第3話 ニャンの一の三 空不空

 闇にあってはもくすることあたわざる美麗なろう景観に、我が勝手なる心映えが看取する余所余所よそよそしさには一瞥いちべつをも呉れず。とは言え、当てを探すでもなくただただに行き行くのは、ネコをしてネコならざる未生未変化みしょうみへんげのものへと回帰せしむる営為かと穿うがちたくもなる。

それは此処ここたたずむネコたるのこの私が漆黒しっこくの暗闇に只管ひたすらに降り積む、そこはかとなく白く果敢はかなく澄み切った無垢むくが敷き詰められるかのごと淡青あわ月照げっしょうの中、それに一途いちずに同化していくかのようで、いわく言い得ぬ。

有り難くも、それは存在としてのネコである無しを云々うんぬんすることの無意味を、改めて月下にさらしてくれもする。

 白く果敢なく美しい無垢なるものへの昇華しょうか希求ききゅう宜しき感傷は無用ながらに、酔いもせぬのにおぼろとなりて、母をも知らぬ我が胸に子守唄こもりうたさながらの音響が去来きょらいする折には、つい斯様かようなる感興が頭をもたげ来る。

宿やど無し流離さすらいネコの寝床の定まらぬよいには、下らぬよし無し事をもてあそんではその辺りのやぶに捨て置くばかり。

所詮しょせんのこのネコがネコの脳髄のうずいを以て、てこの愚昧ぐまいなるネコが果たしてこのあらゆる、生きるもの、生きざるものの為す世に真にかなうものであるかどうかなど、あるいはネコの生き死にが如何どうのと詮索せんさくしても、まさしくせんの無いことに違いあるまい。

 ネコならざる未然みぜんネコへの回帰は、また未生みしょうを更にさかのぼることにままならず、望んだとて果たしてかなわぬこと。

我、我々がこのネコのあしき洗おうなどとして、如何いかにこれに精進しょうじんを重ねたところで、あらゆるこれらのネコは所謂いわゆるネコを脱却だっきゃくするあたわず。

ヒトがえて解脱げだつ超克ちょうこくおかそうとするも、果たさざるにえて脱落し、いまだヒトならざるもの、あるいはヒトたらざるものに解脱しようとすれば、それはヒトの世との決別を果たすことに他ならぬ。

畢竟ひっきょうこのヒトの世にあっては、人の脳髄の架空かくう以外にヒトの言う涅槃ねはん懸架けんかせらるる場所などあろう筈もない。

彼岸ひがんにこそ在るべきものを求むる所業しょぎょう虚空こくうを、また光と闇とをたなごころつかみ取る試みに径庭けいていを為さぬ。

ネコはあくまでもネコとして遷化せんげし死にゆくのみ。

ヒト畜生にとって無害の感傷ならば無用となるもまた結構。

漸近ぜんきんは果たして合一ごういつせぬもののいである。

 く言う私はこの呼吸がまなかった一千年の間、果たして一刹那いちせつなたりともネコならざるものへの遷化せんげの希求がなかったかと問われれば、はなはだ疑わしいと言わざるを得ない。

ヒトの愚行ぐこう、無節操は目をおおわんばかり、それら数多あまた無定見むていけんの当たりにするにつけ、敢えて思わざるところなし。

然様さようり、あるいいは私がネコでないおぼろなる何者かに遷移せんいして、在るべきところにあらず、一方またあり得べからざるところにありながらにして宇内うだいくあったとは果たしておぼゆる処なし。

く斯く思い尽きせぬものとは言いじょう、ありと在ることの蓋然がいぜん曠野こうやに移ろうネコの身にあっては、すなはち枚挙の手を尽くし得ぬ事とかは知る。

 星々の眠らぬある夏の宵、鉄のわだち驀進ばくしんする黒いはがねかたまりに跳ね飛ばされ、くだん巨蛙きょあの如くに砕け散るべき身の千々ちぢに乱れてはじけ飛んでは、落命寸前の魂魄こんぱくである狐狸こり神の傀儡かいらいが、何の因果か野良ネコの我が身に憑依ひょういしたものやも知れぬ。

常に茫漠ぼうばくとはしながらも、悩み多き雲水うんすいごとく、何処どこからきたったかも、ここで何を為すべきかも、果てはどこへ消えゆくかも知らず。

かすかなる鳴動は背肋はいろくを介して身内みぬち深くにみ渡り、よく分からぬもののみなぎりを感じもしたような。

て不覚ながらに四肢は前後左右に系統を分離することもなく、体躯たいくの均衡はその重心たるの部分を寧ろ後脚付け根辺りには意識されなかった観がある。

またその時、我がネコたるの意識は音楽の愉楽ゆらくにももとらぬ律動的言語にも似た言霊ことだまを以て、はるけくあまねくもまた限りなく狭い牛額ぎゅうがくならぬネコの脳髄の架空に懸架されたる碧空へきくうをして反響せしめていた観がある。


不空ふくう羂索けんさく観音を滑りおる

 ネコならずして宙空そらにもちず


折節おりふしりネコや地を眺む

 すがし香りに身をひそめつつ


あま晴るるてる月ある榛葉はるは踏む

 虚仮こけす墓をももなぐさ



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