第8番 夕方の空に響いたフルートの音色
コン、コン、コン。
僕は、イベントの控室として使っている、事務所の奥にある休憩室のドアをノックした。
「どうぞー」という声を確認してドアを開けると、衣装から着替え終わったyucaさんが荷物をまとめているところだった。
「yucaさん、今日はありがとうございました。音響のミス、すみませんでした」
僕は感謝と申し訳なさが入り混じった気持ちで頭を下げた。
ジャンルを超えて活躍する人気フルート奏者のyucaが、僕が企画したイベントに出演してくれた。
このブッキングを実現させたことは、僕がイベント企画の仕事をするようになってから一番の大仕事だったと言ってもいいだろう。
もちろん、同じ音大を卒業した後輩からの頼みだったから来てくれたのは間違いない。
でもそれを差し引いても、今あちこちのライブに引っ張りだこで、人気歌手のサポートミュージシャンとして何万人という大きな会場でも演奏しているあのyucaさんが、山の上の広場で行われる小さなお祭りに出てくれたのは、奇跡に近いことだった。
夕方から始まったyucaさんのライブは、演奏、トーク、パフォーマンス、お客さんの雰囲気、最初から最後まで、ただただ最高だった。
ロック調の激しいオリジナル曲、クラシックをアレンジしたお洒落な曲など、人気の曲を惜しみなく盛り込んでくれたセットリストも嬉しかった。
野外のイベントで一番心配な天気も、暑くもなく寒くもない、秋の一番気持ちいい気候になってくれた。
ライブが始まったときにオレンジ色だった空は、曲が進むにつれて青や紫が混じってきて、複雑な色合いで刻々と変化していく。
残念ながらバンドを呼ぶだけの予算がなかったので、ステージ上はyucaさんひとりだったけれど、美しい空をバックにyucaさんだけを見ていられる時間は、かえって贅沢だと思った。
「音響のことは、全然気にしてないし大丈夫だよ」
yucaさんが気を遣って言ってくれてるんだと思い、僕はもう一度頭を下げた。
音響を担当していた僕が、ある曲のときに違う曲の伴奏を流してしまい、それでパニックになって操作を誤ってしまったのか、再生装置が動かなくなるというトラブルがあったのだ。
yucaさんはとっさに機転を利かせて、フルートだけで短いソロを演奏して場を繋いでくれた。
「むしろ、あの時間が今日一番幸せだったかもしれないな」
確かにあのとき、焦りながらステージを見上げたら、yucaさんは突然訪れた自由時間を楽しむように、空を見ながら気持ちよさそうに演奏していた。
「yucaさんが演奏してくれていたおかげで、本当に助かりました。あの曲は何ですか?」
「ヤコブ・ファン・エイクの『イギリスのナイチンゲール』っていう曲。もともとリコーダーのための曲なんだけどね」
ヤコブ・ファン・エイク……名前だけは聞いたことがある。
バッハが生まれるよりも前に活躍していた、すごく古い時代の作曲家だったはず。
大学のときに音楽史の授業で習った気がするけど、曲は聞いたことがなかった。
それにしても、普段のyucaさんのステージでは絶対やらないようなクラシックの曲だったから意外だった。
「意外だって思ってるんでしょ? わたしね、今はポップスの活動が多いけど、演奏家としての理想は《自然になる》ことなんだよね。風が吹いて木の葉がカサカサ揺れる音。川の水が石にぶつかりながらちゃぷちゃぷ流れていくる音。虫や鳥が自分たちの季節や時間になると鳴く声。わたしのフルートもそうなりたい。《自然のような音》じゃないの。《自然そのもの》になるのが理想」
遠くを見つめるような目でそこまで言うと、yucaさんは僕の方を向いて、ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だけど、大きなスピーカーからガンガン流れる激しい音楽も好き。色とりどりのスポットライトを浴びるのも好き。人間が造った人工の美しさや楽しさも大好き。でもそれって、いつか壊れて無くなってしまうかもしれないじゃない? だからわたしは、楽しめるものを楽しめるうちに楽しんでおきたいの」
僕は何も言えずに話を聞いていた。
「『イギリスのナイチンゲール』、久しぶりに人前で吹いたけど、結構覚えてるもんね。わたし一瞬、客席のことを忘れて《自然》になろうとしてた。本当に今日はありがとう」
yucaさんは荷物を持って立ち上がり、ドアに向かった。
やっぱりyucaさんはすごい人だな。
お見送りを終えて会場の事務所に戻った僕は、ペットボトルのお茶を紙コップに注いで一口飲んだ。
そうだ、さっきは感動のあまり何も言えなかったけど、あとでお礼の連絡をするときに一緒に返事をしておこう。
「わたし、ナイチンゲールになれてたかな?」っていう質問に対する答え、「もちろんYesです」って。
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