第11話 ニャンの六 月の雫

 いつの間にか地を占め群がり居る小さき者ども、その中に高鳴きすとりも震え思案す仕種しぐささながらに駆け出すものあり。

やがてその目途めどを達せぬままに或る朝早い目覚めの途端に泡吹き事切れ、くらい熱情のうちに絶命するもうべなり。

幾千年を立ち尽くした巨樹のままに或る晴天の下、霹靂へきれきこれあり、突如として火焔かえんに包まれ孤高の立ち往生おうじょうを遂げるが如き入定もあり。

地鳴りとともにくずれ行く山山も、山容の崩壊を為すが如き鳴動、或いは火焔を噴く山も様々にあるもまた然り。

刹那せつな久遠くおんつづまる処ヒトの世には在るものに非ず、しかして畢竟ひっきょうヒトの感得すべきものにあらず。

小さき人智を峻厳しゅんげんする烈風れっぷう酷寒こくかん極北きょくほくつる大絶壁にまず立ち向かい、軟肌やわはだぎ身を砕くものの足早に此の世を過ぎ、明日をも知らぬはまれなるも、またからざる無し。

 休息の機会ははなはだだ短く、ネコには青息あおいき吐息といき溜息ためいきいとまもないが、あの世へ渡るには刹那せつなぎらねばならぬ時空のうねりを差し渡すかけはしの如き狭間はざまがあるとは言う。

其処そこでは一旦、身も心も無と化すことが要件であると言う。

身のみを殺ぎ落して無と化してもあの川は渡れぬとは万太郎爺のいであるが、さて、うそまことか。

身も心も脱落して絶無ぜつむしては、如何いかに本来無とは言え、抑々そもそものところ渡っていくべきものが無くなってしまう。

渡るべき無の者どもが行列を為しているとは言え、一体何が行列を為し、何が時空をよぎっていくのか。

魂というものが曲者くせもので、これが薄汚れていればその濁りの部分が関所の間隙かんげきに引っかかって通り抜けられぬものかも知れぬ。

帯同するに何ものもない無一物むいちぶつがよかろうと万太郎爺は言った。

かる娑婆しゃばに引っ掛かっても仕方がないが、幼き乳呑ちのみ児を置き去るのが辛いように、この髭や尻尾との今生こんじょうの別れは辛い。

しかし、まずもっては玻璃はり欠片かけらを以て自ずよりなる不浄ふじょうを削ぎ落し、この次となる新たなる場所では難行でも苦行でも成すべくしてまた迷いなく、あおい月をえるでもなく見遣みやるが如くによなく上手うまで、以てものと為すことでもあろう。

 此の世での休暇を早めに切り上げるもまたし。

彼らはまたぞろあれやこれやの世に立ち寄りつつも、一層いっそうせわしない時の経巡へめぐりの中を過ごすことでもあろう。

斯様かように別の時空におもむいたものは其々それぞれに何かを創ってはぎ、ねて重ねてまた砕いては壊し、水や風にさらされ流されては時と空とを移ろい、それらを刻み、終わってはまた始まる。

月から生まれた一つのしずく土塊つちくれたるべきこのネコたる私の、この場での休暇も終焉しゅうえんに近づいたという事か。

と言いつつもまた我が歩猫ほびょう灯籠どうろうめぐりを止めざるが如し。


 寂寂そうぞうし 去りにし身にぞ み渡る

  しずくつるも いとまなく


 たまたま緒絲おいとるるとき

  由無よしなそら声音こわねただよふ



 何時いつの事だか、川を渡る気分は如何なものかと、先達せんだちの万太郎爺さんに尋ねたことがある。

「知りたいか。修行の果てには知り得るやも知れぬ。かの孔子こうしも知り及ばぬと言うておったらしいと聞いたことがあるぞよ。わしも若い頃その様なことを考えもしたが、しかし未だに知り果てぬ。れそぼった毛がぞ煩わしい事であろう。そんな事であろうよ。いずれ下衆げす勘繰かんぐりに過ぎぬ」

 否、私にはまつわり付く筈の雫の一一が気になったのである。

追放される身にとって、その身に関わることごとくは毛並みの毛一本にせよ余さず我がものなりとは思うであろう。

死に行く者には既にまとうに叶わぬ、うしなうべき血肉はまた愛おしむべき生の名残なごりでもある。

したたり落ちるのでなく寧ろみ込んでほしい。乳呑み児の母親ならばその乳房に食らいつくものは内なるものも同然であろう。

それは自らの命と選ぶ処のないものであり、わが命と引き換えにしてでも守りたいものであろう。

これを守り得ぬ無念は如何いかばかりのものであろう。

いや、守るべきは無念やおのが身ではないが、それにしても無念も何もかも捨てねば川は渡れぬものなのか。

こだわりやとらわれは捨つるに如かず」

「では、此の無念は如何様いかように致せばよろしいか」

「いや知らぬ。それほど知りたければ、この世を早めに切り上げて自ら渡ってみよ。ただし、この世を出るには魂は確然かくぜんぎ落さなければならぬ」

「物事を観取感得すべき魂そのものの脱落となれば、これ如何ありとてもまた無念なり」

「いやしかし、その時にこそまさしく無念無想となる事であろう」と。


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