第10番 道端でその女性とばったり会った

 ひさしぶり、と彼女は言った。

 俺の頭の中で、その声がずっとリフレインしている。

 確かに彼女は、ひさしぶり、と言った。

 その振る舞いからは、わざとらしさや不自然さは全く感じられなかった。

 それに対して俺は、上手く動揺を隠せていただろうか?

 びっくりしたよ、何でここにいるの? という返しは、我ながら悪くなかったと思う。

 あの瞬間、俺はあらゆる記憶の引き出しを、ものすごい勢いで開けていた。

 おそらく俺と同世代の三十代前半、同い年じゃなければ、せいぜいひとつかふたつの差だろう。

 でもどうしても、彼女のことを思い出せなかった。

 いや、見覚えがない女性だった、という方が俺の気持ちに近い。


 俺はいま、彼女に誘われてワイン・バーに向かって歩いている。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 記憶力に自信がないせいで、はっきりと断れない自分の性格を恨んだ。

 ああ、うん、そうなんだ、と適当に相槌を打ちながら、彼女との繋がりを必死に探り出そうとする。

 どうやら俺たちは、タメ口でしゃべってもいい関係のようだった。

 幸いなことに彼女はおしゃべりで、ほぼ一方的と言っていいほどしゃべり続けている。

 仕事のこと、飼っている犬のこと、面白そうな雰囲気で語るけれどそれほど面白くない話、などなど。

 ただし内容は現在か近い過去のことばかりで、関係を解き明かすヒントは出てきそうにない。


 ワイン・バーに入ってカウンターに座った。

 彼女は、俺が好きでよく飲んでいたというワインをオーダーしてくれた。

 俺はこの店に、彼女と何度か来たことがあるらしい。

 白ワインがふたつ運ばれてきた。

 ひさしぶりの再会に、乾杯。

 俺たちは旧知の友達同士に見えているのかな?

 しまったな、ワインの正確な名前を聞き逃してしまった。

 単語の断片を頼りに素早くメニューを探してみる。

 あった、多分これだ。

 《トレッビアーノ/ヴェルディッキオ/シャルドネ》


 俺はワインのことはよくわからない。

 だから、彼女の思い出の中にいる俺が俺自身じゃなかったとしても、そいつがワインに詳しいとは思えなかった。

 だって、そいつも俺には違いないんだから。

 くそ、俺はいったい何を言っているんだ。


 ワインを味の良し悪しで好んでいたのではないとすると、名前に惹かれるものがあったんだろうか?

 霧のようにぼんやりとした記憶を必死にたぐる。

 《トレッビアーノ/ヴェルディッキオ/シャルドネ》

 そうだ、オペラが好きな俺は、このヴェルディッキオという名前が、イタリアの作曲家、ヴェルディに似てるよねと言っていたような気がする。

 カウンター席のこの木の感触。

 そうだ、俺は機嫌がいいときは、ヴェルディのオペラ『椿姫』に出てくる『乾杯の歌』を、このカウンターでまあまあの大声で歌ったことがあったような気がする。


 ひとつずつ、ゆっくりと思い出のカプセルが取り出されていく。

 そうだ、君と一緒に『椿姫』のオペラを観に行ったことがあったよね。

 《パリの高級娼婦ヴィオレッタと、青年貴族アルフレードの身分違いの恋の物語》

 ほんの一時期だけど、俺たち付き合った時期があったっけ。

 《彼の父親から別れてくれと頼まれたヴィオレッタは、理由を告げずにアルフレードとさよならする》

 君に振られたのが悔しくて、記憶から完全に消し去ってしまっていたんだ。

 《不治の病に侵されていたヴィオレッタは、日に日に弱っていく》

 君はドラマや映画の登場人物に、すぐ感情移入してしまう性格だったよね。

 《真実を知って駆けつけたアルフレードの腕の中で、ヴィオレッタは静かに息を引き取る》

 オペラを観ながらハンカチを握りしめて号泣している君の横顔は、美しかったよ。


 ワインには記憶が宿っているっていうのは、本当だ。

 一口飲むごとに、あの頃の思い出が蘇ってくる。

 ああ、懐かしい。


「ほんと、懐かしいね。このワインがきっかけでヴェルディのサポーターになって、一緒にJリーグの試合を観に行ったものね」


 えっ?

 サッカー?

 オペラじゃなくて?

 ヴェルディって東京ヴェルディのことなのか?

 じゃあ俺の記憶の中の人は誰?

 君は……誰?


 抑え込んでいた感情が、マグマのように噴き出そうとしていた。

 そのとき、店の入り口の方から、あら、という声が聞こえた。

 混乱したまま振り向くと、女性がこちらに近づいてくる。

 整った顔立ち、背が高くてすらっとした体型。

 ひょっとすると、ファッションモデルか何かをしている人かもしれない。

 彼女の友達だろうか?

 しかし、親しげなオーラをまとった女性は、間違いなく俺に向かって歩いてきた。

 ざわざわと胸騒ぎがする。

 彼女は俺の目の前で立ち止まった。

 俺の脳は完全にフリーズしていた。


 ひさしぶり、と彼女は言った。

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