第26話 ニャンの十四の一 皴枯れ声と戯作者の1

「あら、まあ、かわいい」

 我がこのただ黒いだけの汚れた毛皮をめてくれる花売りのような娘がいた。後で知ったのだが彼女は元来、吃音きつおんがひどく、多分に悩んでいた節があった。このため若い頃、言語学者について、スペインの平原の歌を歌いながら、発声発音のレッスンを受けていたらしい。すると過度の練習がたたって、皴枯しわがれ声が身に染みて常なる声となってしまったようだ。

「あら、本当」

 連れの金髪が上っ調子に応じたが、言葉とは裏腹に嫌なものを見る目つきで、薄汚れた野良を見るが早いか眼をらした。つまりは私が気鬱きうつまま石畳いしだたみに寝そべっていたところ、上の方から不意にその甘い皴枯れ声が振り掛けられたのだった。私は薄目うすめにその女性を認めたが、不躾ぶしつけにも奴は洒落しゃれた薄手の襟巻えりまきを左手ででながら、私をまたいだままこちらの顔をうかがうと、歯を出して微笑んだ。私は初見のこの人間をどう扱うかについて様々に考えをめぐらして、結果、眼を閉じた。 

「眠いのかしら。疲れているのかしらね」

 皴枯れ声が言った。ただ眠いだけだ。まあでも、指摘のように多少なりとも疲れているのは確かなのだろう。

 私は長旅を経て、つい先週末にこの街に辿たどり着いたばかりなのだ。

だから、実際のところは放っておいて欲しいのだ。

「ぼろ切れみたいで、ちょっと可哀そうよね。ちゃんと食べているのかしら。それとも年老いているのかしら」

 放っといてくれ。私はこうして街中にあるテムズ河畔の喧騒の中に身を置いてはいるものの、もうしばらくは独りを楽しみたいのだ。

「あら、この子、どうやら放っておいて欲しいと言ってるみたい」

 何と、金髪は私の心の声が聞けるのか。

「でも、この子、この辺りでは新顔よね。うちへ来ないかしら。強引かも知れないけれど、ちょっと連れてこうっと、よいしょっと」

 皴枯れ声は言うが早いか、ひょいと私を持ち上げた。私の心の声を聴くことができる友人が言うことには耳を傾けず、如何どうにも無理やりだ。放っておけと言うのが分からぬのか。私はその居心地の良い腕の中からするりと抜け降りた。しかし渡りに船と考えて、その女の2人連れの後を付いて行くこととして、ててくてくと歩いた。

「あら、やだ。逃げたかと思えば付いてくるのね、何てかわいいの」

 やがて皴枯れ声は森の手前で金髪と別れると、薄暗い小径こみちに入った。

何やらじめじめとして、時折薄日が差すものの、空までもが今にも墜ちてきそうなほどに低い。

其のまま奴に続いて古びた木の扉を潜った。

実に質素で殺風景さっぷうけい調度ちょうどである。くだんの絵描きのものとさして変わらない。

思わずネズミのかぐわしい臭いと染み付いたヤニの臭いとが鼻をいた。

「ねえ、お腹空いていないの、ニャンコちゃん」

 奴は南の大きな窓を開け放ちながらそう言ったが、どう見ても毛皮でない服を着けたおぬしの方がガリガリだ。

腹が空いているとすれば、それはガラガラ声のお主の方に違いあるまい。

そう思う間もなく奴は煙草たばこに火をつけた。

私の前であるにもかかわらず、着けている服を脱ぎ始めたではないか。

ネコと思っての狼藉ろうぜき失礼 千万せんばんと思いきや、

「昨日の残りだけれど、はい、どうぞ」

 奴は下着のまま、煙草片手になべを台所から持ってくると、その鍋底なべぞこに残った肉のかたまりを皿に出してくれた。

有難いことこの上ない。

出逢であったばかりの薄汚れた放蕩ほうとう猫に、自分の今夜の食い扶持ぶちを分け与えてくれる皴枯れ声に感激して、ニャンと一声上げたのち、私はわき目もふらずに肉の塊にかぶりついたのだった。

「どう、おいしいでしょ。私は食べてきたから、お一人でどうぞ。じゃあ私、ちょっとシャワーを浴びて来るわね」

 それからと言うもの、私はテムズ 界隈かいわいをテリトリとして、その辺りのネコどもと付き合っては交流を深めた。

 そののち私はその女が死ぬまでのほんの僅かな30年ほどの短い時間を共に過ごし、また、彼女は私以外に家族の一人も持つことも無く、その半生を掛けて私を愛玩あいがんしてくれた。

 さらには愈々いよいよ自分が死ぬと言うときになっても、その後の私のことを心配してくれた。

 私は有難くも可哀想かわいそうなその魂を食うて落してやった。


 かわいいと言う その口の持ち主の うるわしみ魂 

ネコの抱きて


「ねえ、あなた。この辺りでは見かけないネコだけれど、あなたは何処どこから来たの」

 ガラガラ声は時に私の黒い毛皮を念入りに洗いながら、こんな野良ネコに向かって様々な問いを発した。

答えを得る事はほとんどどできなかったものの、それでも私の毛並みには丁寧なブラシングを行い、私を何処へでも連れ歩いた。

 奴はのちには出版界で編集として活躍した。

このものの性格のゆえかどうか、社会的な貢献や成功とは裏腹に私生活は洒落た日除ひよけ傘とスカーフ、色眼鏡いろめがね以外は万事ばんじ地味で質素しっそひかえめであった。

「それにしても、私は年を取るのに、あなたはぜんぜん変わらないのね。ホント不思議」




 

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