第5番 久しぶりに会った友達と名曲喫茶に行った
いつもひとりで行くこの喫茶店に、友達を連れて入るのは初めてだった。
店に入ると、チャイコフスキーの弦楽セレナーデが流れていた。
僕たちは、僕がいつも座っているカウンターの右端からふたりで座った。
ここはいわゆる名曲喫茶と呼ばれる、クラシック音楽を聴くための喫茶店だ。
今でも「私語厳禁」を貫いている昔ながらの名曲喫茶も残っていると聞くけど、ここは特にそんなこともなく、いつもお客さんは普通におしゃべりをしていた。
久しぶりに会った友達と昼飯を食べたあと、僕のいきつけの名曲喫茶に行ってみようよという流れになったのだった。
「ここはリクエストもできるんだ。何か聴きたい曲あったらマスターに言うよ」
「俺、クラシック全然わかんないからいいよ」
いやいやいや、と右手を顔の前でひらひらさせて彼は笑った。
弦楽セレナーデは第三楽章が始まっていた。
「さっきと同じ話になるけどさ、一緒に暮らせばいいじゃん」
「うーん、いずれはその方がいいんだろうなとは思ってるんだけどね……」
今日は昼食のときからずっとその話題だった。
彼は高校の頃、母親と大喧嘩をして家を飛び出し、それ以来絶縁状態になっていた。
本当は大喧嘩なんていう簡単な事情ではないけれど、ここではあまり詳しく書かないでおく。
ところが先日、実家の近くに住んでいる彼の姉から連絡があり、母親が会いたいと言っているということだった。
これも詳しくは書けないけれど、仲直りして実家に帰ってきてほしいということらしかった。
(仲直りという言葉もちょっと違う気がするけど、ここでは便宜上、そういうことにしておく)
彼自身、年を経て母親に対する思いが変わってきているようだったし、まだ独身で、実家からでも職場に通勤可能、傍から話を聞いている分には、彼が決心さえすれば何の障害もなさそうな、いい話に思えた。
店に流れる音楽は、弦楽セレナーデが終わって、スメタナのモルダウに変わっていた。
会話をひとしきり楽しんだあと、僕たちは店を出た。
店を出て歩きはじめたとき、僕は彼に言った。
「やっぱり家に帰ってやりなよ。マスターも応援してるってさ」
「えっ、マスターも? マスターとは何も喋ってないよね?」
「僕ぐらい常連になると、マスターが言いたいことがわかるんだよ」
実は、会計を済ませて店を出るときに「只今演奏中」というプレートに立てかけられたCDをチェックしていた。
それは、スメタナの交響詩『わが祖国』だった。
『わが祖国』は全部で六曲からなる連作で、最も有名なモルダウはその第二曲目だ。
演奏は、ラファエル・クーベリック指揮のチェコ・フィル。
クーベリックはチェコが生んだ偉大な名指揮者だ。
しかし彼は、第二次大戦後に共産化したチェコスロバキアに反対して亡命、そのままチェコ国外で活動を続け、七十二歳で指揮活動を引退した。
その後チェコは、1989年に起こったビロード革命によって民主化を達成。
翌年の1990年、クーベリックは「プラハの春」という伝統ある音楽祭に招待された。
指揮者を引退して六年、そして実に四十二年ぶりに祖国の地に降り立った巨匠との歴史的なコンサートの記録。
それが1990年のクーベリックとチェコ・フィルの『わが祖国』なのだ。
マスターはおそらく、長い年月を経て再会するという境遇を重ね合わせて、この曲を選んでくれたに違いないのだ。
僕の説明を聞いた彼は、しきりに感心していた。
それから一ヶ月ぐらい経った頃、彼からメッセージが届いた。
実家で両親と同居することにしたという。
今住んでいる部屋の契約もあるので、少しずつ荷持を実家に移しながら、完全に実家で暮らすのは来年からということだった。
彼が家を飛び出すまで使っていた勉強机がそのまま置いてあったそうで、その写真も送られてきた。
僕は机の上に何かが置かれていることに気づいて、写真を拡大してみた。
そこには、クーベリックとチェコフィルの『わが祖国』のCDが置かれていた。
あのときマスターは、本当に僕の想像通りの思いでモルダウを選んだのか、結局確かめていないからわからない。
でも、それはもうどうでもいいことだ。
クーベリックのモルダウに背中を押されて、二十年ぶりの生活をリスタートさせる人がいる。
それだけは確かなのだから。
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