第16話 ニャンの八の三 ネコ描きとネコ

 ネコの私をそのように考えていたのかどうか、去るものまたかえる、の外に無し。といった至極当然のことも言っていた。

あらゆるものは事事に天地あめつちの間から悉皆しっかい天と地へと還らざるはなし。

或る時にはもりの木木の内を流れ、空を渡って万象ばんしょうの額をらし、或いはにわか坊主の如き我々ネコやヒトの固唾かたずともなり、また血汗となっては何ものかを運び、ついには海に還る水のように。

遠来、何時いつの間にか地平水平を占め、何処どこぞの一隅いちぐうを充たしては去っていく空のような、無のような、醸成されては雲散霧消うんさんむしょうするの繰り返し、ありしらみのみも我らもまた同じ。

 やつ如何どういう訳か、時に多年の留守を事とする私を優しくぐうした。

帰還の度に迎え入れ、しょうじ入れてはこの我がネコ如きに素っ気なく慳貪けんどんにもされたが、その度毎のネコが同じ私なのかといぶかるように、吸い込むような薄暗いうろのような瞳で私を見つめた。

その様にして未だろうたらざる若々しい私の戦歴を刻み付けた鎧兜よろいかぶとならざる毛皮とひげ、更にその精悍せいかんとを写し取った。

「お前は好いな、姿貌すがたかたちさながらに、自在に、風流ながらにただ生きることがすなわち生きることだ。

ヒトというものはそうも行かぬのが厄介やっかいな処、生きるのに少なからず理由が要るのだ。

ただ風の吹くまま、流れる儘という訳には行かぬ」

 なるほどヒトとはそういうものか。

「それゆえ何につけこだわりにとらわれ、よしなく生きるあたわず、在るが儘とは行かない。

結局、我我は死ななければ風流風雅ふうりゅうふうが寂静無為じゃくじょうむい、自由自在とはならぬ」

「ふっ、ふっ、ふにゃっ」

「ふっ、かわいいくさめだ。

俺は絵描きだが、絵が売れぬゆえ俺のこの作務さむ作為さくいはヒトの世に問う仕事とは相成らず、従って所謂いわゆる世間的の絵描きではない。

本来絵は腹の足しにはならぬ。

従って、仮に俺の自尊を守りつつ画業を続けていくとすれば、かたくなにも王にさえおもねらない俺にとっては、俺の絵が売れぬ事の根源的な、正当な理由が要るのだ。

その理由が明らかとならなければ、そしてそれに俺が納得できなければ、天籟てんらいたるのこの作務さむを止めるわけにもいかぬ。

しかしまた一方、絵の売れぬ俺は生きて食うために、常々気の進まぬ儘にお前たち同様、生きものの本分とも言うべき殺生を、狩りをせねばならぬ」

「・・・、うぬ、それはもしやマーケティングではござるまいか。しかもあの反吐へど目眩めまいもよおすあの絵ときたら。しかも神を絶したいと来ているが、広い世には求むる向きもあるやも知れぬ」

 残念にも、私の思念は奴には届かぬ。

「人間一般は殺生という仕事を、いわば生じてしまった罪悪感を骨抜きにすることで日々これを繰り返して生きている

これはお主らには無用の作業だが、従ってそのためには我々は殺生そのものを正当化せねばならぬのだ。

天地あめつちの恵と言い換えて己の心を納得、安堵あんどさせ、殺生そのものに心を煩わすことなく、言わば無心にというより虚心坦懐きょしんたんかいに日々殺生を繰り返して食を為し、これによって生きている。

本来我我生きものにとっては殺生こそが即ち生きる道なのだが、我々にとってはそうでなくなって久しい。

ヒトはほかの動物のようには生きられぬのだ」

「・・・」

「本来はどのような事についても、何にせよそのような意味や理由など要らぬ筈のものなのだが、要らぬと分かった上で、自ずと湧き立ってくるそれらの料簡や邪見の欲求を敢えてし殺して生きているのだ。

然らば我が画力に見切りを付けて坊主ともなり、神仏に縋ろうとも考えたが、所詮しょせん下衆げすなるこの身の救われよう筈もなく、僧籍そうせきに止まる事もままならず、逃げ帰って来た始末、無為こそ有為ういというのが難しい」

 良く分からぬが、なるほど、ヒトとはいかにも面倒で厄介ないきものだ。

「お前は日々殺生を生業なりわいとはしながらも、それらへの執着しゅうちゃくも何もなく、邪念じゃねんからも自由でいられるがゆえに、解脱すことなく覚悟もなく日々殺生しながらも、言わば知らぬ間に涅槃ねはんに達しているかの如きだ」

「・・・」

「俺は只の人間だが、それにしてもお前はまるで俺の前にそびえ立つ一個の岩壁のようななにものかだ。

いわく言い難く、猫としか言いようがないが。

個と言えど、名など無し。

俺の足下では多くの小さきものたちが鬼の仲間入りを果たしてきたが、お前も此処ここにいる限りは同じだ。

名は要らぬか、要らぬ長物か。

いや、それは単なる呼び名に過ぎん。

個を際立たせるものでも、区別の為のものでもない。

ところでお前のその瞳に宿る虚無きょむは如何だ、俺如きには到底、忖度そんたく不能、透見とうけんくせぬ深淵だ。

姿貌すがたかたちしのびの如く、眼は世捨よすての虚無こむが如きだ」

 奴にとって私は名さえもない哀れな野良ネコだが、或いはこの哀れな絵描きよりは多少の自由がありそうだ。

奴の長命ちょうめい真自在しんじざいとを願うとともに、奴の言うその理由をついに見つけざらん事をこいねがう。


 悩み無し ネコかんばせぬる間も

   ネコの尻尾を ネコ見けるらし


 描きつつ 筆の止まらぬ夜更よふけにて

   ネコをついでに 月を選ばむ


 月輪に羂索けんさく懸けて 月にネコ

   深山の月に 仏すむかな



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