第14話 ニャンの八の一 燐火

 私が幼い頃この黒い毛皮を身包みぐるがされそうになった時の事、ヒトというけがれに囚われ、虚空こくうに無為の眼を見開いたことがあった。

下衆げすどもの戯論けろんの末なる悪童の悪戯いたずら慰戯いぎでもあったことであろう。

しかし感謝すべきことには、結果的にこれが皮肉にもわが命を救ったのである。

我々は猫である無しにらず、また何かの因果在りて或いは因果なくこの時空にほういだされ、其々それぞれに内的意識を為すに至り、そのうちに次の場所へ追いられる。

くいう私も何時だかここへやってきたが、それはもう随分と昔の事である。

その幼き日の私が野辺から里へと辿たどり着き、わずかばかりの知己ちきを得始めた頃の話。

 土塊つちくれを食うや食わずに日溜ひだまりに休んでいると、小僧どもの誰ぞやが骨と皮のこの哀れな子ネコを喰らおうとは言う。

あわれ子ネコの命は風前を去らず消え入る灯か、早くもたましいの旅に出立しゅったつするかに見えた。

神の御慈悲おじひか、悪魔の憐憫れんびんいなか、見るからにむごたらしい骸骨の外観は食の欲をぐには充分であったろう。

此奴こやつは喰うべき肉も何もないという結論に達したようであった。

しかるにまた一難、毛皮をぐ剥がないの話になった。

薄汚れた皮を剝いで骸骨をさらしてみても洒落しゃれにもなるまい。

終いには瀕死ひんしの子ネコはそのままるされる事となり、首括くびくくりかと思ううちに尻尾しっぽを括られた。

小僧どもが何を考えたか、そのうちの一人がするするとかたわらなる柿木を登ると、その高い枝に我がこの子ネコをわえ付けた。しばらくは藻掻もがいたのだが、そのうち、あわれなやつ、可哀想かわいそうなやつだという言葉を聞くうちに気を失った。

 どれほどの時が経過したかは知れず、気づくと辺りは赤赫あかあかと燃えている。

目の前の家屋はきしみ音をててはかしぎながらに燃えている。

背中の毛がげたか、言いようもなく熱い。

空しくも宙を足掻あがいてき疲れ、乾涸ひからびた声を燐火が耳にしたらしかった。

済んでのところで運よくひもが千切れ下草に落ちたところを燐火に拾われた。

里の山火事が村々に襲い掛かった天風の大火にあった時の事である。

私をくわえて逃げ惑った燐火が言ったのを印象的に覚えている。

「まことに、あのほむらに包まれて死ぬるなんざ、ぞっとするほど怖いやね。でも、その本当の怖さを知りたければ、試してみなければ判らないな。あれやこれや案じるのみでは何も判らない。ここで外から見るには怖いが、あの中ではさてどうだか。それを知るにはどうしたらよいか。かと言って、その中に飛び込んで行けるものでもない。あんたは火焔かえんまれず、全く運がいいよ。それにしても焔なるものとは全体、何者なんだろう。つかみ処がないくせに、くばかりに私たちを根こそぎ焼き尽くしてしまう。抑々そもそも、何だって火があるんだ。私たちニャアさあ、如何したって扱いきれないね」

 以下は後年燐火が言ったのか、誰が言ったのか判然せぬものの、思い付くままに書き連ねてみる。

 まずもって思い及ばぬものの、火焔の中で死ぬるものが刮目かつもく叫喚きょうかんするのかどうか。しかしそのいとまもないのが実際であろう。ただならぬ状況の中では気も息もむことであろう。灼熱の中、命のついえ行く圧巻のはかどりを押し止められぬまま、自在なる死を死ねぬ事であろう。死にきれず、見事たる身と心の滅却は果たし得ず、この世の虜囚とでもなり行くのか。結局我と我が身とは生きて焔へ近づくあたわずと。生きつつ死ぬるのはことわり無き相談、焔とその内に在る己が肉とを一に見るのは全く以て難しき事。果たして真の理は判じ得ぬと。

 しかり然して彼是かぜ世世よよの継ぎ目の事どもを、両の世から見ることで果たされるべき問いへの答は別の世に持ち越すも、敢えて行うに果敢はかなし。

晦渋かいじゅう一方ひとかたならぬ生死のさかいはこれを見究みきわむるに難ありて、或いは背反しあい膠着こうちゃくしては分かち難きものとなろう。

死の中に生があり、いや死の中にこそ生あれとはるは言葉の悪戯あそび、しかし如何いかな生にも死のにおいがまとわり付くは生死がまさしく我々において事の表裏をなすと言うべき事の道理。

 ネコのひげ一一いちいちが突如としておのが命を終えてこのかんばすを去るが如くに、我らが生きつつ死ぬるのは事の道理。

即ち死はつかず離れずして常に付き纏いては突如、その鎌首かまくびもたげる。

我らが払い除けるべき火の粉と死の影とは、一つ大いなる火焔によるもののみに非ず。

目に見えぬ微塵みじんの如きむしが我らに取り付いては、これを喰い尽くす。

て、如何いかんせん。


 赫赫とつべき焔 常世とこよなれ

  ネコの目と手に観る息もなし


 命跳びつるに さいの河原とは

  わら褥床しとねに星ぞ流るる


 天風てんぷうを口に入るるに精気なし

  餓鬼がきわらいて我が肉喰らう


 初めて目にした火焔の大きさも然ることながら、逃げ惑った挙句に見た累々たる死屍の為す景色の印象と、煤煙の臭いだけが身と心と息とに染み付いた。

あらゆるものを焼き尽くすほどに猖獗を極め、夜空を煌煌と照らす恐ろしくも美しい夢のようなものでもあり、その光景は果たしてネコ一匹の脳の髄の隅々にまで隈なく焼き付けられた。

その晩のうちに燐火の老いたる母猫をはじめ、如何に多くの同胞はらからやヒトどもが均しく冥く果て無い冥土へと旅立ったとは聞く。


 夜焔やえんち べては夢へ土塊つちくれ

  明けてうつつの 太平が原


 風波かぜの そらよりきたる心地しつ

  幾度いくたびか超ゆ 破天はてんが嶺を


 天地あめつちに 骨牌こっぱいべてとむらわん

  たけつはもの 天翔あまがけん間に


 ネコの心許こころもとない足をしてくも遠い時空の道程をけ抜けしめたことは正しく驚嘆にあたいしはしまいかと、時に自讃的ながらの思いをこの脳裏に揺蕩たゆたう一千年の幾山河いくさんがせもする。

猫ですら斯くもながらえば、若き日の昔より今に至る不死なる奔馬ほんめの如くに千里をめぐり、百万地を踏み破り流離さすらうこととは相成あいなるのである。ヒトの命の歴程は知らず、どの誰もがくの如き破れ猫が斯様かようなる生き様を為すなどとはつゆほどにも思うまい。


 韋駄天いだてん百歳ももとせけぬべし

  足手にまとう 物のの露


 脚折れの彼の地の猫の思い出に 

  一夜をいこえ 数多あまた御霊みたま


 星尽ほしづく夜 天の終わりの果てへ往く

  真白ましろきまでの 貝の殻虫からぬし


 赫赫あかあかし よろず邪鬼じゃき瀰漫つ鬼の空

  たま尾羽おばねの燃え尽きて

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