第42話 ニャンの二十一の一 茶虎

 我が名を名乗ったことがあったのかどうか、いくら考えてもよくわからぬが、そういえばあの時は確かに名乗らなかったとそう覚えている。確かあれは辛い峠道のようなものを上っていた時であったと記憶しているが、それはあのひしゃげたカエルのかれたくさにおいが鼻の奥に染み付いたあの夏を髣髴ほうふつとする暑い日であった。。

 あの時やっとのことでたどり着いたそのとうげの茶屋のようなところで俺を出迎えてくれた猫は、虎の模様の茶色の奴で茶虎と呼ばれてそれを誇りに思って自らもそう名乗っているのだと言った。

「お主の顔はここでは見慣れぬが、お主は何処どこのものだ」

「俺か、俺は旅をしている一介のネコに過ぎぬ。それにしても 、はあ、疲れた」

「ほう、股旅またたび者か。峠の坂道、誠にご苦労であった。うちの茶屋の裏へ行けばうまい食い物があるぞ。ところでお主はなんと名乗る」

「あ、いや、はて」

「なんだ、名は無いのか」

「いや、名など要らぬ長物。まあ、あって困るものではないが、お主が茶虎ならば、見るからに私はこの黒曜だ。そうだな、クロを通称としてくれればそれでよい」

「そうか、名は無いとおおせだが、ではクロ殿でよいのだな、分かった。ところでクロ殿は何処どこからやってきたのだ。この辺りでは見かけぬ漆黒しっこくではないか」

 折からの風が棚田たなだの緑の稲の葉裏をひるがえしながらその上を吹きわたっていく。俺はすうっと深く息をして脳裏にし方を振り返った。

「ああ、俺は生まれてこの方、ずっと彼方此方あちこちを放浪しているからな。おおかた西の方からやってきたのだ」

「そうか。ほれ、この国はどこもそうかも知れぬが、あれに見える田畑は見るからに美しくきれいであろう。ヒトどもはまことに勤勉よのう」

「ああ、ヒトは勤勉だな。だが、いったいどうして田の話なんだ」

「それがな、俺の知り合いにヒメと言う娘がいたんだがな。来る日も来る日もみんなで一緒に畔道あぜみちを駆け回っては田んぼでよく遊んだものさ。それが、その可愛かったヒメが急にいなくなったと言うことになって、大騒ぎになったんだ。それで幾日いくにちも幾日もみんなでずいぶん探し回ったのだ。すると友人のサスケが或る 人伝ひとづてに聞いたと言うんで、それを教えて言うには、実はヒトに殺されて食われちまったらしいと言うんだ。で、俺らがヒメに遭うのは決まって田んぼだったって訳なんだよ」

「そうなのかい。見るところ飢饉でも何でもなさそうだが、何とも可哀想なことだ。どんな事情があったのかは知らぬが、ヒトには逆らえぬとあって、それは如何どうともし難き処だな」

「だが、ヒメを食った後ヒトどもは一応弔とむらってくれて、その上、埋葬まいそうまでしてくれたらしいんだ」

「ほう、それも何ともいぶかしい話。だが事情は不明ながら、ヒトにしては見上げたもんだ」

「それが、どうやらヒメの腹から出た虫に問題があったらしいんだ」

「ほう。そうか、腹の虫か。腹の虫がおさまらぬとは言うがな。だが、腹の虫がおさまらぬ犠牲者となったその相手に、よもや弔いや埋葬までは行うまい。と考えると旱魃かんばつはらいやまじないの為の御供ごくうででもあったのか。俺の腹にも虫の一匹や二匹、いや千匹ほどはいそうなもんだ」

「何と、もはや千匹とは。それはもしやお主ご自身の腹黒さを指してそう言ってはおるまいか」

「いや失敬、しかし実は正しくそうなのかも知れぬ」

 私はこれまでの来し方についてふと思った。

「だが、そのヒメの方とはどう言った娘だったのかい」

「そりゃあ、こうスラっとして器量よしの別嬪べっぴんさんさ、控えめで賢くってな、色んなことを教えて呉れもしたさ。何の罪もない、うっ、うっ」

「そうかい、そうかい。それは本当に惜しい事をした」

「うっ、うっ、悔しくって仕方がないよ。今でもそのヒトどもを恨んで居る」

「そうか。いや、それは聞き捨てならぬが、そのヒメとおおせのお方は、本当にその腹の虫に耐えかねて食われたとでも言うのかい」

「ああ、そりゃあ違うねえ」

 低いどすの利いた声でそう言うと我々二人に割って入って、薄汚れたネコが近づいてきた。

「クロ殿、こいつがサスケだ」

 私は無言で少しだけこうべを垂れた。

「おう、クロ殿か。お主見るからに風来坊ふうらいぼうだな、この辺りじゃあ見かけねえ姿だな」

 サスケは薄汚い割には引き締まった体に鋭い目つきをしている。

「ここじゃあチョイと何なので、あれに見える寺に場所を移そう、その前に腹ごしらえだ」

 茶虎はサスケを伴って茶屋の裏手へ私を導いた。涼しい、うまにおいのする場所だ。

「どうだい、これは店で出されたヒトどものイワナの食い残しだ。ほら、幾らでもあるぜ」

 そう言うと茶虎はそのうちの何尾かを私によこした。サスケは勝手を知っているらしく、私を見て食えよと目で合図してくる。

「空きっ腹には大変ありがたい」

「実はな、サスケとも話しているんだが、ヒメちゃんを掘り返そうと思っているのさ」

「うっ」

 私は魚の骨を危うく咽喉のどに詰まらせそうになった。

「どうしてまた、そんなことを。そして、それを今しがた見知りあったばかりの風来坊の俺に」

「いや、何。つまりは俺たちでとむらって遣りたいのさ。ヒメちゃんはヒトどものもんじゃねえ」

「そうだな。俺ら野良とは違っているとは言っても、如何に飼い猫とは言えだな。ヒメは明らかに俺たちの仲間だ。勝手にさばかれて埋められるなんざ、どうしたって納得は行かねえな。もう、三日ほどは経ってるからな、早くしねえと」

 どうやらサスケは表に出さない激情を胸のうちに秘めているようだ。

「それがな、是非とも今晩中に決行したいんだ。場所も判ってる、あの寺の裏庭さ。応援してくれるかい。いや、是非にもお願いしたい、クロ殿」

 今晩と聞かされて吃驚びっくりしたが、クロ殿と呼ばれて、俺は急な話に目を白黒させたかも知れない。

「今晩と言うのは如何にも急だが、それに渡りに船と言うのでもないよなあ。だが、こんな接待を受けて嫌とは言えない。よし、分かった。船ではなく、話に乗ろう」

 そう答えながらも、俺は自分でも何とも奇妙な不思議な感じに囚われた。

「いやあ、旅のお方、話が早い」

 サスケはハクモクレンの映える碧空そらを見上げながら、苦み走った低音でそう言った。

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