第18話 ニャンの九の二 伊助と魚

 また、狂いネコの話も耳にした。

それらのネコたちは全身を引きらせながらうつろなる眼を半眼に開き、ついにはせさらばえた身でまなじりを決し、海を目指して一目散にネコ突撃とつぜんし、二度と戻ることがなかったらしい。

おおきな手がそれを抱き留め、命の根を断ち切ってやって初めて、この艱難かんなん桎梏しっこくからのがれることができると言うことででもあったろうか。

このネコ御供ごくう何故なにゆえに海を目指し、或いはまた然様さように思い定めたのかについては定かではない。

或いはすべてのけがれを洗い清めようとしたのかどうか、それも不明である。

 既にしてうれいもなくただ只管ひたすらに神の御許みもと、仏のふところへとかえっていくのみなのかも知れぬ。

言わばその様なまぼろしとびらくぐって、あちら側におもむいたともがらがいたのだ。

周りの連中がそうしてて行く中、迫り来るあしおとおののきながらおのが身の成り行きについてはこれも見守るよりほかはない。

果たして伊助の番であった。野良のネコがその辺りのわずかにくさった魚をあさらうのは茶飯さはんの事であった。

小なる塵芥じんかいが魚やネコに積み重なっては小にても大なる害毒を為したのには違いなく、正しく世間には小さき弱きものどもへのご利益などはなしという、明々白々たることわりを思い知らされた。

 水盤すいばんの美しさでは何処にも引けを取らぬ静かなしずかな内海うつみがまずは我が同胞はらからみ込み、次いでヒトを呑み込んだ。

何時の頃からか豊饒の海は汚泥おでい充盈たされ、地神、水神とともに死んだ。

ネコも狂った身体、置き処の置き処の無くなった躯躰からだをして誰を責めるのでも、その罪科ざいかを問う訳でもなく、理不尽りふじんなる身内みぬち怒濤どとうしずめるためか非ずか、冬の海にじゅんじたのである。

風のうわさに異変の兆候にはネズミも参じていたとは聞いた。

 何かが少しずつむしばまれ、皆がじわりじわりとられたのである。

奴らの常套じょうとうである。

皆の味方の振りをしたお調子者の仮面連中、或いは見えざる敵ででもあったのか、それとも実のところ、矢張り味方の裏切りであったのか。

食うためなら命をつなぐためなら、の世のものは泥でも木石でも何もかもが我らにとっては食い物。

毒饅頭どくまんじゅう何処どこにでも転がっているというが真理まことか。

早晩、おのれも誰かに喰われる。

それは決して悪い事ではない。

ただおのが身が毒饅頭に非ざることをこいねがううのみ。

 て、毒饅頭にあたり、或いは中ることなく死んだ奴らは何処どこをどう彷徨さまよっているのか、千切ちぎれてあまねく在るのか、自らに思い及んだ途端に地に宙にかたよって在るのか。

それとも地平や水平に準じ、また時に応じるのか。

小気味よい風の吹き抜ける何処かで揺蕩たゆたただよいつつ、明け暮れを果たしているのか。

それとも矢張り何処どこにもいないのか、或いは交信 隔絶かくぜつせると噂に聞く別の宇内うだいへとおもむいたか。

それとも正真しょうしん寂滅じゃくめつしたのか。

此方こなたの宇内で魂を落とすことの意義は如何に。

魂も命も善悪の境もない原初げんしょ混沌こんとん極微塵ごくみじんの姿で風流一体として彷徨さまようとして、果たしてそれは我らが本分と相成あいなるのかどうか。

 この、ついちょっと立ち寄るべき岩体を為すこの場所に奴らがこだわる要もないが、立ち寄ったとて長居する要もない。

早いがところ、立ち去るにかずと、次なる当て所を探り歩くやからも多い事であろう。

彼らはまた何処かで思いを果たし、他の者どもの恩を以てこれに報いることもなく、只々ただただおのずから以て養われるのみの事であろう。


 五月雨さみだれ狭霧さぎりさびしき桜庭さくらば

   早緑さみどりあわ然為さなりけるかな


 天高し  き光満ち来たり

   風吹かば行け 河やぐらん


 地に潜む 虫や土竜もぐらの吐く息に  

   ハリエニシダのとげかぐわ


 て、この重狂おもぐるおしくも軽やかなる風が全体何処から吹いて来るのか。

宇内うだいれものの中のふちよりきたるのか、宇内にある大岩の奥底からの破風はふがこの容れものの外延がいえんよりあまねく湧いて出てくるのか或いは入るのか。

当ても当て所も無いのが本来であるが、然様に広大にして狭小なるこのネコの宇内を無一物むいちぶつにして漂白ただようが大方の風や風流、或いはネコその他のものどもの魂魄こんぱく欠片かけらの総てであろう。

それらはもしや此処より出て行くにはあたわずや。

 先ほどの我が尿いばりも地にみたが、はてて何処へ行ったものやら。

我がこの身内を吹き渡り流れて行く水や風、光や時は正しくネコの私という一点に於いてこの各各の一期いちごに巡りいを果たして去っていく。

決して止まる事もさかのぼる事もない。

だがそんなことは如何どうでもよい。

かつて生き、死んだ猫どもの中を流れた水も時間もまた私に宿ったのだ。

はてひるがえるでもないが、魂は如何どうであろう。

水や光に同じか。

流転るてんこそは回帰すべくも止まる処もない命の原初混沌げんしょこんとんか。

破れ砕け、千切れた魂は流れ流れて海の底に沈潜し、億千年の先に光の下にあらわれるのか。

 今日は照らされ食う身ながら、明日は闇にくらわれほうむり去られる身、いっその事阿呆のように総てを忘れ去って踊り狂いながらネコ突撃し、われてしまえば本望か。

さてその魂魄はこの次は何処の誰に宿るのか、むのや休むのか。

迷妄めいもうながらに散心さんしんし、やがて煩悩ぼんのうき、魂をいで落として平安を得、ほうれる果てには知らず浄化も果たされよう。


 箒星ほうきぼし来て流離るり流転るてんまたかえ

   時は流れずさおし得ずと


 魂魄の哀れ我が身に浮沈無し  

   身濯みそそ弥陀みだの眉間より入る


 桜花散りてし後の宴にて

   枯老木ころうぼくのみ在るぞ可笑おかしき


 石清水いわしみずのどうるおい無きに

   身雪みすすぎの身の命尊し

 


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