第7番 放課後の音楽室からモーツァルトが聞こえてきた
音楽準備室でミニテストの採点の準備をしていると、音楽室からピアノの音が聞こえてきた。
ほう、今日は野村のモーツァルトが聞けるのか。
野村エリは二年生だけど、この中学校で一番ピアノが上手い。
彼女は一ヶ月前にこの学校に転向してきたばかりだから、まだ親しい友だちはいないようだ。
時々、放課後にひとりでピアノを弾いている。
彼女が九月に転校してきてすぐ、放課後にピアノを弾いてもいいですかと聞きにきたので、僕が音楽準備室にいるときでも気にせず弾いていいよと伝えている。
今日はモーツァルトがBGMで採点がはかどりそうだ。
でもこの演奏、何だか妙にひっかかるな。
あれ、このモーツァルトって確か……。
そうか、ひょっとして野村って。
僕はたまらず音楽室のドアを開けて、彼女が弾き終わるタイミングで声をかけた。
「野村はさ、転向してくる前どこにいたんだったっけ?」
「東京です」
「うん、東京だよね。それは知ってるんだけど、本当はどこから来たの?」
「え?」
「質問の仕方が悪かったかな。野村は……いつから来たの?」
一瞬ぽかんとした表情をした後、質問の意味を理解したようで、彼女はぱっと顔を伏せた。
床を見つめる顔が小さく左右に揺れる。
彼女が何かに迷っているときの仕草だ。
「じゃあ、先生から先に言おうか?」
下を向いていた顔がほんのちょっと持ち上がりかけて、でもすぐまた下を向いた。
自分から言うつもりはないようだ。
この場合、ちゃんと規則を守っている野村が正しい。
「僕にはしゃべっても大丈夫だよ。当てずっぽうで言ってるわけじゃないんだ。だって、モーツァルトが教えてくれたんだから」
モーツァルトというキーワードを聞いて、彼女は視線が合うところまで顔を上げて、ちらっと僕の顔を見た。
ひとまず話は聞いてくれるらしい。
野村が弾いていた曲は、モーツァルトのピアノ・ソナタ第十一番。
このソナタの第三楽章は『トルコ行進曲』と呼ばれている有名な曲だ。
彼女は三楽章の『トルコ行進曲』だけじゃなくて、一楽章と二楽章も習ったことがあるようで、楽譜を見ないで全曲通して弾いていた。
僕がひっかかっていたのは、この一楽章と二楽章だった。
何箇所か、僕が昔から聞き馴染んできたのとは違う弾き方をしていたのだ。
まず一楽章で、メロディーのリズムが違っているところがあって、あれっと思った。
二楽章も冒頭のメロディーの音が違っていて、さらに決定的だったのはその後。
中間部の短調になるところを、長調で弾いていたのだ。
実は第十一番のソナタは、第三楽章の一部をのぞいて、長い間モーツァルトの直筆譜が行方不明だった。
一楽章と二楽章の直筆譜が発見されたのは、2014年になってからだ。
そして、モーツァルト自身によって書かれた楽譜には、これまで使われてきた楽譜とは違っている箇所が見つかったのだ。
二楽章の中間部が長調になるのは、このソナタのもっとも大きな変更点だった。
本来の意図に戻されたバージョンは、新しい「原典版」としていくつかの出版社から販売された。
2020年現在、この新しい「原典版」での演奏はまだスタンダードとは言えないけれど、それを中学生が弾いていることに何の問題もないし、不自然さもない。
ただし、それが2020年であれば。
いま、僕と野村がいるのは、2013年。
このソナタの直筆譜は、まだ発見されていないのだ。
僕も野村も、未来からやってきた人間だった。
彼女は優等生だから、過去へタイムトラベルする前に必ず受けないといけない歴史や国語のテストを、しっかりやってきたんだろう。
普段の生活の中では、言葉や振る舞いから未来を匂わすことは一切なかった。
ただ、ピアノは僕も盲点だったな。
「指が覚えている記憶は、そう簡単に直せないもんね。多分、野村は僕よりもちょっと未来から来てるんじゃないかな? 僕は2020年からだよ」
「私は……2035年です」
僕は黙ったまま、うん、うん、と頷いた。
「2035年は、もうみんな新しい原典版で弾いてるんだろうね。おかげでいいものを聴かせてもらったよ。ありがとう」
「私がしゃべったこと、絶対に誰にも言わないでくださいね」
「もちろん。僕だって条件は同じだからね。じゃあ、僕は準備室に戻るね」
野村は、はいと言って軽くお辞儀をした。
音楽準備室に帰りかけた僕は、ふと気になって振り返った。
「野村、これで安心して明日から僕に未来の話をしにきちゃダメだからね。気をつけてね」
「はい、気をつけます」
「それと、これは特に大事なことだから絶対に守ってほしいんだけれど」
野村の顔が少し緊張する。
「東京オリンピックの結果は絶対に僕に言わないこと。元の時代に帰ってから見るのを楽しみにしてるんだから」
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