは暗くなっている。

 雑草に隠れるように落ちていた黒い小さな物体を見つけることができたのは、今日は半休を取っていて、まだ明るいうちに帰ってきたからだった。


 メモリーカードを家に持ち帰り、パソコンに読み込ませてみると、音声ファイルがふたつ入っていることがわかった。

 パソコンにイヤフォンをセットして、ひとつ目のファイルを再生してみる。

 ピアノの演奏が流れてきた。

 最初のフレーズを聴いた瞬間、思わずおっと声を上げた。

 これはバッハのゴールドベルク変奏曲だ。

 僕はクラシック音楽が大好きで、部屋のラックには高校の頃から買い集めたたくさんのCDが収められている。

 中でもゴールドベルク変奏曲は特に好きで、この曲だけでも何種類ものCDを持っていた。

 音楽を専門に勉強したことはないけれど、ゴールドベルク変奏曲に関してなら、かなりの精度で良し悪しを判断できるという自負があった。


 アリアと呼ばれるテーマに続いて、それを様々に変奏した三十の部分が連なる、“音楽の父”ヨハン・セバスティアン・バッハの傑作、ゴールドベルク変奏曲。

 透明で美しい調べが、僕の耳にダイレクトに入ってくる。

 CDのような整った音質ではなく、少し広めの部屋で演奏したものをそのまま収録しているようだ。

 まだアリアを聴き終わらないうちから、これはなかなかのレベル、いや、ひょっとするとかなりの名演かもしれないと直感した。

 そしてその直感は、曲が進むごとに確信に変わっていった。

 速い変奏にはしなやかで生命力に溢れた音があり、ゆったりとした変奏には雑念が削ぎ落とされたような純粋な音があった。


 ひとつの音も聞き漏らすまいと集中していたので、三十の変奏はあっという間に過ぎていた。

 全ての変奏が終わった後、冒頭のアリアが全く同じ形で登場して曲が終わり、数秒の静寂があって再生が止まった。

 間違いなく、僕が今まで聴いてきたゴールドベルク変奏曲の中でも、トップレベルの素晴らしい演奏だった。

 あえて言葉にするならば、この世とあの世、生と死を行き来しているような演奏だと思った。

 このピアニストが誰なのかわからないけれど、これだけの演奏をする原動力がどこにあるのか、とても興味が湧いた。


 ふたつ目の音声ファイルを開いてみると、男性が語っている声が入っていた。

 それは、ゴールドベルク変奏曲を演奏したピアニストの声だった。

 彼は、この曲を収録することにしたきっかけについて語っていた。

 ある日、練習の合間に散歩をしていたとき、川べりに落ちていたペットボトルを拾ったそうだ。

 中に丸めた紙が入っていたので取り出してみると、それは病院の領収書の裏に書かれた、誰に宛てるでもない手紙だった。

 曰く、私は心の病気にかかっていて、時々死にたくなるけれども、同時に死になくない気持ちも強く、それがせめぎあうときは地獄のようなのだ、と。

 続けて手紙には、生きることと死ぬことがないまぜになった感情が綴られており、そして最後に、わかってくれとは思わないが、ただ吐きたくなったことを書いたのだ、と書かれていた。


 ピアニストは、その手紙を読んで強く心を揺さぶられた。

 でもそれが何故なのか、明確に言葉にすることはできないという。

 無理やり伝えようとするならば、世の中は生か死かの二択ではなく、そして人間はゲームのキャラクターのようなパターン化された思考をするわけではなく、また人生に正解はひとつではなく、だからあるときは生きたいと思い、またあるときは死にたいと思う姿を、何かに分類したりレッテルを貼ったり言葉で説明したりすることなく、入り混じったそのままで受け入れたいと思った、そして言葉にならない感情をゴールドベルク変奏曲に託してみたいと思った、ということを語っていた。

 彼の話を聞き終わった僕は、さっき聴いた演奏を思い返しながら、その感動をさらに深く味わっていた。

 「その感動」とはいったい何なのか、やはり僕も言葉で説明することはできないのだけれど。


 ふたつ目の音声ファイルを聞き終わり、これだけの演奏、これだけの思いが込められた大切な記録を、何とかしてピアニストに返してあげたいと思った。

 ひょっとするとこのデータは、あとで動画と合わせて編集してどこかに公開しようと思っていたものかもしれない。

 持ち主を探し出すために、この情報をツイッターに投稿して拡散してもらうということができればいいのだろうけど、あいにく僕はSNSの類を全くやっていなかった。

 そもそも彼は音声の中で名乗ることがなかったから、名前すらわからないのだ。

 もし何の手がかりもなく、この音声がピアニストの元に返らなかったとしたら、この素晴らしい演奏は僕だけしか知らないことになる。

 それはあまりにも残念だ。


 いや、でも果たして、それは本当に残念なことなのだろうか?

 演奏を聴いて心を震わせた男がひとりいた、それだけではこの曲は成就できないのだろうか?

 それで成就できるのであれば、持ち主が見つからないことは、それほど重要なことではないのではないだろうか?

 でも、もしそれで成就できないのであれば、では何人に聴いてもらえたときに目的が達成されるのだろうか?

 そもそも芸術とは、誰に何を届けようとする行為なのだろうか?

 あるいは、誰にも何も届かなかったとしても、それでも彼らは芸術を追求し続けていくものなのだろうか?

 芸術とは……。

 思いを届けるとは……。

 人間の存在とは……。

 素晴らしい演奏に接したあと特有の妙なハイテンションで、僕は答えの出ない問いかけをぐるぐると繰り返していた。


 しばらくすると、言葉にならないこの思いを何かで表現したいという激しい衝動が襲ってきた。

 でも芸術の素養など全くない僕が、どうやって?

 そうだ、手紙だ。

 僕も手紙を書こう。

 そしてペットボトルに入れて流そう、と思った。

 もとはといえば、ピアニストの元に流れ着いたペットボトルから生まれた感動だ。

 だから僕もこの感動をペットボトルに閉じ込めて、再び川に流すんだ。

 我ながら悪くない思いつきだと思った。


 部屋を見渡して、紙とペンを探した。

 机の引き出しの中から、いつどんな用途で買ったのか覚えていない、折り紙のセットが出てきた。

 これの裏を便箋の代わりにしよう。

 何度か書き損じ、赤とオレンジの二枚の折り紙に書かれた手紙が完成した。


「はじめまして。この手紙を拾ってくれてありがとうございます。僕はクラシック曲をよく聴きます。あなたはクラシックはお好きですか? たった今、あるピアニストが演奏した、バッハのゴールドベルク変奏曲という曲にとても感動したので、誰かと分かち合いたい衝動で手紙を書いています。


 でも、この感動を言葉にしようとは思いません。喜びも苦悩も生も死も、色んな感情があって、ひとことでは説明できないからです。だから僕は、ありったけの折り紙を紙吹雪にしてペットボトルに入れました。僕のいまの気持ちは、ここにある全ての色です。あなたにとってのラッキーカラーが見つかりますように。


 この手紙を拾ってくれてありがとうございました。どうかお元気で!」


 僕は、何日か前に飲み干してそのままにしていた、ミネラルウォーターのペットボトルを手にとって、ラベルを剥がした。

 そして、手紙を書いた赤とオレンジの折り紙をくるりと丸めて輪ゴムで止め、その中に入れた。

 それから、残りの折り紙をハサミで細かく切って紙吹雪を作り、できるだけたくさんペットボトルに入れた。

 色とりどりの紙吹雪が入ったボトルメールが完成した。

 人の目にさえつけば、何かを感じた誰かがきっと拾ってくれるはずだ。


 僕は自転車に乗って、近くにある川に向かった。

 川に到着すると、一番水面に近づけるポイントまで行って、ペットボトルを川に投げ入れた。

 狙ったところには落ちなかったけれど、何とか引っかからずにプカプカと進み、流れが少し急になっているところで、泡に吸い込まれていった。

 僕が見ている間には、視界に浮いてくることはなかった。

 川底に沈んじゃったのかな。

 あの泡の奥が、どこか遠くの世界と繋がってたら面白いのに。

 もし誰にも読まれなかったらちょっと残念ではあるけれど、でも気持ちはすっきりしていた。


 自転車で帰りながら、色んなことを考えた。

 最初にペットボトルで手紙を流した人は、元気に暮らしているだろうか。

 あなたの言葉は確実に届いて、素晴らしい芸術が生まれましたよ。

 やっぱりあの演奏は、たくさんの人に聴いてもらうべきだな。

 アパートに帰ったら、晩御飯を食べる前にツイッターのアカウントを作ろう。

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