第2話 ニャンの一の二 死屍月照

 全体、数多あまたとは言えいくつの骸躯むくろに出逢った事か数知れず。宵闇、雲隠れの月あかりや星明りをたのみの旅ながらに思うに、無数の落命は此処彼処ここかしこ死屍しし点描的散逸てんびょうてきさんいつを果たし、雲間の月あかりは不躾ぶしつけ驕慢きょうまんにもこれを薄暗がりに照らし出すのである。

これらはわば塵芥ちりあくたのように、在るともなくあり盛者必衰じょうしゃひっすいことわりかないながらも、あまねき天空のもと、古来白くうずたかく積み重なり、嵩張かさばってはおのずと一景を為している。

 ひるくら冥界めいかいさながらの此の地は生きものたちの現世とともにありながらも、生きている者たちの世とは決して交わることもなく、何ものかが往還することもないような、すなわち、開かれつつも隔絶された場所である。

ここではいわば光の奪われた、緩慢で名状しがたい時が渦巻きながらに吹き過ぎるかのようである。

光は振動や拡散の中でのみあり続け、時とともに減衰しつつも生きている者たちの命をこの地平に照らしながら、そこには決してとどまろうとはしない。

光の射すことのない場所では流れとしての時間は、言わば石に封じ込められたかのように不断にその流れを断じられ、閉じられているかの如くである。

一方で光はと言えば、あたかも自身の振れ幅や速度を減じては保つべきおのが威厳をうしない、拡散することもなく、次第に自らの命である動きや明彩そのものを失うかの如くである。

こうして、始まりも終わりもない悠久ゆうきゅうの無としての永遠無窮えいえんむきゅうと呼ばれる何ものかが食い千切られては散り散りになった時の断片の如きものや、何ものをも照らさぬ黒耀こくようの如き光の残骸が此処彼処ここかしこき散らされ、すでにして生きることをやめ、置き去りにされたまま、数知れぬ骸躯をおおっては、これらを無明むみょうのうちに支配しているようなものか。

 一掬ひとすくいの光にも満たぬしばらくの時のしたたりが形のないせきにぎこちなくぶつかっては力なく宙に舞い、流れることのない飛沫ひまつ様の塵埃じんあいとなって風に舞い、雲散うんさんしつつもどこかに参集しては降り積もり、常なる死やしかばねを薄暗がりに隠蔽いんぺいする。

闇に隠されたものたちは只管ひたすら其処そこに止まらざるを得ず、口をつぐみつつ自らに振り積む更なる古びを見届けるのみである。

それらのもののあるものはしばらくの居眠りの先に生きた者たちがまだそこに居るとすれば、いつかの時機ときに彼らの地平、陽光の下に回生し現れゆくのかもしれない。

 蒼暗あおぐらぬめりとした月の光がでるが如くに暴き出す漆黒の地平、或いは魔美まみ山の祈祷きとう場ともおぼしきその場所には、至高善なる魔物の手によって辿り着いたものや死神に引きずり込まれた者、悪魔との取引に応じた大勢の者たちがいよう。

中には様ざまなこだわりやとらわれなどのさわりのために命のあかしともいうべき毛という毛を毟り取られ、うめきつつ転がっている者もいよう。

さて愈々いよいよであるが、毛の残り少ない私もその場所へ、今や毟り取られる側の者として、自らの命をささげるためにおもむくのだ。果たして老い耄れの新入りは歓迎されるや否や。

背なを丸めて盗人ぬすっとよろしく相老あいおいの門をくぐるが相応ふさわしかろう。

その門を潜った途端、幾許いくばくも無い私の余命は彼らに毟られ貪られては瞬く間もなくかすの如くとなろう。

こうして不遜ふそんにもこのネコは神仏に哀れな老い耄れの残り滓を捧げるのだ。嗚呼ああ、もはや何たる事か。


 月明かりにたたず白木蓮はくもくれんの中ほどより覚者かくしゃよろしき法師蝉ほうしぜみ外連味けれんみなく、何と有り難くも、立ち尽くす私の背なを優しく押し遣るが如くに大音声だいおんじょうを振り掛けてもくれる。

それはこのに及んでなお身濯みそそぎを行えと言わんばかり、それにしても斯様かようなるわが心映こころばえは果たして怪しからざるものであろうか。

わば無為無駄に猫齢びょうれいを重ねたのみの去勢野良きょせいのら分際ぶんざい、今更何をか言わん。すみで目立たぬが宜しかろう。


 我が些細ささいなる悪行の至りは、或いは彼ら在ってこそ達せられたものでもある。

如何いかんせん。

加害と被害とは表裏一体、貝の身とふたとがあるべく、一方のみで成り立たないのは火を見るより明らか。

其処そこに見えてあるものは食すものと食されるものと言う主客しゅかくの関係にすぎぬ。

道理にしたがってこれを見れば、すなわち彼らの身内みぬちなる食さるるべき何ものかが私を呼び寄せたにかず。

我が閻魔えんまたる仏性ぶっしょう顕現けんげんともいうべき我が悪は、かつあざむくことなく我が身にき宿ったが、今となっては私を離れ、またぞろ誰かにまとわりついているやも知れぬ。

 常々に我がるべき洒落しゃれた形のこうべのその髑髏どくろふた裏の奥の院には、一人一者にやや一つ、鎮魂ちんこんの墓標でもなければ混沌こんとんのうねりでもその逆巻さかまきでもない何かが鎮座ちんざするにはたがいはない。

即ち、何処どこ何奴どやつをして言わしめたかは知らず、寒月夜かんづくよ野晒のざらしが甘露かんろの如くに旨いとされる脳髄なるものが在るとおぼしい。

どのような者のそれでも、その脳の髄とやらはこれを舌に載せるに、あたかほふられくらわれるのをみ嫌い、拒むかのごとくに舌にしびれ、小粒の山椒さんしょの実の如くにはじがれるようなたえなる感覚をもたらす。

多くのものの味わいは相通ずるが、就中なかんづく琢磨たくました宝玉ほうぎょくくあらんほどのちぢしろの少ない極寒ごくかんの晒しは、悪しきえぐみを去ってしょくやすく、絶品のほまれ高きものとされる。

しかし、いまにもちんとし、或いは堕ちて間もない魂魄こんぱくの場合、噛みしだくにささやかな索粒さくりゅうがこれにあらがい、あたか叛逆はんぎゃくの意図あるが如くに食い千切り難いため、有無を言わさず、ぐつと呑み込み、熱い茶でくちすすぐがよろしい。

 其奴そやつらがひとたび冥府めいふならぬ我が胃のに落ち、これを過ぎる頃にはやや落ち着くものの、しばらくは心の臓が一際ひときわ高鳴りては安らわず、尚お揺らぎに定まり難く、目眩めくらみに刹那せつな茫然ぼうぜんとはするものの、これは思うに血潮が毒気を帯びるに至るがゆえであろう。

くて不思議にも、こちらが我知らずおのが罪深さを悔いるような心持ちとなるのである。

しかして、やがてはおのが胃の腑と心の臓とで破邪折伏はじゃしゃくぶくし、成仏じょうぶつせしめたようにもかんずるのである。

此のたえなる味わいはひとたび身に染みわたり、舌に占めると病みつきとなり、此れ無くは日も暮れず、夜も明けぬ。

魚や鼠のかしらかじっても針のさきほどの味噌も入ってはおらぬ。

大きな獣の、就中なかんづくヒトのものに限るというのは、この一千年を通じきたった私の舌がこれをあかし立てしている。

 日に幾千、幾万もの命がち掛かるが、この私は自らしかりと、おのあるじたる夜叉やしゃ王とも言うべき青面しょうめん金剛がにらみを効かす、あおぬめりの月光がっこう照顧しょうこされたその場に何の苦もなく出くわすのである。

一闡提いっせんだいたる無一物の我こそは死屍しし葬送そうそうの見届けぞよとばかりに、刎頸ふんけいの上、其奴らの脳髄をすすり喰らってやるのである。

かくして我が胃の腑を満たした脳髄のかけらをとした者どもは、冥途を経て程なく迷いもなく涅槃ねはんへと赴くことができるのだ。

これ果たして悪行なりや。

不幸にして我が臓腑のかてとならざりし者どもの中には冥府めいふへと到ること叶わぬ者もおろう。

果ては餓鬼がきとして土塊つちくれ同様、そこかしこに止まらざるを得ない。

すでにして存分なる老いを果たし、望むらくは回生のない安寧安穏なる示寂遷化じじゃくせんげという事か。

いずれ望まざるにせよ、の地での回生ないしは示寂、此の地での幽囚地縛ゆうしゅうじばくの何れかは窮侭きゅうじんつづまる処、ただだこの刹那せつなに係るのみ。

 この老いれネコの私が悠久の昔、有罪でも無罪放免でもなく、の地を永久追放された意味は伏せられているかに見える。

無論この限定的ならざる追放について私が敢えて忖度そんたくすることもない。

在りとある生まれずるものの宿業しゅくごうは明らかな生との表裏をなす深淵の暗部にこそあれ、明らかならざると言うにかず。

このに及んで私がそれを云々うんぬんする要もないが、その暗部にも実のところ、瑞巌ずいがん寺の夕照せきしょうを映す葉先の露ほどの意味もない。


 我がこれまでの行状行跡の惨憺さんたんたるや今更何をか言わん。

それでも死期にある者への処刑のり行いは不昧ふまいならざる不条理との通脈を為さざるを得ない。

常態における霹靂へきれきの如き荒唐こうとう途端とたんなる寂滅入定じゃくめつにゅうじょう如何様いかさまにも鮮烈を印象する。

これは足下そっかに生を延べていくべきもの一般にはけだがたしと言わざるを得ない。

ひるがえるにいてし後の死はごく有りれた、ありうべき事にして有り難からざるも条理。

 しかるに私が自らにやいばを向けつつあるとすれば、それは愚昧ぐまいなる我が生のささやかなる意味を条理の内なる無意味により韜晦とうかいするかの如きものであるが、精々せいぜいのところ一粒の麦の如きこの脳髄にあって、これが十全を果たす決着をもたらすのか如何どうかは敢えて判じ得ぬ。

ただし死が所謂いわゆる回生の契機としての寂滅じゃくめつであるとすれば、ここでの決着は待たれなくてはなるまい。

 安寧なる死についてはがえんずるにやぶさかではないが、要諦ようていは寧ろ長老の暗示した死の処方をいかように決着させるかという事であったろう。

自身の回生をむ無しとはしないこのネコが、謂わば狐狸こり神の領域にあると言うべき悪行を自ら封印する所業の果てしなさに怖れを抱くのは、凡庸ぼんようなる我が身の遠く及ばぬ悪魔に対置するに、善なる魔をもってする安易さを許容する身勝手さへの戒めの如きものと言えよう。

またそのように俚諺りげんにもある。


黒猫は かなしからずや 退きて

 染まずただよふ 瑠璃るりの闇にも


規矩のりとせず 狐狸のかおりの 秋刀魚さんま

味噌みそ山椒さんしょも 力役りきえきに死す


 我がネコ如きが闇にあってまさしく間然し、時に寛恕かんじょし、そのものとして端倪たんげいすべからざるものをつかもうと躍起になったとて、それが何事であろう。

この目に蒐集あつめたわずかばかりの星明りを我が脳髄の架空かくうにも似た無邪むじゃの野に放擲はなてば、闇は寸毫すんごうもない刹那せつなその息吹を取り戻すかに見えるが、瞬く間に元の木阿弥もくあみとなる。何もかもが何処どこかに吸い込まれ、灰燼かいじんすら消え失せ行くその場所で、彼奴きゃつらは不断の暗がりをどのようにり過ごすのか。

何を想うのでも、眠るのでも、星を仰ぎ見遣みやるでもなく、闇の岩陰にひそむと聞く毒蛙どくあの如くに座して黙して祈りの時を過ごしつつ、ただおのが身を屈めて居るのみか。

 この辺りを彷徨さまように、邪気じゃきどころか、いや増してこの全霊をネコぎに殺がれる心持ちとなる。くまでながらえると、おのずからなる邪気の気怠けだい重みを取り払って、澄み切った魂の畢竟至極ひっきょうしごくのぞいてみたくもなる。

今となっての是非はともかく、く風前の灯火ともしびの如き我が煩悩ぼんのうが、しおれながらにある我が生命力同様、薄れ行きつつあるのを、擦り減った歯牙と抜け残った白髭の垂れ具合とがそれと教えてくれる。


夜謎よまい猫 懊悩おうのう浅き皓顔かんばせ

 野晒しの霜に そっと置くかな


吹きすさう 野に白雪の降り積むは

 優し哀れみ 無しとこそ知れ


そこここに 横たうものの さびしみに

 きた久遠くおんの 曙光ひかりくら







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