第9話 ニャンの五の一 ネコ描きに寄す

 何時いつの事だか、絵描きの野郎と明け暮れ過ごしたが、奴が描いていたのが玲瑯れいろうとして白む、蒼穹そうきゅうひさしに懸かる昼の月であった。

故は知らぬがその絵の片隅におぞましき蛇蝎だかつの如き我がネコの姿を添えるのだ。

何処からやって来て何処へ行くのかも判らぬ、何時から流れているのかもすらも判じ得ぬ、ゴミのような砂泥さでいのような星屑ほしくずの流れのような時を、その中に連綿れんめん包摂ほうせつせるネコ如きの旅の途次にあって、十分なる濃密さを持った光輝のくずどものきらめきさんざめきを大袈裟おおげさにも袈裟けさの如くに一身にまとってこのネコがたたずむ時、光の粒が乱れ飛び、跳ねながらに反射しては黒光りする我が黒曜こくようの毛並みは観るものを恍惚させ、絵描きの審美律を刺激するに足るものらしい。

 ネコ描きの野郎は黙々と、また悠然として筆を執った。

筆はどうやら勝手に動くものらしく、奴は半眼に、あたかも眠っているかのようであった。

自ずと筆の加減速について行けぬ事も屡々しばしばで、そんな折筆致の乱れが奴の動揺を誘うとも思われたが、に非ず。

そのままふらりと部屋を出たかと思うとしばらくは山野を駆け巡って散散に疲憊つかれた挙句に、ようやくに今度は心地よい睡魔のおりあらわれのようなものとともに、くだん描画びょうがが再開されるのである。

曰く、奴自身が描いているのかどうかは判らぬと。

若い頃は寝食を惜しんで明け暮れ山野の写しにいそ|《あし》しんだが、くの如き陶酔はなかったとも言う。

 それにしても今をやり過ごす、奴のこの作務さむとも言うべきは一体何ぞや。

陶酔の中の夢幻なりや。

神と悪魔とをして為さしむる仕業しわざか、或いは御業みわざか。

其奴そやつの画布に顕れているのは、ものによってはにごり絵とも見紛みまごう、およそ人とは無縁の夢幻違和の世界である。

ヒトやネコにとって自然の悠久ゆうきゅう無碍むげとも言うべき断面を写し取り、この画幅に込めたいのだとは言うが如何いかがか。

それは無下むげならず鑑賞者の感得に際する一切の捕捉諒解ほそくりょうかいを忌み嫌い、あたかもそれをこばあざむくかのように鑑賞を違和させては、それらの統合をえて不整合ならしむべき悪意の如き何事かを秘めた異彩を放っている。

世間乃至は人間世界に背を向けつつも、悪魔或いは神にだけはそむいていないとでも言いたげな風体ふうていで、あたかも見る者の目をのぞき込むかのような深甚しんじんならずして皮相なるすこぶる平らかなる色彩による現象である。

 此の見物の様をそれとなく眺めていると、何処からともなく反吐へどを催し、めまいをもたらすような地平のかしさながらの微風が、観るものをそれとなく包み込みつつ、吸い込まんとするかのごとくに襲い掛かり、まさにこれにより幻覚様に朦朧もうろうとなっては、その場に気を止め難くなるかのようである。

常覚じょうかくを奪い去られる様は常人をして立ち処に廃人はいじんたらしむるかの如きもので、曰く言い難いその感覚は本来味わうべくもないものである。

斯くの如き画幅に如何いかばかりの意義もあろう筈もないのは、このネコがこの絵描きに出くわした意義のあろう筈なきが如きである。

 それは兎も角も、暫くは奴に付き合い宿飯の恵みを有り難く頂戴した。

此の根城ねじろは広い森を渡り歩くに好都合であったため、ついつい長居してしまった。

時に月明かりを斜交はすかいにして、これを背に立ち姿を見せれば奴はそれを素早く紙幅、絹本けんぽんに写し取り、それで納得してくれたものだ。

ほかにも幾つか私の寝姿などを習作に残したようである。

言葉少なに私を評価し自分の風景に添えたが、画幅に留め置かれた若き日の私を見るに、悪魔の使徒と言うにはあまりに素っ気なくも颯爽と描かれ、いささかならず片腹痛む思いを禁じ得ない。

 導標しるべなき天路ならぬ遍路の歴程は、斯くなる絵描きの如き多くの名もなきともがらとの出会いを間然かんぜんし、今更ながらにそれら無数の魂を飲み込んできたことへの感慨がない訳ではない。

然りとて長々と流離さすらい、彷徨さまよきたった挙句はと言えば空蝉うつせみの如くに身内には奔出ほんしゅつすべきものは此れなき有様。

嗚呼ああ素寒貧すかんぴんとは斯くの如きものかと今更いまさらを以て然様さように感得した。

此の頃の闇をこうして如意にょいならず独りとぼとぼと歩けば、不意に遠来ながらに温みに身内を充たしつつも、身がうるみゆくほどの背なの温かみを覚える。

 先に述べた奴の画幅に映る遠い昔のあおそらにに浮く昼の月の怪しくも幽かなる白さは、これを受容するに峨眉がび山にかる月の如くに、ある種柔らかな風に優しく身をがれるほどの寂寥せきりょうの景と思しき感興を齎す。

一方漆黒の闇に在る月は厳冬の烈風吹き荒ぶ不羈ふき山の裾野に連なる曠野こうやを淡く照らして、尚お慈悲深い温かみをかもし成してもくれる。

それにしても近頃の宵闇は音にかげさし、時に対しては翳りなく、以て遍く淡く地平を照らす月、川面かわもさざなみに揺れ映ゆる月を得て、一層、ネコのこの私に優しい。

月の闇を滂沱ぼうだたる砂粒溢るる茫漠ぼうばくの地を歩く旅を、くなる情景の内に独り往けば、不意ふい不如意ふにょいいずれかの折に触れた月の匂いが無我、無意識の境地の内に忍び込んでくる様を覚悟するとは、これ恣褒しほうそしりを免れないとも限らない。






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