第6番 三人でクラシックのCDを聴いていたときに起こった出来事

 僕がまだ独身で、両親と実家で暮らしていた三十代前半のころ、いとこの美佳が友達を連れて遊びに来ていた時期がある。

 友達はともえちゃんといって、美佳と同じ会社に同期入社した同僚だ。

 ともえちゃんがクラシック音楽に興味が出てきたということで、僕がクラシックのCDをたくさん買い集めていることを知っている美佳が、何か聴かせてもらおうと、ともえちゃんを連れてやってきてたのだった。

 聴きに来るといっても、スピーカーの正面に座って黙って鑑賞するわけではなくて、お茶も飲むしおしゃべりもするし、時には音楽そっちのけで話が盛り上がったりするような、ゆるい会だ。

 どんな話をしていたのかは、今となってはあんまり覚えていない。

 僕はひたすら、ふたりの会話をうんうんへえと頷きながら聞いていたような気がする。


 そんなゆるい集まりだったけど、今でも鮮明に覚えているワンシーンがある。

 その日は、弦楽オーケストラの曲を聴かせることになっていた。

 ふたりを部屋に通してから最初に、チャイコフスキーとドヴォルザークの「二大弦楽セレナーデ」が入っているCDをかけた。

 チャイコフスキーの弦楽セレナーデは、その冒頭部分がテレビ・コマーシャルで印象的に使われていたのでふたりとも知っていたらしく、始まったとたんにえらく受けていた。

 それから、少し珍しいのも聴いてもらおうと思って、バッハの『フーガの技法』を弦楽オーケストラに編曲したものが収録されているCDをかけた。

 『フーガの技法』は、チャイコフスキーやドヴォルザークのように、ぱっと印象に残るようなタイプではなかったから、自然と音楽はBGMになっていて、おしゃべりがメインの時間になっていた。


 このCDの最後に入っていたのは、オネゲルというフランスの作曲家の『交響曲第二番』だった。

 「交響曲」というタイトルだけど、弦楽オーケストラのための作品だ。

最終楽章である第三楽章のラスト一分間だけ、トランペットが一本加わっている。

 第二次世界大戦の最中に作られた曲で、三つの楽章全てが、苦難や絶望、戦いの雰囲気に満ちている。

 しかし第三楽章のラスト、緊張感を保って進む弦楽器の上にトランペットが賛美歌のようなメロディーで重なり、苦しみからの開放の予感を示して終わるのだ。


 僕はこのトランペットが出てくるところが大好きで、ふたりにもぜひ聴いてもらいたかったから、三楽章が始まる前ぐらいから鑑賞のムードを作っていくために、ふたりの会話が途切れるタイミングを見計らって、この曲の説明をしはじめていた。

 そして、いよいよ三楽章のラストでトランペットが出てきたとき、ともえちゃんが小さく「えっ」とつぶやいた。

 そして、声にならない声でもう一度「えっ」と言うと、両手で顔を覆って静かに泣き出してしまった。

 僕と美佳は突然のことに呆気にとられ、ただ黙って見守るしかなかった。

 曲が終わっても、ともえちゃんはしばらく泣いていた。


 ようやく落ち着いたともえちゃんが、ぽつりぽつりと話してくれた。

 ともえちゃんには「ヒカリお兄ちゃん」と呼んで慕っていた、三つ年上のいとこがいたこと。

 ともえちゃんが高校三年のとき、ヒカリお兄ちゃんがバイク事故で亡くなったこと。

 ヒカリお兄ちゃんは大学の吹奏楽部でトランペットを吹いていたこと。

 ヒカリお兄ちゃんが大学生に進学してから、よく一緒に遊ぶようになったこと。

 ともえちゃんが遊びに行くと、必ずといっていいほどトランペットで吹いていた曲があったこと。

 曲名を尋ねると「これは俺のテーマ曲、ヒカリのテーマだ」と言っていたこと。

 今、そのヒカリのテーマが聴こえてきたからびっくりしたこと。

 トランペットだけでしか聴いたことがなかったら、初めて本当の曲を聴いて感動したこと。

 ともえちゃんがまた少し泣きながら話すので、僕も美佳も一緒に涙ぐんでいた。


 僕には「ヒカリお兄ちゃん」が言ってた意味がわかる気がした。

 きっと彼は、オネゲルの交響曲第二番が大好きで、トランペットの役割もよくわかっていたんだと思う。

 トランペットが表しているのは一筋の希望の光で、それを自分の名前と重ね合わせて「ヒカリのテーマ」と呼んでいたということだろう。

 ひょっとすると、いつかこの曲を演奏したいという夢を持っていて、密かに練習を重ねていたのかもしれない。

 僕は、そんなことをともえちゃんに伝えた。

 悲しさ、寂しさ、嬉しさ、懐かしさ、まとめられないたくさんの感情が、ゆっくりと流れていった。

「紅茶を入れてくるね」

 そう言って僕は立ち上がり、CDプレーヤーの電源をそっとオフにした。

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