第4番 チャットで仲良くなった女の子にクラシックCDをプレゼントした
大学生二年生の時、チャットにはまっていた。
夜な夜な見ず知らずの人が集まるチャットルームに顔を出し、ものすごい勢いで流れる会話に必死にくらいついて文字を打つ。
チャットルームは不思議な空間だ。
年齢も職業もわからない、性別すら本当かどうか怪しい、ハンドルネームしか知らない人たち。
でも、だからこそ、相手が発する言葉だけを手がかりに、色眼鏡なしで相手のことを受け入れられる。
僕はそんなフラットな関係性が好きだった。
チャットルームで気が合いそうな人ができると、個別にチャットをすることもできた。
僕はヒカリンという女の子と仲良くなり、一対一のチャットをするようになった。
僕が仲良くなれるぐらいだから、ヒカリンはチャットルームでは人気者だった。
僕は、頭の回転が早くていつも元気なヒカリンと、他愛もない話をしているだけで充分楽しかった。
ヒカリンとは一度だけ会ったことがある。
夏休みにヒカリンに会うために、大阪から名古屋に日帰りで行った。
もう今となっては、どこに行ってどんな話しをしたのか、はっきりとは覚えていない。
唯一覚えているのは、僕がヒカリンにクラシックのCDをプレゼントしたってこと。
僕がクラシックをよく聴くっていう話題を出したとき、ヒカリンが私もクラシックを聴いてみたい! って言って、それでCDをプレゼントするよっていう流れだった気がする。
僕が選んだのは、ヴァイオリン小品集、ピアノ名曲集、それからワーグナーのオーケストラ作品集という三枚だった。
それぞれのCDには、おすすめしたい曲があった。
ヴァイオリン小品集はエルガーの『愛のあいさつ』、ピアノ名曲集は、シューマンの歌曲をリストがピアノ用に編曲した『献呈』、ワーグナーの作品集は『ジークフリート牧歌』。
多分CDを渡すときに、ヒカリンに「この三曲はおすすめだから絶対に聴いてね!」ぐらいの念押しはしたと思う。
『愛のあいさつ』は、イギリスの作曲家エルガーが、後に妻になるアリスとの婚約記念として作った曲だ。
『献呈』は、シューマンが最愛の妻であるクララとの結婚直前に、彼女に贈ったラブソング。
つまり僕は、ヒカリンのことが好きだった。
その気持ちを、ものすごく密かに伝えようとしたのだった。
でも、『愛のあいさつ』も『献呈』も短くて聴きやすく、クラシック初心者にも人気が高い曲だから、純粋に最初におすすめするクラシック曲として間違ってはいない。
その中に、二十分近くかかる『ジークフリート牧歌』を入れておくことが、僕の小さなこだわりだった。
この曲は、ワーグナーが妻のコジマの誕生日を祝うために作られた。
コジマにばれないように自宅に音楽家を集め、サプライズで演奏されたそうだ。
コジマはとても感激し、その日のうちに何度も繰り返し演奏されたと言われている。
僕が渡したCDの中に、作曲家から愛する人へ贈ったという曲が二曲だと、もしかしたら、たまたまだと思われるかもしれない。
でもそれが三曲だと、そういう意図で選んだのだと確信してくれるんじゃないか。
もちろん、僕にはその意図を口で説明するような勇気はなかった。
「おすすめだから絶対に聴いてね!」は、僕の精一杯の勇気だった。
表面上はクラシックのCDを渡しただけだから、変な空気になることもなく、ヒカリンとは楽しくおしゃべりをしてバイバイした。
その日のあとも、チャットルームでヒカリンと会えばいつものように他愛のない話しをした。
CDのことを聞くことはなかったから、聴いてくれたかどうかはわからない。
聴いてくれたとしても、曲の解説までは見なかったかもしれない。
あれから特にリアクションが変わったとは感じなかったから、やっぱり密やかすぎるメッセージには気づかなかったんだろうと思う。
夏休みが明けて大学が始まると、段々と忙しくなってきてチャットルームに行くことが少なくなった。
ヒカリンに対する好意は変わらなかったけど、かと言って粘着して追いかけるような感じでもなかったから、チャットから足が遠のくとともに、いい思い出のままフェードアウトしていった。
今は、そのさらっとした付き合い方もチャットの楽しさだったなと思う。
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