第7話 ニャンの四の一 歳蔵のこと

 私にとってはただ一匹のさぬ仲の歳蔵さいぞうのことである。

まかって既に星の経巡りも如何いかばかりか。

そろそろ九百九十一年のみか。

奴は根っからの一匹猫であった。

其処そこ此処ここの長老どものいう事などはなから聞き捨てた。

みの私にしても猜疑さいぎの片鱗を髭の付け根辺りに隠しながらも付き合ってくれた。

思うがまま、在るが儘が奴の信条であったろうか。

この身と奴とはわば同じほこらに捨て置かれた誇り高き洞穴どうけつむじなであった。


 奴の無惨に遭った時にはまさしく断腸だんちょうし、すなわちたまい以外の食はこれを断絶とし、七日なぬか七夜ななよ平臥へいが慟哭どうこくした。

奴の運のきもその始まりも怪我けがうしなったいわく付きの片の後脚であった。

奴の幼時の肢脚しきゃく喪失の記憶の有無もることながら、早々と奴の身を去り生死しょうじ輪廻りんねれながらにして既に其処そこには無い奴の後脚である。

自らを置き去りにしたあだの如き一本のそれに苦しめられ、つ救われたと言うが正鵠せいこくか。

同様の渺漫びょうまん的境涯のものはまあ山と居ろうがあらゆる不徳は後脚とともに霧消し、徳本とくほんよろしく皆をして奴を支えしめたのだ。

いや、このに及んでお目頭が熱くなる。

もとより猫の世界に義理も任侠にんきょうもないが、それでも私の如き汚穢おわい野良に身をやつすことなく、誇り高くもその生涯をながらえることができたのが幸い。

それやこれやを考えると徳も何もない野良なる我が身、此処ここに至って尚お果敢はかない死に様の当てをこうして迷い流離さすらえるはあり難き事。

歳蔵とはくだんほこらで幼少のみぎりからともに育った。

奴とは毛色が違ったが、同じはらからの生まれかどうかは知らぬ。

ある夏の日暮れの山からの帰り、川の瀬から山の急峻きゅうしゅん険阻けんその尾根を駆け上がり駆け下っていた時折ときのことであった。

先を走っていた奴が浮石うきいしに足を取られ、跳躍の方向を修正出来ぬままに足を滑らせて崖下の谷底に転げ落ちていった。

そこで私は慌てて歳蔵の後を追って谷底へ駆け下りていった。

見ると奴に落命を示す兆候はなく、何処でどうくじいたかは判らぬものの、奴の左後脚はすでに奴のいう事を聞かなかった。

痛そうな顔一つ見せず、歳蔵は跛行びっこを引き引きこちらへ歩いてきた。しくじったと言うような事をぼそぼそと言った。

黴菌ばいきんにでもやられたのか、その晩から奴は高熱と腫れ上がった患部の痛みにさいなまれた。

ようやくの解熱に、程なくれと痛みが退いたところが、奴の左脚は全く動かなかった。

それからと言うもの当たり前のように私たちが奴の食餌を獲っては運んだ。

すると、どのようにしても奴の行動範囲は狭まり、そのうちに歳蔵は一匹ひとりで過ごすことが多くなった。

長ずるにつけ私は遠征が多くなり、奴には尽くしてくれる年上の燐火りんかが現れたこともあって、奴とはそれきり疎遠になっていった。

 その後燐火が教えてくれた処によると奴が如何に愛らしい奴であったかという事であった。

子も多く成し、係累けいるいの多きが如きはこれを以て命を継ぐばかりでなく、いろどり華やかな生涯のかてともなり得たとは聞くが如何いかに。

野良には違いなかったが私の如き野卑やひではなく、その頃から時折に見る修験しゅげんの者どもや禅寺の坊主どもとの付き合いもあったようだ。


てい脚は安らかなりしはりえんじゅ

 常ならぬ身は菩提ぼだい御手みて


まれし山駆け巡る野良なりや

 里ならずして野にてこそあれ


虚仮こけの世をこけまま

 ときちりあくたも桜とは知る


 荼毘だびとむらいを追えて奴のしとねへ来てみれば、そこは

もりの外れにあるわびしい破風はふれの東屋あずまやの縁の下であった。

この時のひさしに掛かる月はほのかにあお白くまた物言わず、寂寂じゃくじゃくとしてまた素っ気なくも見えたが、こちらに優しい眼差しを向けてくれているようにもかんじた。

縁の下の奥まったところに奴のにおいのみついた一隅いちぐうがあった。

月明かりに奴のおもかげしのぶに、事もあろうに奴の非在ひざいかたどる土のくぼみこそがその主の唯一の存在のあかしであったとはあたか如水じょすいの如し。

一切の無駄むだを排した、余計なとらわれこだわりのない猫の潔さとはくの如きもの。

此のやしろにはずっと若いころから厄介になり、もううの昔に亡くなった臨済りんざい坊主の不覚ふかく殿とも馴染みであったが、其奴そやつ痕跡こんせき一切なきが如きは何と歳蔵同様であったらしい。

猫がなつくのを好しとせぬ一群のヒト連中が居るのを我々猫どもは知っている。

それでも歳蔵はそれを嘆くことはしなかった。

最愛の燐火を亡くし、或る頃からは食い物をヒトに頼る事もしきりとなり、即ちその傲岸ごうがんさを許すにやぶさかならずと見て取れた。

近くの森には仲の良いむささび啄木鳥きつつき蝙蝠こうもりもいたようだ。

当然の如くにびを味わうべき月や雲、耐え忍ぶべき風や雪もあったことであろう。

くして燐火亡き後の奴の日常も有象うぞう無象むぞうに彩りに満ち満ちていたのであろう。

奴が死んでようやく脱ぐことが叶ったその足枷あしかせをどの様に思っていたかは定かではないが、多くの知己は知らず常なる助けともなり、互いの生を以て自ずとこれを謳歌おうかしたとは言う。

すがし百合ほどの器量の歳蔵であった。


野苺を喰らえ谷中やなかに墓一つ

 こしゆとても百合なりてあり


此度こたびにはの落ち寂藪やぶいお

 甘露かんろこそ置け得難きしとね




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